ファーストプレイスとセカンドプレイスが、その人の「サードプレイス」を決める

大阪府立西成高校の真ん前にある、懐かしい佇まいの「津守」駅

■臨床哲学的トライ

「すべてがサードプレイス」(菊地さん)

今回は前回(グローバリゼーションとサードプレイス)の続編だ。

当Yahoo!ブログさんは管理をしっかりされているため、前回のような「哲学的動画」を伴った「概念提示」のブログはアウトのチェック判断がくだるのかなあと思っていたのだが、一週間たっても何も言われないため、あの程度ならオッケーなのだろうと判断した。

僕は30代後半で大阪大学の「臨床哲学」という大学院を出たこともあり、物事を根底から考え直す哲学という営みがいわば趣味だ。

特に、僕がお世話になった鷲田清一先生(と中岡成文先生と本間直樹先生)は「臨床哲学」を提唱されていて、僕はこれを「現場で起こる事象を一旦カッコに入れて、あらためて根源的に考えなおすこと」と理解している。

また、哲学とは「新しい概念の提示を行なう営み」というドゥルーズとガタリの提唱(『哲学とはなにか』)に、僕は全面賛同することもあり、そんな、ドゥルーズや鷲田先生みたいな偉い人に追いつけるはずもないにしろ、自分なりに臨床哲学することは僕の使命だとも思っている。

まあそんな背景もあって、僕は現在の仕事(子ども若者支援~今年度からは特に高校生支援)に臨んでおり、今回の動画は、そうした仕事を通してこのところ僕が根源的に考え始めた「居場所」について、友人達(菊地建至さんと大北全俊さん)の協力を得てさらに突っ込んで考えたものだ。

その友人達は、「哲学者になる」というグループで、これまでともにグローバリゼーション等について考えてきた(この記事等参照「イオンモール」とは何だ?

■「すべてがサードプレイス」

今回は、前回の僕の問題提起(これも前回ブログに動画を貼り付けてます)を受けて、菊地さんが中心に語ってくれている。

菊地さんはこのなかで「そもそも自分には、通常のファーストプレイス(家庭)とセカンドプレイス(仕事)はない」とする。この背景には、家庭をもたず、大学の「スーパー非常勤講師」として大活躍する菊地さんの日常がある。

だから「自分にとってはすべてはサードプレイス」といってもよいのかもしれないと菊地さんは語り、続けて、「それぞれのファーストプレイス(家庭)とセカンドプレイス(仕事・学校)のありようが、人々のサードプレイスのあり方を決める」とも語る。

つまり、ファーストプレイスとセカンドプレイスのあり方によっては、スターバックス的「グローバリゼーションの中のサードプレイス」だけで十分、という人も少なくはない。

僕も菊地さんも大北さんもそうした「スターバックス=サードプレイス」という単純な図式は受け入れがたいが、それだけで十分という人がいる。

それはつまり、スターバックスというサードプレイスだけで十分な、「ファーストプレイス・セカンドプレイス」ライフを送っているということだ。

言い換えると、現代社会において常識的な家族と仕事をもってそれだけで概ね満足している人は、社会学の教科書に出てくる常識的な「サードプレイス」であるスターバックスだけで十分、ということだ。

僕からすると、スターバックスとはグローバリゼーションに組み込まれた「余白のない」窮屈なサードプレイスであり、通常の「家庭」や「仕事」も、近代社会が仕組んだ蜃気楼のようなシステムだ。

■子どもや若者から、ほかの「サードプレイス」を求めるだろう

階級社会化が確実に進む日本では(当ブログのこの記事等参照階級社会の国の、幸福な国民たち)、その蜃気楼のような近代家族・労働は実際には崩壊しつつある。

ステップファミリー・貧困・虐待は一部地域の問題ではなくなりつつあり、非常勤雇用は生産労働人口の40%を占める。

その時、グローバリゼーションが用意しただけのサードプレイス、つまりスターバックスだけが「居場所」という社会では人々はもたないだろう。

ここでいう「人々」の最先端は子どもや若者であり、社会的弱者である子どもや若者からまず初めに、スターバックス以外のサードプレイスへのニーズが高まると思われる。

その、スターバックスではない(グローバリゼーションが用意したものではない)サードプレイス一例が、たとえば「高校生居場所カフェ(大阪府立西成高校の「となりカフェ」等)」だと僕は思っている。★