「渚」のように聴く家族〜第3の「聴く」

■カウンセリングとコンサルティング

僕は、面談や講演などで、ひきこもりやニートのこどもをもつ親が「面談相談」を受ける場合、カウンセリングとコンサルティングの2種類があるとこれまで親たちに伝えてきた。

カウンセリングはカウンセラーによる傾聴行為で、クライエント(たとえばひきこもりをもつ親)の言う愚痴や悩みに対して、うなづき反復し明確化する行為だ。

基本的にカウンセラー側から話しかけることはしない。

コンサルティングとはアドバイスや情報提供のことで、キャリア・コンサルティングがその典型だ。仕事に関する情報を整理し本人の志向を整理しマッチングしていく。

専門家による「聴く」には大雑把に分けてこのふたつがあり、現在現場で起こっている現象は、コンサルティングを求める家族に対してカウンセリングのみを行なうカウンセラーが対峙してしまう、ということだ。

こうした場合、通常は親は苛立つ。多くの場合、親はコンサルティングを求めている。が、目の前に出てくるのはカウンセリングだけを行なうことのできるカウンセラー(多くは若手の臨床心理士)だ。

情報とアドバイスを求める親と、「聴く」ことだけの専門トレーニングを受けたカウンセラー。

カウンセラーにも当然言い分はあり、情報とアドバイスを焦って求める親の「心の裏」に、本当の親の問題があるとみている。だから親が求めるコンサルティングに簡単には応じずカウンセリングに入れる瞬間をひたすら狙う。

そのカウンセリングは皮肉ではあるが、結果として「権力関係」を形成する(コンサルティングも同じだが)。哲学者のM.フーコーが指摘するように、「聞く側のほうが権力側」となる(フーコーは教会で行われる告解を例にあげる)。

■オープンダイアローグや哲学カフェ

僕は長い間、「聴く」ことに関するこの2つを峻別し、現場でも実践してきた。

が、この頃、実はもうひとつの「聴く」があるのでは、と思い始めた。

それは「対話」ではない。

たとえば今注目される「オープンダイアローグ」(ひきこもり支援で有名な斎藤環氏が日本に紹介した)や哲学カフェ等をはじめとした最先端の対話は、当然「聴く」ことがベースではあるものの、その「聴く」をベースとして起こり流れていく、複数の人々がつくりだす一連のムーブメント(運動)として僕は捉えている。

ダイアローグは、「聴く」がベースにあってその上で行なわれるムーブメント。

「聴く」もコミュニケーションではあるが、それは「対話の成立の契機」的意味合いをもつ。対話もコミュニケーションではあるがそれは「対話の流れ」的意味合いをもつ。

同じコミュニケーションではあるものの、次元(オーダー)の違う行為だと僕は捉えている。

コンサルティングはどちらかというと「流れ」の次元に入るかもしれないが、ここでいうコンサルティングには「どういう他者と話すか」という前提は問わない。一方、オープンダイアローグや哲学カフェは、まず対話の構成メンバーについて考察する。

聴く側の行為のみに焦点を当てるコンサルティングは、一見対話に見えるかもしれないが、それは「聴く」という一方的行為の分析になる。対話よりさらに下のほうで行なわれる行為という意味で、それは「聴くというベースメント」のひとつだろう。

■「聴くことの権力」ではない

まあややこしい議論はさておき、カウンセリングでもコンサルティングでもない「第3の『聴く』」を説明するのは難しい。

その「聴く」を喩えるなら、たとえば「浜辺」や「渚」のようなものかもしれない。

語る人は、自分の語りたいことを波のように語る。その波はそれほど荒れることもなく高くなることもないが、まったくの凪というほどおとなしいものではない。

語る人はその波(言葉や表情や声)を、とにかく浜辺(聴く人)へ寄せていく。波を、渚(聴く人)を目指して打ちつける。寄せ方や打ちつけ方もそれほどハードではないかもしれないが、それなりの力はある。

そして語る人は、波を自分に返してほしくない。その波とは「対話」したくない。アドバイスもいらないし情報もいらないしミッションの形成(経営コンサルティング)もいらない。

また、波を打ちつけられながらも、打ちつけられることで渚が「上」に立つことを望まない。渚が声を打ちつけられることで、その打ちつけられた対価として、こちら(語る人)からさらに「悩み」のようなものを引き出し、語る人が悩みのようなものを整理させられ、語る人に対して何らかの「治療」とつなげてほしくない。

つまりは、波を受け入れることで、その渚には「受け入れる権力」にはなってほしくない。カウンセラーやコンサルタントは、聴くという権力を有しているが、第3の「聴く」は、こうした権力関係から自由になっている。

■渚になってみる

ただただ聴く。渚のように聴く。これは、職業人にはおそらくできない。想定できるとすれば、「家族」かもしれない。

が、権力を意識しないでいれば、「聴く」には常に権力が滑りこむ。だから僕は、最も親しい人に対して、これまで「聴く」ということがなぜかできなかった。

親しい人に対して結果として「権力」を発動してしまう後ろめたさがあったのかもしれない。

が、「渚」を意識すれば、僕も聴けるかもしれない。

それは結果として、語る人を癒やすかもしれない。

また、たとえば、アンダークラスの親ができることとして、この「第3の聴く」を提案できるとこの頃は思う。

虐待なんかせず、ただ浜辺のように、渚のように、高校生の子どもの言葉と表情に打ちつけられてみてはいかがですか、と僕は提案してみたいと思っている。★