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「話が違う」連れて行かれた先は原生林 ボリビアの穀倉地帯を作った日本人移住者たち

田中森士ライター・元新聞記者
南米への移住を呼びかけるポスター=ボリビア日本人移住資料館で筆者撮影

南米に日本人が移住し始めてから今年で120周年を迎えた。今から60年ほど前に集団移住が始まったボリビアの「サンフアン日本人移住地」は当初、「犬も通わぬ」と称されるほど過酷な環境だった。それでも団結して米栽培や養鶏に取り組んできた彼らは、今ではボリビア全土の食卓を支える存在となった。長崎や福岡、熊本など九州出身者が多いことから、九州の一部の方言が「サンフアン弁」として使われている同移住地。盆踊りなどの行事も活発で、古き良き日本が今も残る。一方で、時代の流れとともに日本文化の継承が難しくなってきた。同移住地の歴史、直面する課題について現地で取材した。

「だまされた」たどりついた先の原生林

「聞いていた話と違うじゃないか」

サンフアンに到着したばかりの藤井義男さん(74)は、目の前に広がる光景に全身の力が抜けた。

無償で与えられた1人あたり50ヘクタールの土地は、ほぼすべてが原生林。耕作が困難なことは、農業未経験の藤井さんでも瞬時に理解できた。「だまされた」。そう思ったが、一家の財産をすべて処分しての移住。後の祭りだった。

藤井さんが移住した当初のサンフアンは原生林が広がるだけだった(日ボ協会提供)
藤井さんが移住した当初のサンフアンは原生林が広がるだけだった(日ボ協会提供)

1945年元日、フィリピンで生まれた藤井さんは、8カ月後の終戦とともに両親と日本に引き上げた。父の地元・熊本県多良木町で数年間を過ごした後、家族で現在の福岡県へ転居。炭鉱で汗を流す父が一家の生活を支えた。福岡大大濠高校を卒業した直後、父が突然「ボリビアに移住する」と言い出した。父は猛反対する母に対し、先に南米に移住していた親戚から誘われた、もう行くと決めたからと説明した。

それを聞いた藤井さんは「なんだか面白そうだぞ」と思った。元々が好奇心旺盛で刺激を求める性格。「普通のサラリーマン人生なんてまっぴらごめんだ」とのスタンスで生きてきた。実は福岡県内の大学への進学が決まっていたが、全く気乗りしなかった。まさに渡りに船。憔悴(しょうすい)する母を尻目に心踊りながら移住の準備を進めた。

南米へ向かう船に乗り込む直前の藤井さん(右)(日ボ協会提供)
南米へ向かう船に乗り込む直前の藤井さん(右)(日ボ協会提供)

1963年、藤井さんは最後の集団移住となる第17次船団の一員として、両親、兄弟らとともに船に乗り込んだ。1カ月以上船酔いと戦った末、ようやくブラジル・サントス港に入港。そこからは石炭ではなく薪をくべるタイプの蒸気機関車に乗り換えて、サンフアンを目指した。

目的地が近づくにつれ、藤井さんは「何だか様子がおかしい」と感じた。更地のような場所を開墾するものとばかり思っていたが、道すらまともに整備されていない。周囲は原生林だらけだ。割り当てられた土地にたどり着いたが、そこもほぼすべてが原生林だった。母はその場に立ち尽くしていた。

雨が降ると車は立ち往生した(日ボ協会提供)
雨が降ると車は立ち往生した(日ボ協会提供)

地球の反対側の「日本」

ボリビア・サンタクルス県の県都、サンタクルス市から舗装された道を車で2時間半。突如として「サンフアン日本人移住地」と書かれた巨大なゲートが眼前に現れた。南北36キロメートルの細長い形状をした同移住地は、2万7000ヘクタールもの広大な農地が広がる。基幹産業は米と養鶏。ほかに小麦や大豆、柑橘、マカダミアナッツなども栽培している。

サンフアン日本人移住地のゲート=2019年7月(筆者撮影)
サンフアン日本人移住地のゲート=2019年7月(筆者撮影)

サンフアンで暮らす日系人は260世帯717人(2019年6月末日時点)。街を歩けば日系人とよくすれ違い、「こんにちは」と頭をちょこんと下げて笑顔で挨拶してもらえる。何軒かの日本料理店が看板を出しており、カレーライスや唐揚げ、ちゃんぽんといった料理を楽しめる。

