ああ、臨床心理士~権力とルサンチマン

フーコー『性の歴史1』(文中URLよりアマゾンに飛べます)。薄いけど権力論のエポック
フーコー『性の歴史1』(文中URLよりアマゾンに飛べます)。薄いけど権力論のエポック

こんな「臨床心理士」に関するエッセイ、Yahoo!ニュースで書くのもマニアックすぎるかなとも思ったのだが、世の中にはこんな専門職もいて、その専門職は独自の発展をしているらしいという点を知っていただくだけでも意味はあるかなあと思い、最近の僕の愚痴みたいなのを書くことにした。

最近と言っても僕は子ども若者支援の現場にはほとんど立っていないから多くは推測と伝聞なので、ここに書いていることは、話半分に聞いていただけるとうれしい(Yahoo!さんに申し訳ない気もするが)。

が、以下のようなことは僕自身も以前より気になっていたことであり+最近も一向にその傾向は衰えていないようだから、書いてみる。

臨床心理士は「権力」くさい

臨床心理士に実際に会った方ならば「わかるわかる」と言ってくれそうだが、臨床心理士の人たち、特に最近のお若い臨床心理士は一見礼儀正しい。話しても非常に感じのいい人が多い。

が、長く話していると、なんとなく「あれ?」と思い始める。何か偉そうというか、何か断定的というか、何か背負っているというか、とにかく、何か「権力」みたいなのを少しずつ感じてしまう。

その「権力」とは、専門職がもつ権威なのだが、権威の塊である「医師」に比べてみると、その権力臭さが何となくわかりにくい。というか、わかりにくいゆえにものすごく「力」みたいなのを発している。

それは究極的には、フーコーが『性の歴史1』で書いたような「聞く側の権力」(教会の懺悔等で信者が行なう「罪の告白」を聞く司祭側のほうが、その沈黙の姿勢とは逆に権力を有する)に由来すると思う。

「話す-聞く」というコミュニケーションのなかでは、能動的に語ることで力を持っているかのように外側からは見えてしまう「話す側」のほうが実は被権力側であり、沈黙あるいは共感の姿勢で接する「聞く側」のほうが実は大いなる権力サイドであるというこのフーコーの分析は鋭い。

臨床心理士などはフーコー的には現代における最大の権力者かもしれない。

そういう意味で僕は「権力くさい」といってはいるのだが、医師の用いる圧倒的な見える権力に比べて、臨床心理士のこの隠れた権力は、クライエントと共感しながら関係の構造としては権力サイドに立つので扱いが難しい。

ベテランの臨床心理士あるいはカウンセラーになると、自らのこうした権力性を自覚している人が多いので、それは自動的に「メタ権力」となるから(自らの権力性について語ることができる)、クライエントサイドともその権力構造を共有したうえで支援-被支援の関係を構築することができる。

そうなると、その権力構造には何かしらのユーモアが漂い始め、その権力性の力が抜けていくことになる。その結果、「あのカウンセラーは臨床心理士だけど話がわかる」みたいな評価を受け始める。

臨床心理士が創設された頃は、長い実務経験をへた人ばかりだったので、どの方も独特な味があり尊敬できた。

が、今はそうした方々が徐々に引退されていき、自らの権力性や自らがつくりだす権力構造に無自覚な人々が量産されているようだ。

臨床心理士はルサンチマンくさい

ルサンチマンとは、「自分の都合のいいように価値転換すること」といっていいと思う。

たとえばイソップ童話において、ジャンプしてもゲットできないブドウの房を頭上に見上げ続ける狐は、そのブドウについて「あのブドウははじめからまずいブドウだったのだ」と自分に都合よく解釈しなおしてブドウをゲットできないことを正当化する。

こうした「価値操作」がルサンチマンと言われ、我々の生活のあらゆるところで作動している。

我々人間は思い通りにいかないことばかりだから、その思い通りにならないことに対して「そのことは最初からたいしたことなかった」と内面の価値操作をしてごまかす。

たとえば、大学受験失敗、志望会社入社失敗、志望資格取得失敗。たとえば、婚活失敗、結婚生活破綻。たとえば、会社退職、自営業の失敗。

こうしたさまざまな人生の「失敗」において、我々はルサンチマンを抱きルサンチマンになることでやりすごす。そもそもその大学はたいしたことなかった、その会社はブラックだった、その結婚相手は魅力がない人だった等々。

このように「最初からその対象がたいしたことなかった」と考えることで、現在の打ちひしがれた心境をやりすごす。

これがルサンチマンであり、人間であれば誰もが持っている心のネガティブな操作だ。

このようなネガティブさが、なんとな~く「臨床心理士」にはあるように僕には思えて仕方がない。

それは上の「狐とブドウ」ほとクリアではないものの、臨床心理士は「苦労して取得する必要がある割には社会的評価が低い」資格でもあるのだ。

たとえば、臨床心理士はいまだ国家資格ではなく、臨床心理士は長い学習期間(院卒)が必要なわりに正社員採用が極端に少ない、医療ヒエラルキー(医師をトップとする)に組み込まれることを拒否したために精神科医療のなかでは微妙なポジションとなっている。

このように、この「ブドウ」を苦労して獲得したわりにはその苦労に見合うだけのリターンが少ない。

後発の精神保健福祉士(PSW)と比べてみると、PSWのほうが「学習期間が短くてすむ」「精神科ヒエラルキーの中にポジションがある」「正社員化も(低賃金だが)容易」等のメリットがあるのだ。

が、臨床心理士は、このブドウをイソップの狐のようにいまさらマズイとはいえず、「実はマズイんだけども見た目はいいんだよ」的な、イソップ狐をさらにひねくり回したような心性となる。

いわば「ルサンチマンの二乗」的ひねくれた心性のなかにあるようなのだ。

ただでさえルサンチマンは「ネガティブ」の代名詞なのだから、それが二乗するとなるとネガティブも二乗することになり、そんな人達が「支援」の仕事をしていいのか、という根本問題にもぶち当たる。

最初に書いたように、これは僕のひねくれた所感であって、一般的結論ではありません。また、臨床心理士の中にも尊敬できる人たちは僕のまわりにもたくさんいます。

が、そうしたこと(一般論ではない、尊敬できる人もいる)を気にして言語化しなければ、一方でよく聞く上のような話がいつまでも表面化されないまま過ぎていってしまう。

また、このYahoo!ニュース個人のような媒体では以上のような話題はあまりないことから、マニアックだけれども若干目新しいかなとも思って書いた次第です。★