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森山良子 歌い手として進化を続けた55年を振り返る。「ようやく見えてきたものがある」

田中久勝音楽&エンタメアナリスト
写真提供/ソニー・ミュージックダイレクト

55周年を記念したオールタイムCDボックス『MY STORY』は、900以上の作品から、初商品化曲を含む159曲収録。

1967年1月「この広い野原いっぱい」でデビューした森山良子が、55周年を迎えた。それを記念した、レーベルの枠を越えたオールタイムCDボックス(8枚組)『MY STORY』が、2月28日に(通販とコンサート会場限定で)発売され好調だ。これまでレコーディングした、900曲以上の楽曲の中から、「この広い野原いっぱい」「さとうきび畑」「涙そうそう」といった全シングル曲62曲を含む159曲を収録。このうち1970年代初期の幻のテレビドラマ主題歌3曲、1983年にフランス・パリでレコーディングされた、全曲フランシス・レイ作曲による未発売アルバムの収録曲2曲など、7曲が今回初商品化される。

『MY STORY』(Blu-spec CD2/8枚組/全159曲収録/¥16,500(税込)/ソニー・ミュージックダイレクト/2月28日発売)
『MY STORY』(Blu-spec CD2/8枚組/全159曲収録/¥16,500(税込)/ソニー・ミュージックダイレクト/2月28日発売)

さらに森山が「私も知らなかったことがある」というヒストリーや、詳細なディスコグラフィーなど、4万字におよぶ解説を掲載した別冊ブックレットがついている。森山にインタビューし、これまでの音楽人生を振り返ってもらった。

「50年経って森山良子という歌い手がようやく確立された」

森山はデビュー50周年の時に50組の音楽仲間を迎えて歌った「この広い野原いっぱい」やコンサートでの人気レパートリー「聖者の行進」「ピープル」などを歌い直したアルバム『Touch me…』をリリースし、オールリクエストでのライブを行なうなど盛り上がると共に、大きな節目ということもあり、それまでを振り返り、自分と向き合う時間でもあった。

「50周年は、確かにひとつの区切りという感じがありましたが、それまで50年経った自分を想像したことがなくて。40周年の時もそうでしたが、毎回『私、いつまでこれやるんだろう?』って、自分の中で止まらなくなっている感じがずっとあるんです。暗中模索、手探りで『本当の自分って、本当の森山良子の歌ってどこにあるんだろう? 最初に目指したものって何だったっけ?』みたいな感じです。あまりに忙しくコンサートを続けてきたので、今まで落ち着いて考える時間もなかったのかもしれません。コンサートはいつも満席というわけではなく、お客さんが半分の時もありました。紆余曲折、アップダウンを繰り返しながらの続けてきた50年でした。50周年の時に、森山良子という歌い手がようやく確立されて、そこから5年経って、ようやく見えてきたものがある、そんな感覚です」。

歌手として、一人の女性としてのその激動のヒストリーは、ブックレットに詳細に記されているが、人間味あふれる逸話の数々が歌詞、歌とリンクして、曲がより伝わってくる。

「『このブックレットのチェックをしてください』と言われて読み始めたら、『うん、うん、え?へえ』ってうなずいたり、驚いたり、自分が知らないことや、それぞれの時代の音楽業界についてや、私が通り過ぎてきたことが書かれていて『ああ、そうだったんだ』ということばかりで、よく調べ上げたなと思って(笑)。私は20歳過ぎまでは平々凡々、のほほんと育ってきたけど、こうやって改めて自分のことを振り返ってみると、それ以降はぐしゃぐしゃになっているので、ちょっと笑いましたね」。

カレッジフォークブームの中、『この広い野原いっぱい』でデビューするも、「私フォークじゃないですからと、ずっと思っていました(笑)」

元々はジャズ歌手を目指していた森山は、カレッジフォークブームの中1967年1月に「この広い野原いっぱい」でデビューし、翌年2月にはアルバム『この広い野原いっぱい/森山良子フォーク・アルバムNO.1』をリリースし、“天使の歌声”を持つフォークシンガーとして一躍注目の的になった。その後は洋楽カバーや歌謡曲、ニューミュージック、英語でスタードナンバーを歌ったり、クラシック、ジャズまで、時代の潮流に乗りつつも、ジャンルにこだわらずその時代時代が求める“いい歌”を歌い、それぞれの時代でポジションを築いてきた。