日本料理店ではちゃんぽんや唐揚げが楽しめる=2019年7月(筆者撮影)
日本料理店ではちゃんぽんや唐揚げが楽しめる=2019年7月(筆者撮影)

図書館には日本語の本が並び、学校では日本語教育が行われている。お年寄りが集まる「サロン」や福祉施設もある。日本からすれば地球の反対側に位置するが、ここはまさに「日本」だ。

ボリビア日本人移住資料館(ボリビア・ラパス市)によると、日本からボリビアへの最初の移住は1899年。ペルーに集団移住した日本人移住者の一部が、ゴム採取の仕事のためラパス県に入ったのが始まりとされる。第二次世界大戦で日本とボリビアの国交が途絶えたが、終戦後に国交が回復すると「サンフアン」「オキナワ」の2つの日本人農業移住地が誕生。このうちサンフアンは、日本とボリビアとの移住協定に基づき計画された。

ボリビアの位置。サンフアンは地図中のサンタクルスから車で2時間半ほどの場所にある=ラパス市のボリビア日本人移住資料館(筆者撮影)
ボリビアの位置。サンフアンは地図中のサンタクルスから車で2時間半ほどの場所にある=ラパス市のボリビア日本人移住資料館(筆者撮影)

夢を抱いて海を渡った移住者たちだったが、サンフアンに移住した当初の環境は過酷で、定着率が極めて低かった。絶望した第1次移住者たちは「アメオオク、ミチナク、エイノウフカノウ(雨多く、道なく、営農不可能)」と日本の新聞社や政党に対して訴えた。しかし彼らの思いは届かず、移住中止には至らなかった。

移住当初は斧一本で巨木と格闘した(日ボ協会提供)
移住当初は斧一本で巨木と格闘した(日ボ協会提供)

斧(おの)一本で原生林と格闘してゼロから切り開いた歴史。サンフアンの移住者(日系1世)たちは「我々の苦難の歴史を多くの日本人に知ってほしい」と口にする。藤井さんも、そのうちの一人だ。

斧が入らないほどに硬い木に、突然、縦に裂けて人間を傷つける木。さらには、体長5メートルはあろうかという巨大ヘビ、じろりと睨みを効かせるワニ、デング熱を媒介する蚊。藤井さん一家にとっての開拓は自然との戦いでもあった。

少しずつ農地を広げ、死に物狂いで働いた。アルゼンチンに花卉(かき)栽培を学びに行ったり、大型農機を購入したり、養鶏を始めたり。リスクを取りながら戦った。2012年に母、14年に父、16年に妻が他界。現在はサンフアン中心部で一人暮らしを送る。

藤井さんは移住の歴史を後世に伝えようと、所有する土地の一部で原生林を保存している=2019年7月(筆者撮影)
藤井さんは移住の歴史を後世に伝えようと、所有する土地の一部で原生林を保存している=2019年7月(筆者撮影)

藤井さんは、所有する土地の一部に原生林を残している。現地へ連れて行ってもらうと、野生のキツネがこちらを見ていた。サンフアンは開拓し尽くされ、若い世代が移住当初の苦労を知る手段は今や少ない。藤井さんは原生林に消えたキツネを目で追いつつ、「若い世代に移住当初の苦労ば伝えていかなん」とつぶやいた。

「移住の歴史を伝えていかなければ」と語る藤井さん=2019年7月(筆者撮影)
「移住の歴史を伝えていかなければ」と語る藤井さん=2019年7月(筆者撮影)

移住当初は毎日泣いていた

藤井さんのように、今もサンフアンで暮らす人は実は少数派だ。あまりの過酷さに、多くの移住者は耕作を諦めて帰国するか、南米各都市へと移り住んだ。富永京子さん(83)もそんな一人だ。

熊本県益城町で生まれた富永さんは1961年、第10次船団でサンフアンに移住した。移住当初は「毎日泣いていた」と振り返る。

長旅の末、現地に着いた富永さんは、驚きのあまり言葉が出なかった。まず、道がない。農業の経験がない一家だったが、割り当てられた土地は原生林が広がるだけだった。モタク(ヤシ葺の小屋)の自宅は雨漏りがひどく、まともな精神状態ではいられなかった。富永さんは自分の置かれた環境を恨み、移住したことを後悔した。しかし、どこに怒りをぶつけていいか分からない。毎晩のように枕を濡らした。

