■階級社会化への三世代移行

この頃の僕は、自分のTwitter(田中俊英のTwitter)に定期的に日本の階級社会化についてつぶやいている。

最近ではこんなつぶやきをした。

田中俊英 @tanakatosihide 9月15日

ソーシャルセクター分類とは違い、現代の階級社会論は多少複雑だ。まず50才あたり(新人類世代)より上は、1億総中流社会で育ったが、その下(特に30才後半団塊ジュニアより下)は、中流社会崩壊過程で成人化している。その下、ゆとり世代(20代前半)から下は、非常勤雇用40%社会で成人化。

(前受)

世代別にそれぞれの社会観が異なる。1.総中流社会、2.部分的階級社会、3.階級社会。問題は、社会の中核に位置する40代半ばから65才の人々が、感覚的には中流社会を生きていること。加えて、社会の制度設計や社会の中核的なポジション(経営者等)にいる人は、30代であっても、中流出身なこと。

(前受)

さらに問題は、経済クラスが「下」の人々(非常勤雇用と重なるだろう)が40%を占めたにもかかわらず、それらの人々や問題に関わったり論じたりする人々が、多くは中流社会意識から抜け出せないこと。中流の支援者が自らの出身階層を意識することなく、「下」クラスの人々と関わる。

(前受)

今こそ、階級社会を論じたりその中で支援的な仕事をする人々は、「自分は何者か」を意識せざるをえない時代だろう。心理的支援技法の中にのみとどまり、支援者としての当事者性に踏み込まない人々は、支援者としての倫理を放棄している。これはソーシャルセクターや行政関係者にも当てはまる。

■階級社会の中での幸福

これを読んだ友人の支援者から感想をいただいた。その感想を一言で表すと、

「いまさら『階級』について、それぞれが意識する意味と必要性があるのか」

ということだった。

さらにその友人はこうも付け加えていた。

階級社会は現在頑然として存在しており、それは努力や社会的成功で飛び越えることはどきない。むしろそれをあえて受け入れ、人々がそれぞれの環境の中でいかに自由を享受していかにそれぞれの生活の中で幸せを見出していくのか、このことが大事なのではないか。

また、日本の中にグローバリゼーションに呑み込まれない何かの力があるとするならば、そこを強みとして育むことが重要なのではないか、と。

まさに、僕もそう思う。特に、グローバリゼーションに対向する「何か」が日本にはあると僕は思っており、それは「ローカリティ」であり、具体的には「居場所」の力だと思っている。

そんな「居場所の力」を、できる限り言語化していくのが残された僕の仕事だと思っていて、当ブログもそのために書いていたりする。

■「居場所」は、グローバリゼーションの対抗軸

ただ、僕はなぜか階級社会化を受け入れられない。それは僕が49才でありまさにバブル時代の最後の中流文化を謳歌した世代でもあるからだろう。また、「平等幻想」を身体化されるほど教育の中に血肉化された世代だからなのかもしれない。

一方ではグローバリゼーションの「リゾーム性」は、ドゥルーズ主義者としての僕を楽しませる。中心もなく幹もなく広がり続ける経済システムを、僕はメディア情報を通してでしか想像することはできないが、痛快ではある。

そんな、近代の破壊者としてのグローバリゼーションをどこかで楽しく観察している僕はいるものの、一方では頑然としたアンチ・グローバリゼーション主義者でもある。

そんなひねくれた僕ではあるが、今のところはポストモダン哲学者ではなく支援者なので、グローバリゼーションが生む子ども・若者たちの悲劇をやはり看過できない。そのため、ローカリティの可能性を日々模索しており、その具現化として「居場所」があるんだと最近結論づけたこともあり、その現実的汎用化に日々汗を流している。

そんな僕からすると、上記友人のアドバイスに同意しながらも、その前提とする階級社会化については素直に受け入れることはできない。

それ(階級社会を前提として受け入れること)は、古市憲寿氏の『絶望の国の幸福な若者たち』に描かれる若者のごとく、スモールサークルの中でささやかな幸福を享受する生き方でもある。

僕は、絶望の国の幸福な若者たちの如く、階級社会の国の幸福な国民たちとして日々を乗り切ることがなぜだかできないようだ。

その原因は、ポストモダンを生み出した「カウンターカルチャー的思想」にあると今のところは自己認識している。つまりは、アート・音楽(ロック)・映画等々にみられる、アンチ権力としてのカウンターカルチャーに、若いころどっぷり浸かってしまった僕の価値観が原因だということだ。

つまりは、個人的価値観から階級社会に対抗しているということで、今のところ、ま、いいかとすませ、これ以上は深く自己探求しないことにしている。★