■貧困親、再び

少し前に僕は「貧困親」と題して(「貧困親」~アンダークラスのコアと再生産)、アンダークラス家庭での文化の再生産について考えてみた。

そこでは、言葉の語彙や表現の「少なさ」と価値観の「狭さ」が再生産されており、それらを多くしたり広げたりすることは難しい。

全国のNPO等が取り組んでいる「学習支援」もよほど粘り強く取り組まないことには、家庭内の少なさと狭さのパワーに呑み込まれてしまう。

あの原稿を書いてから2ヶ月くらいが過ぎたが、貧困親そしてアンダークラスの紋切り文化の再生産については僕はいまだに悲観的だ。

最近では、自分が飲んでいるコーラを自分の子どもに与えてしまう若い貧困親の話を聞いた。

もちろん僕はコーラが悪いと言っているわけではない。僕も時々買ってコーラは飲む。それはある種の発明品であり、大人になってからは大好きな飲み物の一つだ。

が、コーラを2才の子どもに僕は与えようとは思わない。その科学的根拠はまったくないが、僕としては「とりあえず」与えない。

それは成人には耐えられる刺激かもしれないが、幼児にはやはり難しいと思う。同じように、(幼児用ではなく大人用に売っている)チョコレートも与えない。

が、その若い貧困親はあまり悪意なくコーラを与えるようだ。僕はその場面に遭遇していないので実際2才児がコーラを飲めたかどうかわからないし仮に飲めたとしてもそのことが2才児の健康にほんとうに悪いのかどうかもわからない。

■過剰な規範主義か

僕が規範的、あるいはモラル過剰なのだろうか。

コーラが実際に2才児の健康にいいかどうかはわからない。が僕であれば、「とりあえず」ダメだろうと思って与えるのを控える。

これは、見えない規範主義だろうか。こうした「過剰防衛」が、不必要な規範を子どもたちに植え付けるのだろうか。

それとも単純に「2才児にコーラはダメ」と割りきり、飲むことを禁止してもいいのだろうか。こうした日常のルールづくりこそが、子どもたちの内面を豊かにすると信じ、学校の教員のように、保守的な倫理学者のように、「子どもにコーラはダメ」と言うほうが子どもに対して結果として誠実になるのだろうか。

実は、こうした「問い」を抱ける余裕がある事自体、僕自身に余裕があるということを示している。

普通、コーラを子ども与えるアンダークラス親は、こうした葛藤を抱くことはない。なんにも考えず、横に座る2才児に向けて「ほら」とコーラの缶を差し出す。

そして子どもは何も考えず(2才児であれば当たり前)その缶を受け取り、炭酸に辟易することだろう。

■コーラは「親密さ」なのか

若い貧困親からすると、コーラはやっぱりヤバイかなと思いながらも、「親密さ」のひとつの表現がそのコーラかもしれない。

それを言うなら、家族(妻や子)に対して怒鳴ったり時には暴力をふるったりするのも、親密さ、言い換えると「愛」の一表現だと、若い貧困親は弁明する可能性もある。

たとえばあのドストエフスキーの小説等、「本当の」文学を読んでいる時、こうしたどうしようもない人間の馬鹿らしさについて描写されていることが多々ある。

たとえば日本であれば中上健次、アメリカのポストモダン文学であればT.ピンチョン、「暴力」は人間(あるいは男性権力社会)を語るときに欠かせない要素で、それを完全否定すると文学あるいはこれまでの人間の表象作品すべてを否定することになりかねないほどの、それは「人間」を語る時に欠かせない要素だ。

が、正直に言ってしまうと、コーラを2才児に差し出す若い貧困親に対して僕は腹が立つ。

支援者としてはこれは失格だろうが、珍しく腹が立ってしまう。いつもであればそれは支援の対象か冷笑の対象なのだが、僕には珍しく「2才児にコーラ」は腹が立ってしまった。

僕は、ドストエフスキーも中上健次も好きだし文学は高校生の頃から深く接してきている。その「不完全さ」こそが人間だとは重々承知しているつもりだ。

が、2才児にコーラはないだろう。

この怒りを僕は無理して抱え込まないことにした。若い貧困親はこうした誤解や怒りに常にさらされている。そして彼らは誤解され怒られながらも幼児と日々接していかなければいけない。

そのような義務を持った若い貧困親に対して、社会はスムースに伝えていくことがある。★