焼畑農業のためにはまず巨木を切り倒す必要があった(日ボ協会提供)
焼畑農業のためにはまず巨木を切り倒す必要があった(日ボ協会提供)

益城町に帰りたかった。でも、帰るに帰れない。覚悟を決め、先輩移住者らに教えを請い、農業に取り組んでいくことにした。原生林に広がる巨木を斧で切り倒す。下草に火をつけて焼き払う。陸稲の種をまいていく。原始的な農法。しかしそれしか方法がない。

そんな富永さん一家に、天は味方をしてくれなかった。雨があまりにも多く、焼畑がうまくいかない。結局、3年続けて米作りは失敗した。移住から5年目、富永さんは一家でサンタクルスに移り住むことを決めた。

サンタクルスでは、日本料理店とボリビア料理店を合計7年経営した。寝る間もない忙しさだった。ある時、夫が肝臓を悪くしたことが判明した。原因はアルコールの飲みすぎだった。1977年、夫はそのまま帰らぬ人となった。

その後は、子どもたちと暮らした。長男の仕事の関係でメキシコに引っ越したり、移住後に生まれた長女とサンタクルスに住んだり。「あっという間」に月日は流れた。

移住して58年。それでも「私の中では益城町が一番大好きな場所」と言い切る。2016年に発生した熊本地震では、毎日テレビにかじりついた。実家が全壊したと聞かされた。何もできないことがもどかしく、胸が苦しかった。サンタクルス熊本県人会として義援金を贈った。

サンフアンで開かれた、熊本県人会員が80歳を迎えたことに対する祝状伝達式。蒲島郁夫・熊本県知事名の祝状を藤井さんが代読した。富永さんは年に数回の県人会の集まりを楽しみにしている=2019年7月(筆者撮影)
サンフアンで開かれた、熊本県人会員が80歳を迎えたことに対する祝状伝達式。蒲島郁夫・熊本県知事名の祝状を藤井さんが代読した。富永さんは年に数回の県人会の集まりを楽しみにしている=2019年7月(筆者撮影)

故郷の両親は他界した。実家も全壊した。もう地元に頼れる人、場所はない。それでも富永さんは「自分は熊本県人」との思いが強い。富永さんが所属するサンタクルス熊本県人会は、サンタクルスとサンフアンで計40数名の会員がいる。富永さんは、サンタクルスやサンフアンで年に数回開催される県人会の集まりを、楽しみにしている。

移住当初は「毎日泣いていた」と振り返る富永さん=2019年7月(筆者撮影)
移住当初は「毎日泣いていた」と振り返る富永さん=2019年7月(筆者撮影)

時々、人生を振り返る。自分は移住してよかったのかどうか、幸せな人生を歩めたのか。答えはいつも同じだ。「まあ、幸せかな。移住してよかった」。

日本文化に誇りを持ち、ボリビアに溶け込む

日系人による自治が認められており、かつボリビアの貴重な穀倉地帯として重要な役割を果たしているサンフアン。日本文化が色濃く残る場所だからこそ、近年では日本文化の継承や、ボリビア社会といかに融合するかが課題として挙げられるようになった。2004年の市長選で54%という圧倒的な得票率で勝利、2005年にサンフアンの初代市長に就任した日系2世の伴井勝美前市長(53)は、こうした課題に精力的に取り組んできた。

「我々日系人は、日本文化に誇りを持ちつつボリビア社会に溶け込んでいく必要がある」と語る伴井前市長=2019年7月(筆者撮影)
「我々日系人は、日本文化に誇りを持ちつつボリビア社会に溶け込んでいく必要がある」と語る伴井前市長=2019年7月(筆者撮影)

サンフアンにおける日系人とボリビア系住民の関係性は、何十年もの時間をかけて形成されてきたものだ。日系人が仕事を提供し、ボリビア系住民が労働力を提供する。トラブルも多かったが、「お互いを尊重し合う雰囲気が徐々に生まれていった」(伴井前市長)。その後、サンフアンの農業の発展とともに、周辺地域から多数のボリビア系住民が仕事を求め新たに流入。地域の歴史を知らないボリビア系住民と日系人との間に壁が生まれていったという。

