「世界が尊敬する日本人」、ソプラノ歌手・田中彩子 その美しくしなやかな「声」と「生き方」

「音楽と一緒に生きていくために必要だったのが歌」

誰もが聴き惚れる「天使の声」

決してクラシック“通”とはいえない筆者でも、この人の声は無条件に心に響き、エネルギーを与えてくれ、癒され、心を豊かにしてくれる――田中彩子。日本が世界に誇るコロラトゥーラ・ソプラノ歌手だ。コロラトゥーラはソプラノの中でも、さらに高い音域で、楽器のような音色や鳥の鳴き声に近く、この超絶技巧を操れるアーティストは数少ない。「天使の声」と称される田中が、コロラトゥーラの超絶技巧の音色をより生かすために選曲した作品集『Vocalise(ヴォカリーズ)』が、9月25日に発売される。彼女のアーティストとしての魅力に迫りながら、「コロラトゥーラの可能性にチャレンジした」という意欲作に込められた思いをインタビューした。

田中は、2019年のNewsweek誌『世界が尊敬する日本人100』に選出された、世界的に注目を集めているソリストだ。『情熱大陸』(TBS系)や『嵐にしやがれ』(日テレ系)に出演したり、ワイドショーにも取り上げられるなど、幅広い層から人気を集める存在だ。クラシックをより広い層にアピールすることに積極的に取り組んでいる。

「私自身がクラシック畑出身ではなかった。だからお茶の間で人気のテレビやメディアに積極的に出て、少しでもクラシックに興味を持ってもらいたいと思った。」

写真提供/エイベックス・クラシックス・インターナショナル
写真提供/エイベックス・クラシックス・インターナショナル

「私自身がクラシック畑出身ではなく、ピアノは3歳からやっていますが、私もクラシックのコンサートに行くのは、敷居が高かったんです。なので、お茶の間でよく観られている番組に、クラシックの人間が出ることで、少しでもクラシックに興味を持っていただきたいと思い、出演しています。それは日本だけではなく、もちろんヨーロッパでもクラシックなんか古臭いから聴かないし、コンサートにも行かないという若い方もいます。きっかけが少ないか多いかの問題だと感じています。クラシック自体は何百年も前からあって、今でも廃れずにあるということは、それだけ魅力があるもの、ということです。それに触れるきっかけが多いか少ないかで、興味を持っている人が多いか少ないかが、変わってくるのではないでしょうか」。

田中はピアニストを目指し、3歳からレッスンを積んできた。しかし高校時代に手の小ささがピアノに向いていないということがわかり、ピアニストへの道を諦めることになるが、同時に、神様から与えられたもう一つの才能に気づき、新しい世界が開けていった。

「ピアノはそれまでずっとやってきたものだし、ピアノの音色も好きなので、性格的にはどちらかというとピアノをやっている方が合っているのではと、今でも思う時があります(笑)。一人でやっている方が好きですし、我先にっていうタイプでもないので(笑)」。

「音楽と一緒に生きていくために必要だったのが歌だった」

研修旅行で行ったオーストリア・ウィーンで、ウィーン在住の宮廷歌手ミルカーナ・ニコロヴァの元で行われる講習会に参加し、「本気でヨーロッパでオペラ歌手になりたいのなら、今すぐウィーンに来なさい」という言葉をもらい、高校卒業後、すぐにウィーンに渡った。右も左もわからないウィーンで、彼女の心の支えになったものはやはり「歌」だったのだろうか。

「3歳からやってきたものを全部捨てて、ゼロから新しいことを始めるのであれば、ベストなところでやりたいとシンプルに思いました。ゼロから始めるのは大変だし、それが日本だろうが違う国だろうが、ちょっと苦労が増えるかもしれないけど、私の中では全く一緒でした。私、歌が好きで、みたいな感じでは正直ないというか。当たり前の存在の音楽に対して、ずっとそばに居てほしいという感覚です。そこから離れることはちょっと想像できない。嫌いな部分もあるし、本当に好きで仕方ないっていうよりは、嫌な部分も知っているし、別に毎日じゃなくてもいいやっていう時もあるけど、でもやっぱりいつもあってほしい、そういう存在なんです、音楽自体が。で、私はピアノを諦めた時点で、私にはもう歌しか残っていなくて、音楽と一緒に居続けるためには歌しかその時選択肢がなかった。という言い方をすると、ちょっとネガティブに感じるかもしれませんが、私が音楽と生きていくには、それしかもうなかったので。私はもうそれにしがみついて、何とか振り落とされないように生活していた、という方が正しいかもしれません。だから、好きでっていうよりは、音楽と一緒に生きるために必要だったのが、歌だったということです。ミルカーナ・ニコロヴァの言葉は、藁にもすがる思いというか。彼女がもしかしたら、とんちんかんなことを言っているかもしれないけれど、一人でもそう言ってくれる人がいるのであれば、私はそれを信じるしか光がなかった。その光が偽物だったとしても、そこに進むしかないというか、そういう気持ちでした」。

「どうせなら難しいところからチャレンジしたいタイプで、コツコツというよりいきなりてっぺんから攻めるタイプです」という、田中の性格と両親の理解もあり、迷うことなくクラシック音楽の本場・ウィーンへの単身留学を決断した。強さとしなやかを併せ持つ人間力が、武者修行を有意義なものにした。そして、しがみついてでも「やり続けることの大切さ」を同時に教えてくれた。

