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大江千里 新しい価値観でジャズを更に楽しむ新作は「一緒にパンデミックを戦った愛する街へのラブレター」

田中久勝音楽&エンタメアナリスト
写真提供/ソニー・ミュージックダイレクト

宅録で作り上げた“Electronic Senri Jazz”

ジャズピアニスト大江千里の2年振り通算7枚目のオリジナルアルバム『Letter to N.Y.』が、7月21日に日米同時発売された。コロナ禍のニューヨーク、ステイホームしている中で何ができるか、どうやって音楽を楽しむのか――47歳の時にジャズ留学のためにニューヨークへやってきて、昨年ニューヨークで60歳を迎えた大江は、自分を受け入れ、育ててくれたニューヨークへの思いを綴ろうと、自宅でセルフレコーディングでポータブルキーボードとPCを駆使し『Letter to N.Y.』を作り上げた。“Electronic Senri Jazz”が生まれた。

『Letter to N.Y.』(7月21日発売/日本盤) ジャケットを手がけたのはイラストレーター・水川雅也
『Letter to N.Y.』(7月21日発売/日本盤) ジャケットを手がけたのはイラストレーター・水川雅也

大江にオンラインインタビューし、コロナ禍から脱し、日常を取り戻しつつあるニューヨークで何を感じ取り、新作へと昇華させたのか、聞いた。

「Detroit Jazz Festival2018」の翌日に、デトロイト WJBK (CH.2) FOX TVの朝の情報番組に出演
「Detroit Jazz Festival2018」の翌日に、デトロイト WJBK (CH.2) FOX TVの朝の情報番組に出演

47歳で渡米し14年。これまでにアルバムを6枚作り、ジャズピアニストとしてのキャリアを積んできた大江だが、今回のパンデミックで「また振り出しに戻ったような感覚がある」という。そんな中で制作した『Letter to N.Y.』は、コロナ禍のニューヨークでの生活の中で感じたこと、見たこと、聴こえてきた音、その全てが作品の素になっている。まずニューヨークでのこれまでの生活を振り返ってもらった。

「去年は日本でのツアーも途中でキャンセルになって、アメリカでもこれまで積み上げてきたものが、やっとこの4~5年で手応えあるものになって、60歳になった2020年はもっと道が開けていく予感がしていました。でも全てがストップしてしまって、築いてきた人間関係も構築し直さなければいけない状態になってしまいました」。

「人として一日という時間をシンプルに、丁寧に生きることが大切だと思った」

大江はそこから何をやればいいのか、冷静になって自分に問いかけてみた。するとその答えはシンプルかつ“豊か”なものだった。

「起きてから寝るまでのルーティンを、しっかり人として一日という時間をシンプルに、丁寧に生きることだって思いました。ひとつひとつのことに胸を震わせながら、生きていることはすごいことだぞ、今日という一日は奇跡なんだという感覚を取り戻していきました。そんな中で毎日夜7時になると、街のみんなと一緒に家の窓を開けて、エッセンシャルワーカー、医療従事者のためにカンカンカンって音を鳴らして、感謝の気持ちを伝えました。その時にこんなにたくさんの人が、僕と同じような思いをしながら、昼間は静かに生活しているんだって再確認できて、また今日も冷蔵庫の中にある具材だけで体にいい最高のご飯を作って、明日もいい日にするぞという気持ちで一日を終えていました」。

「命という意味ではエッジに立った状態だった。だからこそ耳だけは研ぎ澄ましていた」

去年は、街から聴こえてくるのは救急車のサイレンの音、目にするのは建物に向かって黙禱する救急隊と、遺体安置用の冷蔵車、食材を買い出しに行くのは「命がけ」で、帰ってきたら買った白菜を一枚一枚殺菌する、そんな「見えない敵との戦争。トンネルの中にいるような感覚」の日々だったという。しかし丁寧な生活を送ったことで、トンネルを抜けた時、明るさを取り戻したニューヨークの街で、新たな気持ちで音楽に向き合うことができた。

