■虐待ではなく、権力の濫用

虐待とは英語ではabuseであり、直訳としては「乱用」や「濫用」といった意味だ。「虐待」はどちらかという意訳に近く、この「濫用」のほうがそもそものabuseが伝えようとしていることに近いと思う。

では、何を濫用するのか。それは「力」あるいは「権力」を濫用するのだと僕は思う。誰の権力かというと、哲学的には「主体」の権力、虐待支援の現場でいうと、それは「親(保護者)」の権力ということになるだろう。

主体は、客体に対してその力を濫用する時がある。言い換えると、自己という主体は、他者という客体に対して、権力を一方的にふるう時がある。児童虐待の現場では、親という自己が、子という他者に対して、自分の持てる力を一方的に用いてしまう。

これが一般に児童虐待と呼ばれることなのだが、厚労省のホームページなどをみても、その児童虐待のリスク要因は細かくあげられているものの(表2-1 虐待に至るおそれのある要因(リスク要因))、そうしたリスク要因を持つもの(親/保護者)すべてが児童虐待をするわけではないと述べられている。

また、児童虐待の4種類(身体・性・ネグレクト・心理)も、そう聞くとなるほどすべてが虐待ではあるわなぁと説得されそうになるものの、あらためて考えると、ネグレクトとその他3種類の暴力はかなり異なる(放棄と直接攻撃)。

これらリスク要因と4分類をじっくりみると、abuseに至る道筋や種類については一応納得することができる。

主体(ここでは親/保護者)自身、主体の力をコントロールできない。その要因には多くのリスク(望まぬ妊娠・鬱やストレス・被虐待体験等)があり、結果としては直接攻撃か放棄という行為に出る。

リスク要因にしても4分類にしても、それらはabuseの結果生じる事態に対して後付でもってきた分析になっている。元々は「権力」の濫用abuseから始まるものだ。

■なぜabuseが生じるのか

が、リスク要因はあげられ、その結果4分類を行なうことはできるが、元々の「では、なぜabuseが生じるのか」という問いにはなかなか応えることは難しい。

上の厚労省のページだけではなく、ほかのサイトでもその答えは難しいとある(たとえばこれ→「子どもの虐待はどうして起こるの?」)。ほとんどがリスク要因と結果分析は行うものの、そもそもなぜ「力の濫用」が生じてしまうのかには答えてくれない。

だから、いくら虐待をする親について、「リスク要因が重なれば誰にも起こりうるもの」と説明されたとしても、悲惨な児童虐待の事象を受け入れることができず感情的になってしまう人に対しては、説得できない。

リスク要因が重なったとしても暴力をふるう人とふるわない人がいるかぎり、暴力をふるう人が責められてしまうことは仕方ないかもしれない。

その「虐待」という結果を導く原因がもう少し一般化・論理化されない限り、虐待を行なう人物が個別に責められることは避けられないだろう。

■アタッチメントとabuse

主体は、自らがもつ「力」をいたずらに使用する時、それはabuseとなってしまう。が、自分の力をコントロールできて対象がアタッチメントattachment/「付属品」として主体の大切な存在となった時、そのアタッチメントには「愛着」が生じる(心理学ではアタッチメントは愛着と訳される)。

もしくは、子ども(乳幼児)は、親/保護者に対して、自らがアタッチメントであるようふるまう。その振る舞いの結果、愛着が生まれ、親/保護者を虐待行為に走らせることはない。

2才までの養育環境の中で、こうしたアタッチメントとして大切に扱われるていると、その後安定した他者関係を築けるとされ、逆に被虐待体験によってアタッチメントが破壊されている(虐待されている)場合、その後の対他者関係が異常に不安定になるといわれる。

このように、力の濫用abuseは親/保護者が主体であり、アタッチメント/愛着を引き出す主体は子ども/乳幼児、という構図がある。

言い換えると、abuse(力の濫用/虐待)とattachment(付属品/愛着)は対称概念であり、前者の主体は親、後者の主体は子どもということになる(アタッチメントの主語は一見親だが、アタッチメントを形成させるという視点に変えると主語は子になる)。

abuseとアタッチメントは、お互いの目的のためにしのぎを削っている。abuseは親の権力の乱用、アタッチメントは子自らが親の付属品になることにより自らを守る、という目的だ。

アタッチメントについては理解しやすいが、abuseに関してはここでもイマイチ理解しにくい。

なぜ、親/保護者は、子に対して自らの権力を濫用するのか。

子が不要なのだろうか。あるいは、子が「増えすぎる」ことが不要なのか。

この「謎」をさらに追求するためには、「種としてのヒト」についての研究にまで手を伸ばす必要があるのでは、と僕は思い始めた。生物学や進化論の見方を導入しなければ、「虐待の謎」は解けないのではないだろうか。★