■「ま、いいか」的に認める人がどれだけ多いか

今日(7/15)、「集団的自衛権」法案が国会で強行採決されたらしい。

当欄は青少年問題を論じる欄だから、安全保障論には直接言及できないのだが、今回の強行採決をめぐってはやはり少子高齢社会における人口問題を僕は考えざるをえない。

60年安保や70年学生運動を人々は思い出し(あるいはそれぞれの知識と重ねあわせ)、対権力として、アンチ戦争運動としてついつい語ってしまうようだが、世論を動かすのは実はもっと大きな「川」の流れのような動きだと僕は思う。

つまりは、「その政策を『ま、いいか』的に認めてしまう人々」がどれだけ多いかどうか、ということがポイントだと思うのだ。

そういう意味で僕は、今回の法案があっさり通ってしまったのは、たとえ現政権に若干違和感があったとしても、「(民主党的)リベラル政権よりは、ま、いいか」と思う人々が実は相当多かったということに尽きるのでは、と思っている。

ポイントは、どう多いか、ということだ。

■「18才以上」は茶番

それは、少子高齢社会と直結すると思う。参政権を18才以上にしたところでそれはかなりの茶番で、18才以上の一学年100~120万人程度の人口パワーでは、団塊世代の一学年240万人以上のパワーにはとても勝てない。

その団塊世代をはじめとして、大きな人口パワーをもつ人々が毎年引退して「現役労働者」ではなくなっている。言い換えると、現実の世界から遠い人々が大量に引退世代として毎年組み込まれている。

それらの人々は現役ではなくなるけれども、「政治」には、あるいは現実には、積極的にコミットメントする人々だ。

そのような人々は一昔前であればマニアックな人々でしかなかったが、そしてそれらの人々一人ひとりからすれば昔も今も変わりなくマニアックであるが、事実として彼ら彼女らは「数」が多い。

誰からも求められておらず本人たちも求めていないが、事実として数が多い。

そうした人々が今、毎年引退世代になっている。

■10万人集まっても関係ない

その事実は、引退世代が「ま、いいか」と考えた政策が結果として選択されていくという現実になって現れてくる。

ポイントは、引退世代一人ひとりはあまり「決定」に関わる重い責任を考えていないにもかかわらず、単に「数」として多いというだけで、その引退世代の「何となくの考え」が「世論」になってしまうということだ。

いまはそれが、現政権のグローバリゼーション肯定・対米追従政策容認として反映されてしまう。

テレビニュース等でどれだけ「60年安保運動以来の反権力的盛り上がり!!」と報道しても、実際の人口パワーにはまったくかなわない。実際の選挙になると、国会議事等前の華々しい反対運動などどこ吹く風、結果としては引退世代の世論がこの国を引張る。

少子高齢社会とは、年金基金の不足から高齢者の生活が厳しくなる、あるいは税や社会保険の担い手が少なくなることから高齢者の生活が厳しくなるといった分析ばかりがこれまで目についた。

が、たぶん、少子高齢社会の現実とは、それらも含みながらも、「高齢者(引退世代)とは何か」という問いと直結するということなのだ。

そう、高齢者とは「現実世界から去っていく人々」だ。

そうした人々は、政治とそこそこコミットしながら、そこそこ距離をとる人々であり、その距離のとり方はそれぞれが謙虚に距離をとっているものの、「人口パワー」としてはその総体が「国の声」をつくるということでもある。

引退世代にしろ現役世代にしろ、個人一人ひとりが想像する以上に、「この人口構成がこの社会の世論を露骨につくってしまう」世の中になったということであり、一人ひとりの考えよりは「社会人的人口構成」を常に意識しなければいけない世界になったということだ。

こういう世界では、国会議事等前にたとえ10万人集まったとしてもたいして関係ない。★