子どもは「手首」と同じか〜アタッチメントと所有

■アタッチメント、安全基地、部分対象

アタッチメントは発達心理学では「愛着」と訳されるそうで、乳幼児期、数名の大人による濃密な関わりが反復される日常において形成されるといわれる。

数名の大人は通常「親」と呼ばれ、1人よりも複数以上いるほうが望ましいそうだ。

通常1人目は「母」であるが、複数が望ましいのは、アタッチメント対象が1人の場合、1人目の状態・状況によって乳幼児は大きく影響を受けるからで、現代社会においては「母」(1人目)はさまざまなストレス環境にさらされるため、これが数名(父ほか)でカバーできれば、よりリスク管理することができる。

が、特に乳児の場合、「他者」の認識力の限界があり、6ヶ月までは周囲の人間の顔の詳細なデザイン・構成まで把握できないという。アタッチメント対象人数も数名に限られるのは、こうした乳児の識別能力とも関係すると思われる。

これらアタッチメント対象は、子どもにとって「安全基地」でもある。安全基地が確保されるからこそ、乳幼児は外部刺激をほどよく受けながら、ゆっくりと発達していく。安全基地が不安定で基地ではなくそれこそ「戦場」だった場合、乳幼児の発達に大きく影響を与える。心理学はこれを愛着障害あるいは反応性愛着障害と呼ぶそうだ。

また、僕の趣味である哲学の分野から論じられるのは「システム」の視点であり、フロイトのいう口唇期(生後数ヶ月)において乳児は自分の身体を「身体全体」として把握することはできず、いわゆる「部分対象」として捉える。

乳児は統一した「自分」がまだないため、乳を飲んでいるときは、「口(と周囲の大人が認識する赤ちゃんの一部分)〜口に流れてくる温かな液体(乳)〜目の前にある液体を蓄え噴出する暖かな肉(のようなもの/乳房)」といった一連の組み合わせ全体がいわば「乳システム」であり、「自分」という統一した主体/自己のない赤ちゃん世界においては、乳を飲んでいるときは赤ちゃんの「乳システム」を中心にその身体が発動している。

これが、ドゥルーズ〜フロイト的な乳児期の親と子のあり方だ。

■アタッチメント=「付属品」

素朴な発達心理学においても(安全基地)、諧謔的な現代哲学においても(部分対象とシステム)、周囲の「他」との安定的な関わりが、乳幼児の「破綻しないライフ」を形成すると考えられる。

安全基地を提供し、乳児が求めるときに適宜「システム」を提供する(たとえば「目」のシステムもある〜親と赤ちゃん〈赤ちゃんはまだ主体形成以前なので「目」という部分対象が独立する部分的存在〉が見つめあう、その目と目で成り立つシステム)。これが、赤ちゃんにとっての安定したライフにつながる。

ところでアタッチメントは「愛着」とは別に「付属品」という直訳もある。機械や乗り物なんかについている小物等を指し(たとえばこの自転車のアタッチメント等楽天サイクルアタッチメント)、本体に寄り添うようにして本体を支える付属品、これがアタッチメントだ。

自転車という「主体」を付属品として陰ながら支える、あるいは、主体があるからこそその付属品は存在意味がある。こうした、主-助(他)といった意味もアタッチメントにはある。

■「子ども」は「手首」と同じか

もうひとつ、児童虐待を考えるときに僕が注目しているのは「所有」という概念だ。最近の哲学では鷲田清一先生(僕は末端ながら阪大の臨床哲学出身なので、まさに「先生」なのだ)が『悲鳴をあげる身体』(PHP新書)で「所有」概念をとりあげているが(自分の「身体」は誰が所有するか)、僕は、「親が子を所有すること」についてこの頃はよく考える。

たとえばリストカットの場合、傷つける手首は自分の手首だから傷つけてよいという理屈が成り立つ。言い換えると、自分が所有する手首は自分だけのものだから好き勝手してよいという理屈だ。

これと同じように、、子どもは「自分のもの」だから(親が所有するものだから)その所有物は持ち主が自由に扱ってよいという理屈もある。

当然これは、「子どもの人権」が確保された近代においては、親のエゴであり許されない。が、それはあくまでタテマエの議論であって、近代の価値以前の価値も当然内包し続ける我々近代人にとって、完全に無視することはできない価値でもあるだろう。

■主が他を「飲み込む」=愛

僕は当欄において、虐待してしまう親の衝動を「暗闇」と表現した(虐待という暗闇に我々はどう取り込まれ、その暗闇から我々はどう逃れているか)。

この「暗闇」の根拠のひとつが、今回考えた「アタッチメント」と「所有」にあるのでは、と思っている。おもしろいのは、虐待とは反対概念であるはずのアタッチメントではあるが、そうしたアタッチメントが成り立つ「主(親/子)と他(子/親)」の深い関係性において、主が他を飲み込んでしまう(主は他を自分のものにしていい)という価値が内包されているということだ。

その「飲み込み」は、「所有」という概念(これは古い概念だ)で表すこともできる。また、これは、たぶん「愛」という概念に言い換えることもできる。

愛は、元々は「部分対象」の時代(乳児期)の記憶が元になっているとも思われ、もっとざっくばらんにいうと、「安全基地」の安心感を反復し続けるのが大人になってからの愛だと思う。

このように、安全基地〜アタッチメント〜所有〜虐待(という現象)〜愛、これらはまったく別のものではなく、すべて人間の営みとして、つまりは人間の「定義」としてこれらは繋がっている。

だから、虐待は、近代的法の概念からのみ断罪しては説得力を欠く。これら、一連の人間のサガのこひとつとして捉えると、虐待の加害者(親)もセルフヘルプグループに誘い、被害者がハイティーン以上になったあとも支援システム(PTSDや発達障がい)を整え、児童相談所や児童養護施設等の支援機関のハードと人員を再構築することにポジティブになることができる。

これが、これからの貧困層拡大(虐待連鎖)社会を崩壊させないポイントだ。「暗闇」を「暗闇」ではなくそう。★