アイスバケツチャレンジはノブレス・オブリージュか

孫社長の氷水バケツ

■氷水バケツ

すでに古いネタになっているかもしれないが、難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)支援のための、有名人による「氷水バケツ」セレモニー=アイスバケツチャレンジ(それに伴う寄付と、続いてバケツかぶりする人の指名)が話題になっている。

この記事(氷水かぶる動画で難病支援 iPS山中氏も…次の人は?)の段階でも、アメリカの主だったIT業界の重鎮たち(Microsoftのビル・ゲイツやFacebookのザッカーバーグ、Appleのティム・クック等)が氷水をかぶり、日本ではIPS細胞の山中教授やホリエモンがかぶっている。

このすぐあと、ソフトバンクの孫社長がかぶり、歌手の浜崎あゆみ、NPO関係者(フローレンス駒崎弘樹氏など)もかぶりはじめているようだ。

一方で、こうした動きに反対する人達もいる。その理由は、ALSの知名度を上げることが目的なのであればそれはすでに達したとし、もうひとつの目的である寄付だけ行なえば十分ではないか、というものが代表的だろう(堀義人氏)。

僕は、基本的にこの動きは「現代のノブレス・オブリージュ」だと思っている。ノブレス・オブリージュは「貴族には義務がある」という意味で、資産や名誉がある人達が、寄付等で社会的責任を果たすことを指す。

古くは古代ローマや古代ギリシャでもあったという説、また金銭的寄付以外にも、たとえばイギリスでは王族の従軍は珍しいことではないという(ノブレス・オブリージュ Wikipedia)。

貴族や王族の代わりに、現代アメリカではITの成功者、日本ではノーベル賞やITや歌手や社会起業家などが現代の「ノブレス」ということになるのでは、ということだ。

ブラジルでは、サッカーのネイマールもかぶっている。

■偽善性と特権性

が、ここに何らかの「特権性」を嗅ぎ、同時に「偽善性」をあなたは感じないだろうか。

僕は正直いって、感じてしまう。資産や名誉を「持つ人たち」が、「持たない人たち」や「アンラッキーな人たち」に対して、自分たちが持っているものや立場を素直に正直にさらけ出す。

氷水をかぶり寄付をし、同じように「持つ人たち」を指名し、指名された人たちは氷水をかぶり寄付をする。

それはまったく悪いことではない。まさにノブレス・オブリージュ、持つ人たちによる義務なのだ。

持つ人たちは昔のように貴族や王族ではなく、多くは自らの力で成功を収めた人たち、元々は中流階層出身であったり、人によっては貧困階層出身かもしれず、自分の力で「ノブレス」になった人々なのだ。

が、僕は、たぶん嫉妬や憧れやコンプレックスから何となく彼ら彼女らをいじわるな目で見てしまう。持つ人がパフォーマンスとして氷水をかぶり、そして多額の寄付をする。そして、同じような持つ人にリレーしていく。

これは何も悪くはないのに、だ。

■ノブレスか動機の純粋性か

僕は彼らに聞いてみたい。自分のことをノブレスと意識しているかどうかを。

ノブレスと意識しているのであれば、それはそのまま氷水をかぶって寄付していただきたい。この場合、問題は僕のようにそこに「偽善性」を見てしまう側の問題だからだ。

それは「持つ人」の確信的な行為であり、「持つ人」として堂々とかぶればいいと思う。それを見る側も、そこに変な感情(コンプレックスやルサンチマン的なもの)を交えず、単純に「持ってる人が持ってる人なりの行為をしている」と受け止めればいいと思う。

問題は、自分たちがノブレスと意識することをためらい、むしろノブレス特有の義務ではなくではなく、「純粋な正義感」からそれを行なっている場合だ。

あるいは、「助けてあげたい」という動機の純粋性からこうした行為を行なっている場合、そこに独特の日本人っぽさを感じる。

自分が「持つ」「持たない」は関係なく、とにかく「助けてあげたい」という動機の純粋性がまずあればいい、あってほしい。そしてそうした動機があれば許されるといった、全体の意思のようなものに支えられて氷水バケツが続けられるとしたら、何となく僕は気持ち悪い。

そうした動機の純粋性のほうが、ノブレス・オブリージュより尊重されるのがこの日本社会なのではないかと思う。★