■「若者」は注目されない

僕は毎日、ニート支援や高校生支援やひきこもり支援などに関していろいろなレベルの会議(行政連携・事業マネジメント・ケース検討等)に出席しているのだが、この頃共通して出てくる話題がある。それは、

「若者」では注目されないし人が集まらない

ということだ。たとえば、大阪府の「中間的就労の場づくり支援事業」(aimaカフェ-中間的就労カフェ)というのを僕の法人(officeドーナツトーク)では受託して展開しているのだが、「中間的就労」という新しい概念を現実化したという点では高い評価を受けているものの、実際にイベント(チラシ

画像

)を行なうとなると、その評価に対応した集客にはなってはいない。

かといって閑古鳥が鳴いているかといえばそうではないのだが、これをたとえば「高校生支援」の一つである「大阪府/高校中退・不登校フォローアップ事業」のイベント「高校生サバイバー」「高校生サバイバー」とは何か~フォーラムに関西メディアが集結あるいは高校生居場所カフェ-学校内サードプレイスというイベントと比べると、格段に注目度が異なってくる。

何しろ、関西限定ではあるものの「高校生サバイバー」(高校中退を考えた8/5大阪のドーンセンターであったフォーラム)フォーラムは、関西のテレビ3社、大手新聞4社が集まった大イベントになったからだ。

司会をした僕も取材を受け、このフォーラムは夕方のニュース番組でも紹介された。

それほど「高校生」は世間からの注目度が高い。

■甘え

が、これが「若者」になると、なぜか世間はそっぽを向く。いや、「無業」若者のしんどさや、ひきこもり70万人ニート60万人等、豊富なデータが最近は示されるから、どうやら若者が「弱者」になったことは世間には伝わっている。

が、いざイベントを企画し会議を行なうとなると、なぜか「若者」は警戒される。いや、「若者」をなぜ支援しなければいけないのか、というそもそも論が必ず沸き起こる。あれだけ現代の若者はわがままやサボりで就労していないのではないということをさまざまなデータや現実の若者の声として示しても、「世間」はそれを受け入れることはできない。

それどころか、いまだに、

若者は甘えている

というバッシング台詞が飛び出るのだ。

以前のようなある種の憎しみをもった言い方ではなく、「でもねぇ、やっぱりねぇ、どうしてもねぇ」のようなためらいの言葉とともに、「それでも『甘え』はあるよね」といった、少し奥ゆかしさを感じさせながらもきっぱりと、「若者は甘えている」と言い切るのだ。

■フォビア

もちろん「甘えている」といったわかりやすい批判はほとんどの人はしない。データからは、「甘え」など差し挟む余地がないということは誰でもわかるからだ。

だから、若者は「弱者」である。誰が考えても、どのデータを見ても、どの「若者本」を見ても、若者はいま苦境に立たされていると書かれており、頭ではそれを理解できる。

が、人気がない。というか、どうしても支持・共感されない。

こういう現象は「フォビア」という言葉で言い換えてもいいかもしれない。それは同性愛者への差別表現である「ホモフォビア」という表現にもあるように、理屈ではわかるがどうしても受け入れることのできない現象、といったものに近いのかもしれない。

だから、今の若者に対する不人気は、きちんと言うと、つまりは若者差別だと僕は思う。

僕も含まれる若者支援者は、いまの若者が立たされているこうした不利な立場も考慮しながら、支援していく必要がある。だから、支援と同時に、「広報」も重要な仕事(この記事もそのひとつ)になる。

■れんが

あるいは、以下のアップルCEOティム・クックのコメントを紹介することもその仕事(若者フォビアの払拭)に含めていいかもしれない。

最近ティム・クックはゲイであることをカムアウトした。その寄稿の中でこう述べる(「ゲイであることを誇りに思う」-アップルのクックCEO)。

……それでも、今でも多くの州には性的指向だけを理由に従業員を解雇することを認める法律がある。ゲイだという理由で大家から立ち退きを迫られたり、病気のパートナーを訪ねることや遺産の相続を妨げられたりするような場所もたくさんある。数えきれないほどの人々が、特に子供たちが、性的指向のために毎日恐怖や虐待に直面している。

……社会の進歩の一つは、一人の人間を性的指向や人種、ジェンダーだけによって定義することはできないと理解することだ。私は技術者であり、おじであり、自然を愛する人間。健康マニアでもあり、南部の出身でスポーツ愛好者で、そのほかもいろいろある。私に最も適したこと、自分に喜びをもたらす仕事に集中したい気持ちを人々が尊重してくれることを私は望む。

……私が毎朝オフィスに到着すると、キング牧師とロバート・F・ケネディ氏の写真が私を出迎える。この文章を書いたことで彼らと肩を並べられるなどとは思わない。彼らの写真を見た時、他者を助けるために小さいながら自分にできることを私もしていると感じることができるだけだ。私たちは正義に向けて陽の当たる道をともに進んでいる。れんがを一つ一つ置きながら道を作っていく。これが私のれんがだ。

れんがには痛みがあり、喜びがあり、陽がある。若者フォビアをやめよう。★