「去年の初夏、世界中のコロナによって分断されている人達に向けて『Togetherness』という曲を演奏して、世界に向けて発信しました(米AP通信が選定した“コロナ禍の中作られた40曲”に選ばれる)。それ以降も自分でスマホで録った音や映像を編集して、それを覚えたての方法で加工して社会に随時発信していきながら、だんだん音楽を作ったり映像を撮ったりする上で、僕の中でこうじゃなきゃいけないっていう順序や既成事実がもしやいらないのでは?と、それまでの既成概念が音を立てて崩れていきました。自分の中の古いコンセプトが崩壊した中で、ある意味命という意味じゃエッジに立った状態で、だからこそ耳だけは研ぎ澄まして、これはカッコいいかカッコよくないか、自分が美しいと思うか思わないか、そこだけに忠実にやっていました」。

「従来の枠組み、青写真がないままアルバム制作をスタートさせた」

そもそもジャズという音楽は「人に会って波動を感じ」、それをセッションして楽しむ音楽で、大江もこれまでのアルバム制作では一発録りで、その時その時の化学反応を楽しんでいた。しかしそういうやり方ではなく、宅録でもジャズはできるという新しい考え方が生まれてきた。

「40分くらいのアルバムだったら、10曲入れようと思ったら一曲4分くらいで、という感じの従来の枠組みが全くない、青写真がないまま始めました。譜面も書かずに、音楽ソフトが入っているPCとCASIOのミニキーボードを繋いで、まずリズムループをコピペして貼って、それを繰り返しながらコードを作ってメロディを乗せて、ソフトの中に入っているベース、ドラム、キーボード、ピアノ、オルガン、ホーンの音を全部自分で弾いて、普段演奏するジャズになるまで重ねていって生まれた最初の曲が『Out of Chaos』です。NYのあの混沌から抜け出すんだという思いが、自然に出たのだと思います」。

「尊敬するマイルス・デイビスやジャコ・パストリアスと時を超えてセッションしている気分になったり、色々とタダですぐに試せるのが文明開化でした」

ここまで生ではない音、打ち込みを駆使して作ったのは、6月に発売された『Senri Premium Ⅲ ~MY GLORY DAYS 1993-1999』にも収録されているアルバム『ROOM802』(1998年)以来で、“慣れない”作業に苦労も多かったという。

『Senri Premium Ⅲ ~MY GLORY DAYS 1993-1999』(6月11日発売)
『Senri Premium Ⅲ ~MY GLORY DAYS 1993-1999』(6月11日発売)

「あの時はマニュピレーターもエンジニアもいましたが、今回は一人だったので結構初歩的な事故も多くて(笑)、せっかく5時間くらいかけて仕上げた音を、セーブし忘れて全部消してしまい絶望したり…(笑)。でもそんな時は嘆いても仕方ないので、気分転換に『サッポロ一番塩ラーメン』を作って食べたり、吉本新喜劇の島田珠代ギャグをループにしてを観て大笑いして気持ちを切り替えて(笑)、そうした中一人でやっている面白さがあることに気が付き始めました。スタジオ代もミュージシャンへのギャラもはっきり言って必要ないし(笑)。尊敬するマイルス・デイビスやジャコ・パストリアスと時を超えてセッションしている気分になったり、サントリーホールでピアノを響かせているつもりになったり、色々とタダですぐに試せるのが文明開化でした。シンプルに口ずさめるようなメロディはそういった生活の中のグルーヴから、オーガニックに出てくるものなんですね。そういう意味じゃ生活を楽しみながら作りました」。

