「新しい孤独」~2013年の子ども・若者

「新しい孤独」を説明(11.15「子ども若者の『ホーム』レス」大阪市住吉区)

■子ども若者の「ホーム」レスとは?

昨日、大阪市住吉区のこのイベント(子ども・若者の「ホーム」レスとは?)を無事終了し、定員100名を大きく上回る180名もの方にお越しいただいた。

来年度以降、より実質的支援システムを大阪市住吉区は展開していくことになるだろうが、今回のブログでは、その冒頭で行なった僕の短い発表内容をご紹介する。

それは、2013年の子ども・若者は、従来の「孤独」とは違った、別物の「孤独」、それは「新しい孤独」と名づけてもいい絶対的孤独に包まれているのでは、という問題提起だ。

僕の発表部分を記録動画より抜粋

■ホールデンの「孤独」

僕が10代後半だった30年と少し前、僕も含めて若者たちはやはり「孤独」だった。

その孤独は、いわゆる思春期の孤独であり、「大人」との断絶であり、自意識過剰の孤独であり、社会へ巣立つ手前の不安も交えた孤独だった。

こうした孤独は、日本だけではなく、欧米の様々な文学や映画で扱われ続けてきた。たとえばサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』などはその典型だろう。

周囲の大人や社会には馴染めず、ニューヨークの街を彷徨する主人公ホールデン・コールフィールドに自らを重ね合わせた10代後半の若者は決して僕だけではない。この小説がいまだに世界的ロングセラーになっていることからもそれは証明できる。

あのホールデンの孤独こそが今までの孤独だった。思春期は常にまわりの「大人」とぶつかり、さまよう。時には家を出る。

『ライ麦』が世界的ベストセラーになったことからもわかるように、その孤独は、世界中の思春期と「共有」できる。ホールデンのいらだち、ホールデンの寂しさ、ホールデンの孤独は、言葉や文化を超えて共有することができたのだ。

■単独的な孤独

が、現代の若者の孤独は「共有」できないと、僕は推察する。

なぜなら、少なくとも日本においては総中流社会が崩れ、格差社会・階層社会・階級社会になったいま、子ども若者の苦しみは、以前にも増して個別化・単独化しており、「その孤独感」は、「その人」単独のものであることが多くなってきたからだ。

家庭に経済的問題を抱え(生活保護等)、構成的問題も抱え(ステップファミリー等)、以前とは比べられないほど複雑な問題を抱えた家庭の中で2013年の日本の子ども若者は日々を過ごしている。

僕も仕事でよく高校生たちと話すが、彼ら彼女らの背景は本当にケースバイケースであり、ニューヨークのホールデン・コールフィールドが背景としていた典型的中流階層のあり方とは大きくかけ離れる(その意味で、日本のこれまでの総中流社会がホールデンの問題との「共有」を生んだ)。

かといって、その階層の中で問題を共有できるかといえばそう簡単ではなく、経済的問題と家族構成的問題はたくさんの組み合わせを生むことから、子ども若者は自分の苦しみと同じ質の苦しみを持つ同世代となかなか出会うことができない。

出会ったとしても、ホールデンの問題的単純さではなく、親の収入や家族構成も含めた複雑な問題であることから、大雑把に「今日の昼食にありつけるかどうか」程度は話題が合うかもしれないが、その背景までシェアするのは難しい。

だから、絶対的孤独なのだ。言い換えると、戦後日本が体験したことのない「新しい孤独」が、社会階層レベル(1千万人は余裕で超える)で拡大している。

このように、社会の階層化・階級化は、やはり弱い部分を直撃し、現代日本の場合、それは子どもと若者を直撃している。

新しい孤独、絶対的孤独が子ども若者をじんわり包んでいる。

■だからこそ「サードプレイス」

だからこそ、「居場所」つまり「サードプレイス」が必要なのだ。

ファーストプレイス、つまり家庭では子ども若者は和めない。和めず癒やされないどころか、そこが最大の悩みの源泉だ。

かといってセカンドプレイス、つまり職場や学校(授業や規律的メニュー)でも子ども若者は一息つけない。そこはあくまでフォーマルな場であり、外向きの場だからだ。

やはり、サードプレイスを社会の中に徐々に創設・拡大していくしかないだろう(サードプレイスについてはこの記事ほか参照。グローバリゼーションと「サードプレイス」)。

僕の法人で現在進めている「高校生居場所カフェ・プロジェクト」などもその動きのひとつとなるだろう。

まずは学校内に「サードプレイス」の創設していき、その意味を教育関係者に理解していただく。そして、ゆっくりと街の中にサードプレイスを広げていく。

こうすることで、我々は、子どもや若者の絶対的孤独、つまりはその「新しい孤独」を和らげることができると僕は期待している。★