当事者とポスト当事者~「経験者」とのあいだ

■当事者と経験者

僕は10年ほど前、ひきこもりの人たちと話していて、ひとつの結論をえた。

それは、「『当事者』は語れず、語ることができるのは『経験者』だ」ということだ。

当事者の語れなさについては、当ブログのこの記事などを参照願いたい(「当事者」は語れない~どう「代弁」し、どう「代表」するのか)。

一言でいうと、「問題のただなかにいる人ほど、その問題そのものを語ることができなくなる。語るどころか、その問題に中心的に関与していることそのものを受け入れることができない(仮に受け入れることができた場合、体調をくずす)」

つまりは、『当事者』は語れない。

これのネタ元は、G.スピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』なのだが(上の記事ほか参照。またこのアマゾンリンクも『サバルタンは語ることができるか』)、この10年間僕自身執拗に語ってきたせいか、本家スピヴァクの言いたいことを歪めている気もするが、最近はどうでもよくなっている。

スピヴァクの言う150年前のインドの寡婦だろうが現代日本のひきこもりだろうが、「当事者」になればなるほど、自分の問題を語ることができなくなる。

その理由はわからない。が、なぜか語れない。

■僕は「パニック障害」当事者だった

僕自身、この前、非常勤講師に行っている京都精華大学で「パニック障害」の説明をするとき、なぜかその説明ができなくなった。

というのも、5年くらいまで、深刻とはいわないまでも、僕はパニック障害だったからだ。

具体的には、パニック発作を恐れるあまり急行電車に乗ることができなかった。

授業で、さまざまな精神症状を説明するついでにパニック障害もとりあげたのだが、なぜか心臓がドキドキし始め、ほかの精神的症状を問題なく説明できたことに比べると、きちんと説明することができなかった。

理由はわからない。が、自分自身が陥ってい不安障害(パニック障害)に言及した時、当時のさまざまな記憶が喚起され、身体そのものが動揺し、なかなか言葉が浮かばない。

教科書的な物言いでなんとか切り抜けたものの、他の障害の説明に比べてはるかにクォリティダウンしたことは事実だろう。

そこに陥っていた人は、その陥り度がきちんと陥っていればいるほど、「そこ」について語れなくなる。

それが、「当事者」だということだ。

■当事者と経験者の「あいだ」

だから僕は、当事者と区別する意味で、「経験者」というカテゴリーを提唱した。

その「当事者→経験者」という段階論でを提唱することでこの10年間看過してきたのだが、実は「経験者」というあり方の弱さには気づいていた。

当事者を終えたとしても、その次に「語ることのできる経験者」という段階を設定して終わる、ということはなかったのだ。

言い換えると、それほどクリアな「経験者」は存在しなかった。

誰もが「当事者」性をひきずっている。それは当たり前だろう。たとえば「ひきこもり」体験を例にあげると、ひきこもり当事者としての経験はそんなに簡単に「過去」のものになることはありえない。

過去のものになったとしても、そこでは「トラウマ」というかたちで刻みつけられている。

当事者が終わったとしても、すぐに「経験者」になれるわけではない。

当事者と経験者の「あいだ」の段階を遠ざるをえないのだ。

つまり、「ポスト当事者」的段階をくぐりぬけ、やがて経験者に達する。経験者もトラウマをひきずりたいへんなのだが、トラウマがトラウマとして徐々に客観化されていく段階が現実にはある。

それが、「ポスト当事者」という段階なのではないかと、やっと僕は言語化できるようになった。★