8月15日、終戦記念日に考えてほしい「台湾統治」のこと

台湾地区受降式が行われた台北公会堂。今に残る。(資料所蔵:国立台湾図書館)

日本の8月15日との違い

 2019年8月15日は新しい元号「令和」初の終戦記念日である。終戦から74回目の8月15日。とりわけ8月に入ると日本では、広島と長崎の原爆記念日、そして終戦記念日とあるので日本のテレビでは今年なら終戦から74年、といったあの戦争を忘れないための特番が放送される。新聞も同様だ。

 台湾では類似の報道を見かけることはない。たとえば、今年8月8日には台湾東北部を震源とする地震があり、その日から8月9日にかけては台風9号が通過した関係で、関連情報が一気に増えたものの、台湾のテレビは基本的に来年の台湾総統選挙に向けた報道一色である。

 総じていうなら、8月15日は日本人にとって特別な日ではあっても、一般の台湾人にとっては普通の日に過ぎない。たとえば韓国では「光復節」として位置づけられているのとはちょっと違っている。

 「光復節」を辞書で引くと、「朝鮮が日本の植民地支配から解放された1945年8月15日を記念する祝日。〈光復〉とは失われた祖国と主権の回復をいう。だがそれは同時に〈民族分断〉という新たな受難の始まりでもあり,〈分断時代〉と呼ばれる朝鮮現代史の原点としての意味も持つ。なお8月15日は北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)では〈解放記念日〉として祝日になっている」などと説明されている(参考リンク)。

 1945年時点で植民地支配を受けていたのは、朝鮮半島だけではない。台湾も1895年以来、日本の植民地とされてきた。また、台湾にも同じように光復節があるものの、日付は10月25日だ。この日、台湾では一体何があったのか。1枚の写真がある。

受降式にて。日本側としては当時の安藤利吉第19代台湾総督兼軍司令官のほか、高官が列席した。(資料所蔵:国立台湾図書館)
受降式にて。日本側としては当時の安藤利吉第19代台湾総督兼軍司令官のほか、高官が列席した。(資料所蔵:国立台湾図書館)

 上の写真は1945年10月25日、台北市内で行われた「台湾地区受降式」の様子を撮影した1枚だ。写真の右側は台湾省行政長官として接収にあたった陳儀、左は日本軍参謀長の諌山春樹とされている。1946年4月に出された「台湾統治終末報告書」には、この10月25日について、以下のようなくだりがある。

 --台湾軍の無条件降伏正式に確定するとともに、台湾総督の職権は取り消され、日本の台湾統治は終局を告ぐることとなった次第であります。(「台湾統治終末報告書」)

 つまり、この10月25日をもって日本の台湾統治が終了した日、と位置づけられているのだ。台湾で10月25日を光復節という理由はここにある。戦後、休日に関連する法律が改正される2000年まで祝日とされていた。

終戦前後の台湾で起きていたこと

 先の報告書をまとめたのは「台湾総督府残務整理事務所」という。1946年から1952年度末までのわずかな間、設置された部署である。名前の通り、残務整理を担う部署で、主には引揚職員の人事、会計、一般引揚者の証明などを担当していた。

 報告書は「我が国の台湾統治終局につきまして、顛末をご報告申し上げますことは、実に感慨無量の至りに存じますが、(1946年)4月下旬、在台40余万の軍官民の引き揚げ還送が完了いたしました」という一文で始まる(カッコ内は筆者補足。現代表記に改めた。以下同)。

 そして、終戦直前から日本人引き揚げ完了までのおよそ1年弱の経過をわずか22ページ、すべて手書きでまとめている。文書内に収められたこの間の主な動きを抜粋してみよう。

