「少子高齢・多様性社会」として、50年かけて新世界となる

多様性の象徴、虹
多様性の象徴、虹

■「少子高齢化」ではなく「少子高齢」

子どもの貧困率が過去最悪になったり(僕のこのYahoo!記事参照スーパーリッチな子どもと、貧困の子ども)、非正規雇用が初めて2,000万人を超えたりするなど(非正規社員比率38.2%、男女とも過去最高に (2013年))、10年前からさかんに言われてきた「格差社会」はどうやら本格的に固定化したようだ。

同時に、少子高齢化社会も着実に進み、2017年には生産年齢人口(15~64才)は60%を割ると言われている(少子高齢化・人口減少社会 総務省)。

これに関しても、さかんに語られてきた「少子高齢化社会」ではなく、「化」の段階はすぎたと僕は思うので、僕は「少子高齢社会」と言うようにしている。

このようになったとき、日本がどうなるのかなあと前から僕は以前から関心をもってきたのだが、予想通り「格差社会」や「少子高齢社会」といったダイレクトな言葉は、メディアや日常からは背景化されているように感じる。

それらは当たり前のものとして人々に受け入れられ、50才前後のバブル世代の芸能人がこの頃はさかんにテレビで見られるようになり、50代で結婚し60代で親になる人も珍しくもなくなってきた(かくいう僕も50才で親になった)。

少子高齢社会と格差社会は当たり前のように人々の生活に溶け込みはじめ、50代で結婚したり、40代でアルバイト・年収150万といったあり方も珍しくなく、またそれらは数百万単位で「群」として「塊」として社会の中に存在している(特に非正規雇用は6人に1人)。

■ええじゃないかという「古層」

日本からはこれからさらに「格差社会」や「少子高齢社会」といった言葉が消えていくような気がする。その代わり、「滅びの美学」にもとづいたなかばヤケクソ気味の現象が起こるだろうと僕は予想している。

それは、幕末の「ええじゃないか」のような、「今この瞬間を(「滅びの美学」を元にしたネガティブな感覚を背景に)楽しもう」という現象だ。

それは、丸山真男が晩年「日本の古層」として抽出した「つぎつぎになりゆくいきほい」という、原因を探り未来に目標をたてることなく「現在」の流れの動きに身を委ねる、日本人が1500年以上前からもっている感覚が後押しするだろう(たとえば、「丸山真男著『忠誠と反逆』」松岡正剛による書評参照)。

この「つぎつぎになりゆくいきほい」的な、純粋にいまを生きる感覚は、たとえば、延長50回を投げ抜いた投手やそれを戦ったチームや監督への賞賛にもつながる、かなり根深い感覚でもある(ハイティーンの身体育成が目的であれば、50回はありえない)。

延長50回への賞賛は、選手生命といった先のことを考えずその時間の流れに身を委ねる、といった「古層」的思考を背景にしつつ、「この瞬間散ってもいい、その結果負けてもいい、身体が壊れてもいい」といったまさに滅びの美学的なものが両チーム(とそれを見守るすべての人達)になければ、成り立たないし許されない。

それが成り立つ「古層」が我々の文化にはある。

このような、一言でいうと「ヤケクソの美学」が、これから日本全体を覆うような気がしている。国中「ええじゃないか」になるのではないだろうか。

■50年かけて新世界に

僕は、「ええじゃないか」はいやだ。少子高齢と格差社会を当たり前のようにして背景化し、日々起こる現象に身を委ねるのは、そこに日本的「滅びの美学」のようなネガティブな要素が絡んでいる限り、ドゥルーズ(フランスの哲学者)的ポジティヴィティはない。

だから、少子高齢社会を背景化させず使い続けていきたい。プラス、ここに「多様性」を付け加えるのはどうかと思うのだ。

性的マイノリティや障がい者、貧困状態にある青少年、男性社会の枠組みの中で発信し考えることを求められるすべての女性(これを意識している人が女性ジェンダー全体の何割になるかはまだわからない)、これら「発信に自由がない人々」が今の状態よりも徐々に自由に発信し表現できること、これを僕は「多様性」と呼びたい。

いま、多様性はダイバーシティと呼ばれ、さまざまな問題提起がなされている。が、ダイバーシティ的価値はまだ社会の中核にはない。

せっかく日本が少子高齢社会となり50年かけて新社会に生まれ変わっていくたのだから、この50年間で本当の多様性を獲得していったらどうだろう。

これから50年は「少子高齢・多様性社会」として日本はポジティブにその変化に向きあい、50年後の新世界に向けてさまざまな肯定的取り組みを行なっていったらどうだろうか。★