「私はずっと恵まれていたと思います。中高校生の時、世の中のことは全く知らず、レコードシンガーとかテレビに出るシンガーになるなんて、全く考えたことありませんでした。ただ歌いたい、それだけだったのが本当にいい出会いに恵まれて、皆さんが私を色々なところ、思いもよらない場所に連れて行ってくれて。華々しいのが苦手で、あくまでも自分は、ひとりのささやかなシンガー、それがイメージでした。父がジャズのトランぺッターで、音楽で家族を養っていたのと同じように、私もライブハウスなどでジャズを歌って、生活していきたいと思っていました。有名になりたいという思いは全くありませんでした。でも、思いもよらない方向にどんどん引っ張られて『この広い野原いっぱい』をデビュー曲にすると言われた時は『いえいえ、もっともっとかっこいいのが歌いたいんです私』って感じでした(笑)。それは洋楽なんですけど、意図しないものの中にはめ込まれてしまうジレンマが、ものすごくありました。それと相反した私のイメージが固定化されて『フォークの森山良子さんです』とか、『フォークの女王』とか言われて『いや、私、フォークじゃないですから』って、ずっと思っていました(笑)」。

「『禁じられた恋』でプロ意識が芽生えた。そういう意味では歌手としての土台を作ってくれた忘れられない曲」

CDボックス『MY STORY』
CDボックス『MY STORY』

今回の作品は900曲以上レコーディングしたものの中から159曲をセレクトし、収録されているが、そこにはこの企画立ち上げたソニー・ミュージックダイレクトのディレクター加納糾氏の情熱や思いが反映されている。森山が当時所属していたソニーミュージックを「森山良子の制作をやりたい」と志望した加納氏がピックアップした曲には、森山も忘れていた作品もあったという。今回の作品の中で森山がそのキャリアの中で大きなポイントになった、思い入れが強い曲を教えてもらった。

「加納さんが私のことを本当に掘り下げてくださって『この曲、私、歌ってるの?知らなかった(笑)』みたいなものも選ばれていて、びっくりしています。私の知らない私のよさを引き出してくださって。本当にたくさんの曲を歌わせていただきましたが一番思い入れの強い曲というと、やっぱり『禁じられた恋』(1969年)でしょうか。まさかこういう歌謡曲を歌うことになるとは思いもよりませんでした。当時私が露骨に嫌な顔をしたので(笑)、作曲家の三木たかしさんも『嫌なんでしょ?』っておっしゃって(笑)。それでもひるまず歌っていると、<恋は命と同じ>という部分の歌い方を、こぶしを入れるようにと指導されて、歌い方を指導されるのも、生意気でしたからすごく嫌で(笑)。でも私がどうしてこの歌を歌えたかというと、私のような小娘のために、三木さんを始め、スタッフの皆さんの本当に真剣にヒット曲を作ろうとする姿勢、大人の猛烈な仕事ぶりを生まれて初めて目の当たりにして、いい意味でショックを受けたからです。自分ではこの曲を歌うことに大きな抵抗感がありましたが、彼らにはヒットになる確信があったのだと思います。だからこそ私にこの曲も含め、色々なジャンルの音楽を歌わせたのだと思います。悔しいけれども、本当に凄まじいスタジオワークでした。その凄まじさに突き動かされたというか、こんなに執念を持って仕事をする人達をそれまで見たことなかったので」。

それまでとは180度違うタイプの「禁じられた恋」は、当時ファンの間でも賛否両論が飛び交ったが、結果的にミリオンヒットになり、森山はこの年「紅白歌合戦」に初出場した。

「『禁じられた恋』」がヒットして、歌謡曲の人達と一緒に歌う場が増えてきて、みなさん苦労して東京に出てきて、ヒットを出すという強い気持ちで歌っていることが伝わってきて。同じ時代にデビューして、私みたいに、のほほんと育って『別にヒットなんかいらない。そんなの私に関係ない』って思いながらが歌っているのと、信念を持って、熱い意欲を持って燃えたぎらせて歌うのとは、全然違います。近くでそういう方たちが歌っているとき『私って小娘だな』て思えて、勉強になりました」。

「演技をやらせてもらったことがきっかけで、コンサートで一人音楽劇をやったり、表現の幅が広がった」

情熱を持って歌っている歌手と同じ舞台に立つなら、それに負けない強い気持ちを持って歌わなければという、プロ意識がこのミリオンヒット曲を通じて芽生えてきた。そういう意味で森山にとって忘れられない一曲になっている。森山は歌だけでく、役者としてもミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』に出演したり、85年にはドラマ『金曜日の妻たちへIII恋におちて』(TBS系)、87年にも『男たちによろし』(同)に出演し、主題歌「DANCE-男たちによろしく-」を歌い、スマッシュヒットになった。森山にとって演技とはどんな存在で、どう向き合っていたのだろうか。

