「殺される(虐待される)側」には、論理も言葉もない

■虐待される側は語れない

「虐待」に関する最大のポイントは、虐待される側は語れない、ということだ。

虐待は英語でabuseであり、これは当欄でも繰り返し触れるように直訳すると「力(権力)の濫用」という意味になる。だから僕は、虐待という狭い意味に偏った日本語のニュアンスよりも、abuse本来が持つ「大人側(多くは親)の権力の濫用」という意味でこの言葉を捉えてきた。

が、権力の濫用というニュアンスは、どちらかというと虐待する側、親側、大人側のあり方を幅広く捉えるときに人々に伝えやすいものだ。権力の濫用があるからこそ、結果として、性的・身体的・暴言(心理)的・放棄(ネグレクト)的な力が行使される。

権力の濫用としてのabuseは、「虐待する側」の謎を解くときに少しは役に立つ見方だ。

けれどもabuseという事象には常に被害者がセットされている。被害者は、性的・身体的・暴言的・放棄的に、加えて連続・複合(complex)的に被害を受けている。被害者がいるからこそ、abuseは成り立つ。

何も児童虐待だけではなく、一般的に、虐待に伴う被害者は、「語ること」ができない。動物は当然そうだし、言語的他にハンデがある高齢者・障がい者もそうだ。そして当然、「乳児」「幼児」「児童」、つまりは「子ども」は語れない。

子どもは言語獲得以降「(自主的に)語れる」ようになると一般的に勘違いされているが、本当に「自分の言葉」を獲得するのは思春期以降だ。日本ではその思春期も異常に長いので、自分の言葉を獲得したと断言できる若者は遅くて30才くらいまでかかるかもしれない。

子どもの頃は、それが小さければ小さいほど、他者(特に身近な大人~多くは親)のモノマネをしている。

そのモノマネ対象の他者とは多くの場合まずは親である。次に友達、次に教師という順になるだろうが、極端に狭い世界の中で子どもはまわりの人々の言葉をマネつつゆっくりと自分自身の言葉を構築していく。

■サバルタンは語れないまま、消えていく

まずはじめに、子どもは自分の言葉をもっていない。

それに加えて、子どもが虐待されるほどの過酷体験を受けると、その虐待の事実の苛酷さから、言葉を失う。心理的に失う場合もあるだろうし(PTSDや解離性障害等)、脳神経学的にも脳の実際の部位(聴覚野や視覚野)が損傷されて言葉(表現)を発しにくくなる(杉山登志郎医師の諸著作に加え、たとえば友田医師のこの講演録参照『児童虐待による脳への傷と回復へのアプローチ』 友田明美氏)。

哲学的には、スピヴァクのいう「サバルタンは語れない」という、当事者をめぐる矛盾した状況がある(サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー) 1998/12 G.C. スピヴァク)。

マイノリティ内でも最も立場の弱い者(最下層階級サバルタンの妻が例)は名を奪われ、亡き夫の遺体焼却場での心中を社会的に強要される。彼女らは名を持たないため(花の名等で言い換えられる)、彼女らの「意志」は最後まで不明なまま、亡き夫(これも望んだ結婚ではないだろう)の遺体の火の中に入らされる。

サバルタンは語れないまま、消えていく。

つまり、最大の「当事者」は、語れないまま社会的に「いなかったこと」になる。当事者は、その体験が過酷・シビアであればあるほど、体験そのものを語りにくい状況に追い込まれ、そのことが同時に、当事者自身が当事者意識をもちにくくなってしまう。

名も持たず、語る言葉を獲得していないからこそ、「当事者(スピヴァクの例で言うと心中強要される女性)」になってしまうという、アポリア(困難・難題)がそこにはある。

■あなたは立てるか?

子どもは、1.自分の言葉を獲得していない、2.虐待されると心理的・脳神経的にも損傷を負う、3.「当事者」は語れない。

これらの理由から、虐待被害者である子どもの意見は後回しにされがちだ。子どもは権力を濫用された結果、虐待を受ける。abuseは、子どもの側からすると、まさに「虐待」のニュアンスを帯びる。

ずいぶん以前に本多勝一氏が『殺される側の論理』(殺される側の論理 (朝日文庫) 文庫 1982/1 本多 勝一 (著))という本を書き、20代の頃独立系出版社を友人とつくって日々奮闘していた僕はずいぶんこの本に影響された。

親子心中というプロセスにおいて、親にどれだけたいへんな理由があろうとも、結果として「殺されてしまう」言葉なき乳児・赤ちゃんの立場に自分は立ち続ける、とするこのマニフェストは、後の本多氏がどのような軌跡を辿ろうとも、僕には最大のマスターピースだ。

どれだけ総合的には悲惨な事象の中にも、そこには「殺される側」の立場にたたされる言葉を持たない名もなき存在がある。事後的な報道や報告や論文において、殺される側は「見えない当事者」として後回しにされがちだ。本多氏は殺される側にも「論理」があるという、実にジャーナリストらしい見方をとったが、正確には殺される側には論理も言葉ない。

言葉を持たず論理を持たないから無理心中させられるし、その無理心中に巻き込まれた存在(虐待被害者である子どもやサバルタンの妻)は、その意志や思いが言語化されることなく消えていく。

殺される側には論理がない。そして言葉もない。言葉を(心理的・脳神経学的に)奪われ、言葉を発する立場を与えられていない(事象は常に加害者側から、「殺す側」の論理から説明される)。

だからこそ、どれだけ「当事者」の側に立ち続けるかが、21世紀になっても、我々には求められる。

あなたは立てるか?★