伴井前市長は、こうした問題を解決するためにも、教育改革を行う必要があると判断。「時間や約束を守る」という日系人の良い部分を、サンフアン市内すべての学校で浸透させた。世の中が良くなるような日本の普遍的な価値観について、ボリビア社会に取り入れる。そうすることで日系人への理解も深まるのではと考えたのだ。同時に、住民らが地域の問題を話し合う場においては、ボリビア系住民とスペイン語を話せる日系2世を積極登用するようにした。

伴井前市長は、「我々日系人は、日本文化に誇りを持ちつつもボリビア社会に溶け込んでいく必要がある」と指摘。「外国人だから」というマインドのままでは、ボリビアで孤立して不利益を被る可能性があるとした上で、「若い世代が『自分は日系ボリビア人だ』と自信を持って言えるようになればボリビア国内でのプレゼンスが高まり、それが日本文化の継承に繋がるはず」と訴える。

日本語に触れる機会をいかに増やすか

サンフアンの教育機関でも、日本語や日本文化の継承が大きな課題として横たわる。サンフアン日本ボリビア協会(日ボ協会)が運営する学校「サンフアン学園」。校内に足を踏み入れると、教室の方から子どもたちのはしゃぐ声が聞こえてきた。

日ボ協会が運営するサンフアン学園=2019年7月(筆者撮影)
日ボ協会が運営するサンフアン学園=2019年7月(筆者撮影)

学園に通うのは日系3〜4世とボリビア系住民。児童数170人の初等科、生徒数54人の中等科があり、69人が通う付属の幼稚園もある。同学園は使命として「ボリビア・日本両国の真の発展に貢献できる人材の育成」を掲げ、午前中はスペイン語で通常授業を、午後は日本語教育を行っている。

1983年度には日系人が87%(両親のどちらかがボリビア系も含む)を占めたが、2019年度にはその割合は25%まで低下。実際、校内ですれ違う児童・生徒はボリビア系の顔立ちが多い。

かつてはサンフアンの多くの住民にとって「母語」であった日本語。しかし、移住地内でのボリビア系住民の急増、さらには3世、4世といった新たな世代の誕生に伴い、次第に「外国語」として位置付けられるようになった。日本の国語の教科書を使用した授業も同学園の特色の一つだが、日本人教員の確保は「毎年綱渡り」。同学園は「指導が難しい状態になってきている」と焦りの色を隠さない。

サンフアン学園で日本語教育に携わる、(左から順に)川畑さん、佐藤さん、渡邉さん=2019年7月(筆者撮影)
サンフアン学園で日本語教育に携わる、(左から順に)川畑さん、佐藤さん、渡邉さん=2019年7月(筆者撮影)

特に幼稚園では現在、日本語の専門教員がいない。週2回、学園から教員が赴き、1時間の授業を提供しているだけだ。それに伴い、進学したばかりの小学1年の日本語授業では、ついていくことが難しい児童も見られるようになってきた。小学3年と中学1年で日本語を教える川畑日史さん(29)は、「各家庭と緊密に連絡を取りながら、授業に遅れる子が出ないよう常に注意を払っている」と明かす。

JICAボランティアとして同学園で日本語教育をサポートする渡邉萌捺さん(24)は、「日本語教育がすぐになくなることはないが、近い将来、学校というより塾のような存在になる可能性は十分ある」と警鐘を鳴らす。一方、小学2年と中学2年を受け持つ佐藤修子さん(36)によると、中学生になると日本のアニメや漫画で勉強している生徒もいるといい、日本語や日本文化を身近に感じられる環境があるともいえる。渡邉さんは「子どもたちが日本語を使う機会をいかに作っていくかが私たちの役割」と決意を新たにした。

日本文化を受け継ぎ、伝えることが役目

日本文化の継承に向けて、地元の若者たちが力を注ぐ場所。それがサンフアン青年会だ。

同青年会は、高校を卒業した18歳から30代前半までの日系人の若者が所属する組織。現在は2〜4世で構成され、3世が最多。男女比は6対4で、日系人とボリビア系住民とのハーフも一定数いる。若者の力でサンフアンを盛り上げることが目的で、カラオケ大会やクリスマスパーティーなど、2カ月に1回の頻度で開催される主催イベントを企画している。

