事実を後世に伝えることの難しさ 広島平和記念資料館リニューアルから展示のあり方を考える

「9.11 メモリアルミュージアム」に隣接した記念碑=ニューヨークで筆者撮影

広島への原爆投下から6日で74年となった。原爆犠牲者の遺品などを展示する広島市の広島平和記念資料館(原爆資料館)が、およそ30年ぶりに本館を改装。実物資料に重点を置く展示内容とし、資料館の象徴的な存在だった「被爆再現人形」が展示されなくなったことを産経新聞などが報じている。追悼の意味を込めた展示、風化を防ぐための展示のあり方とは。

筆者は以前、同館を訪れたことがある。防空頭巾に学生服。被爆した方々が身につけていた衣類などの実物資料は印象深かった。一方で、やけどした両手を前に出して歩く様子を表した「被爆再現人形」の印象は特に強く、今でも脳裏に焼き付いている。

今回の改装で、実物資料ではない「被爆再現人形」は撤去された。2017年4月26日付の朝日新聞の記事(東京朝刊29頁)で、資料館は撤去する理由について「模型やジオラマではなく、被爆者の遺品など実物の資料中心の展示にするため」と説明している。また、2019年5月16日付の朝日新聞デジタルの記事によると、被爆者からは「被害はこんなものじゃなかった」という批判も寄せられていたという。「実物資料」をファクトとするなら、「人形」は創作の部分がゼロではないということか。客観的に事実を伝えることの難しさを感じる。

あらゆる事象で言えることだが、時間の経過とともに、体験した本人の口から事実を聞くことが難しくなっていく。今後さらに時が流れ、世代が変わっていけば、事実を忠実に伝えていくことはより困難となるであろう。そうした意味で「実物展示」を重視する姿勢は長い目で見れば正しいようにも思える。

「9.11 メモリアルミュージアム」のチケット販売窓口には長蛇の列ができていた=2019年7月(筆者撮影)
「9.11 メモリアルミュージアム」のチケット販売窓口には長蛇の列ができていた=2019年7月(筆者撮影)

海外ではどのような展示を通して、事実を後世に伝えようとしているのか。こうした疑問を抱いた筆者は先月、2001年9月の米同時多発テロで崩壊した世界貿易センタービルの跡地にある「9.11 メモリアルミュージアム」を訪れた。

ミュージアムの中に入ると、ぐにゃりと曲がったビルの骨組みや、ビルの破片が直撃した消防車など、テロの凄惨さを伝える「実物資料」の展示が目立つ。一方で、時系列で航空機と管制官がどのようなやりとりをしていたのかをまとめたパネル、家族が行方不明者の情報提供を求めたカードなど、ストーリー性のある、つまり想像力をかきたてる展示も多くあった。

「9.11 メモリアルミュージアム」の外には書籍などを販売するブースが設けられていた=2019年7月(筆者撮影)
「9.11 メモリアルミュージアム」の外には書籍などを販売するブースが設けられていた=2019年7月(筆者撮影)

ストーリーテリングを施した展示と同様に、犠牲者の追悼を目的としたアートも印象に残った。絵画や装飾したバイク、テロ当日の空の色を何百人もの人々が描いた作品。作品の一つ一つが語りかけてくるようで、じっと見入ってしまった。

戦争やテロの展示とは異なるが、以前、シンガポールで訪れた「シンガポール・シティ・ギャラリー」も、都市の発展をストーリーで伝える展示だった。立体的なジオラマや双方向的な仕掛けが、非常に印象に残っている。デザイン性の高い、まるでアートのようなパネルも目立った。どうやら「ファクト」 を「ストーリー」として伝える手法や、アートとして伝える手法が、世界の潮流のようだ。

そのことを頭では理解しているのだが、筆者が「9.11 メモリアルミュージアム」において最も印象に残った展示は、「ストーリーテリング」と「アート」のどちらの要素もない、ビル崩壊前後の写真と動画であった。鬼気迫る表情で逃げる人々の写真・動画の数々に、言葉を失った。こうした資料が多数残されている場合、事実を後世に伝えるという意味では素晴らしい展示だと感じる。しかし、数が少ない場合はどうすべきか。先の大戦においては、どうしても資料の数は限られてしまう。こうした理由から、筆者は「被爆再現人形」について、関係者が苦肉の策として制作した展示だったと推察する。

「9.11 メモリアルミュージアム」に隣接した記念碑には、犠牲者の氏名のが彫られた箇所に星条旗があった=2019年7月(筆者撮影)
「9.11 メモリアルミュージアム」に隣接した記念碑には、犠牲者の氏名のが彫られた箇所に星条旗があった=2019年7月(筆者撮影)

SNSやYahoo!ニュースコメント欄などを確認すると、「被爆再現人形」を残しておいた方がよかった、との意見も目立つ。ここで答えを出すことはできないが、今後議論の余地はまだあるようにも思えてならない。