「役者のお仕事を始めたのには事情があって。、当時コンサートの動員が少しずつ減ってきて、数が少なくなっていました。だからできたという部分はあります。でもドラマのオファーをいただいた時、最初は『できないから、絶対に無理』ってお断りしました。でも次の年にもオファーが来てその時もお断りしようと思ったら、スタッフが『お断りしたのにまた来るということは、ドラマの方たちが良子さんの中に何か見出しているんじゃないですか。だから1回くらいやってみたらどうですか?』って言ってくれ、それで背中を押されました。怖かったですけど、実際やってみるとすごく面白くて、素晴らしい経験になりました。ドラマ出演以降は『30年を2時間半で…』など芝居チックな歌を作ってみたり、今も続けていますが、コンサートで新美南吉の『ごんぎつね』を題材にした、一人音楽劇のようなものをやっています」。

シアトリカルな要素を高めた音楽劇などを見せてくれる、長男でシンガー・ソングライターの森山直太朗に、そのDNAは受け継がれているのではないだろうか。

「彼は学生時代に、渋谷のシアターコクーンでアルバイトしていて、中島みゆきさんの『夜会』とか様々な演目を観て、刺激を受けていました。客席係だったので『お足元にお気をつけください』とか『バッグはお膝の上に』とか、接客しながらではありますが、毎日観ていて。彼はそこですごく触発されたと思いますね。家に帰ってきてみゆきさんの曲を歌っていました(笑)。素晴らしい勉強になったと思います」。

「CDはずっと聴くものだから、色々と駆け引きをしながら“うまく収めよう”とする。でもコンサートは自分を試したり、自分の中のイマジネーションも膨らむので、一番楽しい」

前述したこの作品のディレクター・加納氏に、森山にファンになったきっかけを教えてもらい、さらに今回時代を越えて全ての作品を向き合ってみて、改めて森山良子というアーティストの凄さを教えてもらった。

「1972年に初めて森山さんのコンサートを大阪フェスティバルホールで観た時、こんなに歌のうまい人はいないって思って、そこからずっと聴いています。レコードよりコンサートの方が魅力的だと思いました。歌が常に進化していて、それでクラシック(『Ryoko Classics』)までいったのだと思います」(加納氏)

「コンサートの方が生き生きしますよね。レコード、CDは何度も聴くものですから、“うまく収めよう”とする。あんまり感情を込めるのもいやらしいし、色々駆け引きしながら、作品として出来上がっていきます。コンサートが一番楽しいです。自分を試したり『今日はこんな感じで行ってみよう』って遊んでみたり、自分の中のイマジネーションも膨らむので、仕事として一番面白いです。でもコロナになって、それもできなくって、全国各地でお客さんと会って、お話しして、歌を聴いていただくことが、私のベーシックな生活だったので、それが閉ざされて置いてきぼりになったような感じでした。それでインスタを始めてみたら、色々な方から反応があるので、“つながっている”と思えて。ようやくできたコンサートで、嬉しくて一曲目で珍しく泣いてしまいました。でも終演後にインスタを見ると『良子さん、だからライブなんですよ』と書いてくださっていて。ライブだから感じられたり、ライブだから思い出になったり、忘れられなかったり、やり直しがきかないことだし、自分が何をするかも答えを探しながらの方が多いので、面白いのだと改めて思えました」。

4月8日はLA DIVAとして、そして同27日はソロでオーチャードホールのステージに立つ。「自分が歩いてきた道を全部見せる一夜に」

森山は2月18日に、『ミュージックフェア』(フジテレビ系)発信の平原綾香、新妻聖子、サラ・オレインとのユニット・LA DIVAとして、アルバム『LA DIVA』を発売。そのコンサートが4月8日に渋谷Bunkamuraオーチャードホールで行われるが、4月27日には同じオーチャードホールでソロコンサートを行う。

「今回はこの作品のタイトルでもある『My Story』をテーマにしています。これまでは、私たち世代が喜びそうな曲をカバーしたり、これをやれば皆さんが喜んでくださるはず、というものを歌ってきましたが、今回はちょっと違うことをやってみようと。もちろん皆さんが一緒に口ずさめる曲もありますが、皆さんがご存じない曲や、そこまで知られていないジャズをやることで、『My Story』という自分が歩いてきた道を、全部提示できると思っています」。

otonano 森山良子『MY STORY』スペシャルサイト

音楽&エンタメアナリスト

オリコン入社後、音楽業界誌編集、雑誌『ORICON STYLE』(オリスタ)、WEBサイト『ORICON STYLE』編集長を歴任し、音楽&エンタテインメントシーンの最前線に立つこと20余年。音楽業界、エンタメ業界の豊富な人脈を駆使して情報収集し、アーティスト、タレントの魅力や、シーンのヒット分析記事も多数執筆。現在は音楽&エンタメエディター/ライターとして多方面で執筆中。

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