毎月第1土曜日の定例会議には毎回20人ほどが参加する=2019年7月(筆者撮影)
毎月第1土曜日の定例会議には毎回20人ほどが参加する=2019年7月(筆者撮影)

サンフアン出身者は、毎年10人ほどが高校を卒業する。以前は地元に残り農業を継ぐ者が多かったが、今ではほぼ全員がサンフアン外に進学。大掛かりな準備が必要な青年会主催のイベント開催は難しくなってきた。

原裕子副会長(25)は「日本文化が徐々に失われていくことが悲しい。祖父母世代の文化を残していかなければ」と決意をにじませる。伴井笙子書記(19)も「私たちの役目は日本文化を受け継ぎ、伝えていくことだ」と力強く語る。

青年会の運営を担う(左から順に)伴井書記、徳永会長、原副会長=2019年7月(筆者撮影)
青年会の運営を担う(左から順に)伴井書記、徳永会長、原副会長=2019年7月(筆者撮影)

かつて青年会を引っ張った池田篤史・元会長(28)は、「南米では『日系社会は3世まで』というのが定説。4世になるとほぼ『現地の人』になってしまい、『移住地』という存在が消滅してしまうことが多い」と指摘。何もないところから「団結すること」によって時代を切り開いてきた1世を引き合いに、「若者の中には1世の苦労を本当の意味で理解できない者も多く、日本の伝統を重要と思わない傾向も一部である。青年会という組織は若者が団結して日本文化を継承するためのいわば『最後のとりで』だ」と訴える。

徳永直人会長(27)は、「農業に関心のない若者には、サンフアンに残るという選択肢がない。日本文化継承の第一歩は人材流出を防ぐこと。僕たちがもっと魅力あるサンフアンに変えていかなければ」と力を込めた。

近年最大の危機を迎えたサンフアン

サンフアンは今、近年で最大の危機を迎えている。作物価格の下落や人件費の上昇によって、「ほぼ唯一の産業」とも言える農業が大打撃を受けているのだ。例年6〜7月は鶏卵の価格が上昇するのだが、今年はむしろ下落傾向。農家の収入は大きく減少した。日系1世が立ち上げた歴史ある農協の関係者も、頭を抱えている。

今年7月1日に就任したサンフアン農牧総合協同組合(農協)の米倉勇生組合長は、「昨年からサンフアンの景気が悪化している中で、鶏卵価格の下落はそれに追い討ちをかける形となった。農協としては果物など新たな付加価値の高い作物に挑戦していくつもりだ」と厳しい表情で語る。

日ボ協会の澤元静雄会長は、「サンフアンでは今、生活が非常に厳しい。この難局を一丸となって乗り越えなければ」と決意表明。ボリビア日系協会連合会の日比野正靱会長は、「ボリビアの日系人社会は団結することで数々の危機を乗り越えてきた。しかしながら近年はそういったものが弱くなっている印象だ。日系社会を維持していくためにも、日系人の繋がりをこれまで以上に大事にする必要がある」と指摘する。

サンフアンの農地から望む夕日=2019年7月(筆者撮影)
サンフアンの農地から望む夕日=2019年7月(筆者撮影)

地域を支えるはずの若い世代が地域外に出てしまうことは、農業が基幹産業である地域の宿命なのかもしれない。若い世代を地域に根付かせるためには、魅力ある産業を生み出すこと、そして日本文化(地元文化)の価値を伝え続けることが何より重要だ。青年会の意欲ある若者たちとも連携し、地域が一丸となって取り組む必要があると強く感じる。日本の地方都市にも似た課題を抱えるサンフアンは今、転換点に来ている。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています】

ライター・元新聞記者

株式会社クマベイス代表取締役CEO/ライター。熊本市出身、熊本市在住。熊本県立水俣高校で常勤講師として勤務した後、産経新聞社に入社。神戸総局、松山支局、大阪本社社会部を経て退職し、コンテンツマーケティングの会社「クマベイス」を創業した。熊本地震発生後は、執筆やイベント出演などを通し、被災地の課題を県内外に発信する。本業のマーケティング分野でもForbes JAPAN Web版、日経クロストレンドで執筆するなど積極的に情報発信しており、単著に『カルトブランディング 顧客を熱狂させる技法』(祥伝社新書)、共著に『マーケティングZEN』(日本経済新聞出版)がある。

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