世界中からトップが集まるウィーン。本場のヨーロッパの観客は、最初はアジア人、日本人がどこまでできるんだろうという、穿った見方をしていたが、田中にはそれを覆す圧倒的な実力があった。

「根本的に別にどう思われようがいいっていう感じが、いつも心の中にあって、自分の大切な人たち、いつも来てくれるお客さんとか、そういう方たちが喜んでくれる方が嬉しいです。私の声を好きで応援してくれている人たちの方が大事なので、もしその人たちが「今日のパフォーマンスはちょっと…」と納得してもらえていないのであれば、それはちゃんと耳を傾けるべきだし、どっちを大事にするか、どっちに耳を傾けるかってすごく大事だと思っていて。色々な意見があると思うので、それを全部聞いていたら潰れてしまうと思うし、自分が信頼する人、もしくは大切に思う人たちをメインと思ってやってきたからこそ、ずっと続けてくることができたと思っています」。

「ウィーンも母国」

ウィーンに拠点を置いている。そこから世界中へ出かけていき、歌っている。

「歌を始めた場所がウィーンで、歌手としての生活はウィーンでしか過ごしていないという状態なので、いわゆる母国に近いというか。音楽家として生きてきた場所がウィーンの方が長い分、過ごしやすいというのはあるかもしれません。でも日本も母国なので、好きな部分もいっぱいあって、そんな中で新しい国とか、新しい人を見るのが好きなので、色々な国に移動しやすい方がいいなと思います」

「ここまで楽器として声を使った作品はないと思う」

『Vocalise』(9月25日発売)
『Vocalise』(9月25日発売)

そんな田中の最新作『Vocalise』が9月25日に発売される。声楽曲だけでなく、ピアノや弦楽器曲など様々な楽曲にチャレンジしている。ドビュッシーの「月の光」など、なじみのある曲から、ラフマニノフ「ヴォカリーズ」、パガニーニ「ラ・カンパネラ」や「カプリース」を超絶技巧で表現。さらにバッハ「ゴルトベルク変奏曲より アリア」など、声による演奏は珍しい作品を聴くことができる。

「歌の曲を楽器で演奏したり、楽器の曲を、違う楽器で弾くという表現方法はあると思いますが、ここまで楽器として声を使ったものは、たぶんないと思います。そこがコロラトゥーラという技術の声の特徴でもある、器楽的な声の音色というものを、いい意味で有効活用できたと思っています」。

クラシック通、クラシックファンはもちろん満足できると思うが、クラシックに疎いとか、クラシックを聴いたことがないという人が聴いても、「なんかいいよね」と思える楽曲が揃っている。その感覚はポップスやロックを聴いた時も同様だ。田中の美声が作り出す「なんかいい」という感覚こそが、世界中に多くのファンを持つ理由なのではないだろうか。自然がテーマになっているものが多いクラシック音楽と日々向き合う田中は、よくウィーンの森を散歩し、自然の息吹きを全身で感じ取り、心をリラックスさせるとともに、エネルギーを充電しているという。

「ウィーンはいつも変わらずのんびり静かで、そんなに刺激はないけど集中できます。日本、東京にはすごく刺激的なものがいつもあって、音もたくさん溢れていて、私の中では正反対の街なんです」。

「声ってその人の生き様が一番出ると思う。色々な経験を積み重ねていきたい」

「声って生き様が一番出ると思う」という田中の今後の目指すべきものを聞いてみると、「今回の作品を聴いて、1枚目の作品を聴くと、やっぱり声が若いなと思います。少なからず声って、その人の生き様が一番出ると思っていて。体から直接出ているものなので、やっぱり若い時は、若々しい声であるべきだと思うし、わざわざ大人っぽい声を出す必要はないと思っています。それで、歳を重ねていく毎に色々な経験をしてきた何かが、声の色になっていくというか。その色を付けるためには、様々な経験した方がいいし、重ねていく毎に深みを増すというのは、人柄だけではなく、声にも出てくるはずです。そんな自分の声を、可能な限り、何らかの形で残せるのなら残していきたいと思っています」。

「コンサートでは、何回も歌ったことが歌でも、毎回初めて歌う気持ちで臨んでいる」

音源を残す作業、CDを作るということと、コンサートは、どういう捉え方で臨んでいるのだろうか。

画像

「基本的には同じですが、コンサートでいつも心がけてることのひとつは、披露する曲はもちろん何度も歌っていますが、気持ちとしては、初めて歌うという気持ちで臨んでいます。だからその日によって歌い方が全然違います。特にラフマニノフの「ヴォカリーズ」のように歌詞がないものは、その日の自分の気持ちで変わる生き物みたいなものなので、激しい時も、悲しみを感じる時もあるかもしれません。でもCDはあまり感情を込めすぎると、ちょっと暑苦しいというか、1回目はいいかもしれないけど、2回目聴いたらちょっとしつこいなって感じてしまったり。ある方に『CDはまた別だから』ということを聞かされて、CDはやっぱり何度も聴いてもらうことが目標なので、その時のインパクトというよりは、さっき仰ってくださった『なんかいいよね』、『また聴きたいね』って思ってもらえるような、いい意味でのあっさり感というか、くどくなりすぎないことを考えて、録音しています」。

このアルバムを引っ提げたコンサートツアー『田中彩子 ソプラノ・リサイタル 2019 ~ヴォカリーズ~』を10月14日の宮崎を皮切りに、愛知、大阪、北海道、東京で行う。「音楽のパワーは計り知れないものがあります。来てくださった方と、エネルギーの交換をしたい」。

田中彩子 オフィシャルサイト