ジャズは自由なものだが、パンデミックジャズ、宅録ジャズは、さらに自由なものになった。リード曲「Out of Chaos」は疾走感が心を躍らせ、でもどこかダークな部分も感じる。ニューヨークの街が奏でるリズムと、大江のリズムとがセッションし生まれた11曲は、スリリング、温もり、優しさ、安らぎ、不穏、ハッピー、光と影、ニューヨークの街並…様々なキーワードを想起させてくれる、刺激的な音楽が詰まっている。共通しているのはメロディアスであること。それが「Electronic Senri Jazz」だ。

「青春の時期にはいないことをはっきり自覚することで、曖昧さがなくなり、歳を重ねたからこそ生まれる、60歳における新鮮な感覚が浮き彫りになった」

昨年還暦を迎えた大江は、著書『マンハッタンに陽はまた昇る 60歳から始まる青春グラフィティ』の中で、自身も含めて、夢を追う全世代の人に向けメッセージを贈っている。60歳をどのような心持ちで迎えたのだろうか。

 NYのライブハウス「Birdland」でのライヴ(2019年9月)
NYのライブハウス「Birdland」でのライヴ(2019年9月)

「“60歳から始まる青春グラフィティ”というのは、もう青春には戻れないくらい遠くまで来てしまったんだということを、自分がきちんと把握して初めて落とし込めた感覚ということなんです。もう自分は青春の時期にはいないとはっきり自覚することで、曖昧さがなくなり、歳を重ねたからこそ生まれる60歳における新鮮な感覚が浮き彫りになり、青春グラフィティと呼んでもいいような感覚が、新たに始まったということです。現実の距離感は残念ながら一度壊れましたので、離れていてもハグをしているように、キスをしているように感じられる音色をどうやって探そうかと。人間って想像力の生き物なので、そしてそれは知恵からくるものだと思うので、漠然と受け身だといいものは作れません。学んで戦って細かい部分まで神経を張り巡らせて初めて、人が歓喜できるようなものを作れるのです。パンデミック以前は、ジャズだというだけでそこに身を委ねて、僕の場合ある種甘えながら、その懐で僕たちは演奏していたのかもしれません。今は命を前にそんなことはもうどうでもよくなってしまった。だからもう前の時代には戻れない、新たな価値観で進まないといけないと思います。何かにこだわっていると、もうそれだけで変化する時代に生き遅れてしまう」。

「今後は“another side of Letter to N.Y.”という発想の元、色々なことができる可能性がある」

新たな形こそ、パンデミックを経て生まれた新しい概念=「Electronic Senri Jazz」だ。

「『Letter to N.Y.』という作品を作りましたが、一緒にパンデミックを戦った愛する街へのラブレターというつもりで名づけました。全部の楽器を一人で演奏して作った作品ですが、今後これを生のトリオで各地でそれぞれの解釈で演奏するとか、これを素材として“another side of Letter to N.Y.”という発想の元、DJに託してみたり。色々なことができる可能性があると思います」。

7月17日にはこのアルバムの全世界最速オンライン全曲試聴会「プレミアfrom N.Y.」を行なったが、さらにアルバム発売当日の7月21日には、ゲストに渡辺美里を招いての「リリースパーティーfrom N.Y.」を開催する。また7月31日には、アルバムの楽曲を初演奏する「ライブfrom N.Y.」が予定されている(こちらはHMV&BOOKS onlineでの購入者が対象)。両イベント共に大江本人が、チャットでリアルタイム参加予定だ。

otonano 大江千里『Letter to N.Y.』特設サイト

音楽&エンタメアナリスト

オリコン入社後、音楽業界誌編集、雑誌『ORICON STYLE』(オリスタ)、WEBサイト『ORICON STYLE』編集長を歴任し、音楽&エンタテインメントシーンの最前線に立つこと20余年。音楽業界、エンタメ業界の豊富な人脈を駆使して情報収集し、アーティスト、タレントの魅力や、シーンのヒット分析記事も多数執筆。現在は音楽&エンタメエディター/ライターとして多方面で執筆中。

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