「貧困親」~アンダークラスのコアと再生産

■親が「基盤」になれない

アンダークラス(下級階層)の支援者(ソーシャルワーカー・カウンセラー・教員)をスーパーバイズしていると、絶望的な壁にぶつかることが多い。ミドルクラス(中流階層)であれば大戦力になる基本資源がアンダークラスには欠けていることが多いからだ。

その大戦力とは、なんのことはない、「親」だ。

ミドルクラスの代表問題であるひきこもりやニートの問題であると、当事者が30才(30なかばがひきこもりの中核)だろうが40才前半だろうが、まず支援する対象は親になる。

ひきこもって支援施設につながらない当事者にはまずその親に面談し、親と関係性を構築し、親と「共闘」していき、ともにひきこもり脱出の作戦を練る。

それはなかなか粘りが必要な作業ではあるが、この基本資源(親)がこちらの要望を理解して動いてくれると、なんらかのひきこもり脱出の動きに繋がる(親と支援者が対立したとしても、そのネガティブな事態が、次の支援機関~当事者にとっては「次のステップ」ということになる~に繋がることになる)。

そうした意味で、支援の基盤/土台(親)がしっかりあるミドルクラスは、時間はかかるものの支援計画は容易に立てることができる。

■子は親を「信頼」する

が、アンダークラスの保護者(ミドルクラスの親のようなシンプルなあり方ではなく、シングルマザー/ファザー、それらの恋人的存在、いわゆる「ステップファミリー〈シングル親同士がそれぞれの子を連れたまま再婚〉」等、多様な形態がある)で、子どもに何らかの問題が出ている場合、ミドルクラスの親のように「支援の基盤」として位置づけられない。

そこには児童虐待という現象が併存しているが、そうした虐待事象だけではくくることのできない、なんとも言えない距離の遠さを感じる。

虐待には、性的暴力、身体的暴力、言葉の暴力、生活(衣食住)の育児放棄、経済的(学費等)育児放棄などが含まれ、だいたいはこれらが複数同時に並走している。

高校生(ハイティーン)の頃までは、人は、まだまだ「他者への信頼の欲望」を純粋に抱えており、その欲望は第一に親に向かう。

当然実の親に向かうことがほとんどだが、いわゆる「アタッチメント」(「愛着」と訳されるが誤訳に近いと僕は思う。しいて言うと「密着」や「一体化」といった物理的ニュアンスとそれに伴う「絶対的信頼」といった心理的ニュアンスが強いと僕は解釈している)形成期に親身になって育ててくれた少数の大人の存在により、乳児は「他者への信頼」という人間的「土台」を形成することができる。

アタッチメントは1.5才時までに形成されるといわれるが、虐待被害は0才時が最も多いといわれるからもっともっとそれぞれの親に対して信頼を抱けないのでは、と僕は思ったりするものの、ハイティーンまでは被虐待児であっても子は親を基本的に信頼している。

■「愛の欠如」

この、なんともいえないいじらしさを貧困親は無意識的に利用しているのかもしれない。いや、貧困親自身が被虐待体験を持つことが多く、貧困親のそのまた親(貧困祖父祖母)を、貧困親は内面化しモデル化してしまっている。

これら貧困親も貧困祖父祖母も、子に対して暴力をふるい家庭では少ない語彙しか子に与えず紋切り的価値を子に押し付けている。

物理的暴力以外の、この、「少ない語彙」と「狭い価値」が貧困層の二大特徴だと僕は考えており、この少ない語彙に基づいたよくある価値(たとえば紋切り的「愛」)が貧困若者を「閉ざして」いく。

貧困に基づいた紋切り規範が、紋切り的人間関係(たとえば「普通のヘテロ恋愛」等)を構築させ、短期間で破壊する。

虐待の連鎖の裏には、貧困層が構築している、1.スモールサークルの関係性の中で、2.紋切り的価値や規範を信じこみ、3.狭い語彙に基づいたコミュニケーションが展開している、そうした何重もの「狭さと少なさ」が土台にあると僕は解釈する。

こうした「狭さと少なさ」を土台にした人間関係が、「愛の欠如」のような捉えられ方になることがある。

関係・価値・語彙の狭さと少なさの結果「子が遠くなっている」のだが、これをある種の人々は「愛」の欠如として捉える。

■ミドルクラスにはわからない

この、「関係の遠さ=愛の欠如」としてまず捉えてしまう人々は、おそらく経済階層には関係なく幅広く分布しているのだろうが、アンダークラスの場合、実際に虐待を行なう親は珍しくないため、規範的判断(あるいは断罪=「愛がないことは悪い」)を放棄しているように僕には思われる。

微妙なダブルバインドがここにはあり、貧困層が抱く紋切り規範を自らも抱きながら、自身が虐待をする場合、ある種の諦念・他人事・切り離しのような心理的メカニズムが働いているのではないか。

一方で、自らの日常からは虐待や暴力から遠い人々、つまりはミドルクラスの人々が、上のような「関係の遠さ=愛の欠如」として捉えがちになると僕は観察している。そして、アンダークラスの問題を支援する人々(ワーカー・カウンセラー・教師等)が、多くの場合ミドルクラス出身だという構造がある。

ミドルクラスには、アンダークラスの問題(暴力と放棄)が実感としてわからない。これが、「愛の欠如」といった価値判断に押し込んでいき、こうした貧困親の事例が目の前に現れた時、思考困難になってしまう。

ポストコロニアル哲学(たとえばG.スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』みすず書房参照)で指摘されるように、支援者・研究者といえども目の前の事象(たとえば虐待)から「透明」になることはできず、支援者自身が抱く価値や世界観で目の前の事象を解釈してしまう。完ぺきな第三者はこの世界には存在しないのだ。

正直いって、ミドルクラス出身である僕もそうだ。日々悩む。

が、このような、1.対象のリアリティ(狭さと少なさ)と、2.支援側が「透明」でいられないことを同時分析しないことには、これから50年以上は続くと思われる階層社会・階級社会(階層社会が世代間連鎖していく20年後には日本はヨーロツパのような階級社会になるだろう)において、そこでの当事者のサバイブを支援し、社会構造を変革していく動きをつくることはできないだろう。★