 1945年8月15日 終戦の大詔

 1945年9月9日 中国戦区受降調印式

 1945年10月5日 台湾省行政長官公署警備総司令部前進指揮所設置

 1945年10月24日 陳儀長官兼警備総司令官が台湾に着任

 1945年10月25日 台湾地区受降式

 1945年11月1日 行政司法部門の接収開始

 1945年11月8日 地方庁の接収開始

 1945年12月  学校その他の諸機関接収開始

 1946年2月  在台日本人の集団還送開始

 1946年3月下旬 日本籍職員教官民7,000人、家族含め28,000人の残留を決定

 1945年、台湾は戦場化必至と見られていたため、飛行場の増設、築城陣地構築などの迎撃体制が強化され、各種軍需資材や生活必需品の島内自給を図り、学徒兵招集もその一環として行われた。ところが8月15日に昭和天皇からラジオを通じて台湾全土に終戦の大詔が伝えられると、台湾に暮らす人たちには一様に動揺が走った。

 終戦直後の時点では、在台日本人は台湾に残留を希望する人が多かったという。50年に渡る台湾統治の間に、台湾は紛れもなく故郷となっていたし、生活基盤のすべてが台湾にあったためだ。仮に50歳の人がいきなり行ったことさえない場所に転居を迫られたら……その混乱は想像に難くないはずだ。

 9月に入り、9日に行われた中国戦区の調印式で、台湾の中華民国復帰が確実となってからは、台湾人による地方官に対する暴行、コメの供出拒否などが起きる。そして、10月に行政庁官公署が設置されると日本の行政執行が弱まり、治安の混乱、物価の急激な高騰など、社会不安が蔓延した。

 一方、総督府としては中華民国側へ接収に向けて50年の台湾統治を「有終の美」で終わらせるよう目指していたが、実際にはほど遠い状況にあったと嘆き節に近い文言も見られる。また一連の接収業務を行う中で、「(中華民国側が)専ら物的接収に重きを置き、懸案事項、緊急要務等重要なる行政事務の引き継ぎにはほとんど関心を示さぬことは、日本側の意外とするところ」であった、とある種の懸念も示されている。この報告書の出された約1年後、大量の台湾人が体制側に殺される「二二八事件」が起き、白色テロへとつながっていくわけだが、その火種はすでにこの頃にあったことが読みとれる。

73年前から送られたメッセージ。

 1940年の統計によれば、当時、台湾の全人口は約600万人。彼らはすべて「日本人」だった。終戦によってその関係は突如として変わることになり、1946年に約40万人が日本へと向かった。この急激な変化を、台湾の人たちはどう受け止めていたのか。報告書には、こんな指摘がある。

 --ひとたび中国復帰明らかとなり、中国側の解放光復の宣伝展開せられまするや(略)急激に日本より離反するに至るを目の当たりに見、在留日本人は等しく異民族統治の困難を今さらながら索然として痛感いたした次第であります(「台湾統治終末報告書」)

 一気に中華民国へ復帰する機運が高まった理由を、よくよく考える必要がある。本報告書に記載のない事項として付け加えておくが、統治時代には幾度となく抗日事件が起き、そのたびに多くの台湾人が殺されてきた。第二次大戦中、1944年10月から1945年8月10日まで何度も空襲を受けて5,582人の方が亡くなった。また台湾から徴兵されて戦地へ向かった人の数も20万人を超える、とされている。

 報告書は、次のように結ばれていた。

 --最後に台湾は日本の版図より離脱いたしたのでありますが、半世紀にわたる日本との関係は急激に切断し得るものではなく、文化、産業、経済の各部門に渡り今後においても日本との連携を要するもの少なからず存ずるものと思料せられます。日本といたしましても、今後なお、台湾に対する関心を失わず、交易、文化交換等の平和的方法により互助互恵の関係を維持し、国運再建の一助とし、あわせて日華提携に寄与するところあらんことを衷心念願してやまぬ次第であります。(「台湾統治終末報告書」)

 報告書作成から73年が過ぎた。この間、日本は1972年に台湾との外交関係を失い、正式な国交関係は今もない。教科書には日本が台湾を統治していた事実さえ明確な記述がないため、50年もの間、日本が台湾にしてきたことを振り返る手立てなど、なきに等しい。先の戦争への反省として、日本の受けた被害だけではなく、植民地の人たちをも巻き込んでいたことを決して忘れてはならない。今日は、終戦記念の日なのだから。