105歳でCDデビュー  三味線に人生を捧げる長唄三味線演奏家・杵屋響泉 表現者としての矜持  

「三味線を持ったら歳なんて関係ない。新しい長唄をやってみたい、もっと勉強したい」

デビューアルバム『一〇五 娘がつなぐ五世勘五郎の長唄世界』(ソニー・ミュージックダイレクト)
デビューアルバム『一〇五 娘がつなぐ五世勘五郎の長唄世界』(ソニー・ミュージックダイレクト)

「三味線で一番大切なのはイマジネーション」と語るのは、先日105歳でCDデビューを果たした、長唄三味線演奏家の杵屋響泉(きねや・きょうせん)だ。日々精進を続け、その意欲は衰えることを知らない。4月に発表したデビューアルバム『一〇五(いちまるご)娘がつなぐ五世勘五郎の長唄世界』は、響泉の父であり、早逝した父・五世杵屋勘五郎が作曲した作品を収録。「父の作品をこうして残せたことが本当に嬉しい」という響泉にインタビューし、この作品について、そして初めてのレコーディングについて、さらに三味線にかける思いを聞かせてもらった。そのひと言ひと言がまさに金言。インタビューには日ごろから響泉をサポートし、『一〇五~』にも参加し、三世代共演が実現した次女の唄方杵屋六響、三味線方の孫の和久(わく)も同席してくれた。

「レコーディングは苦労しました。舞台のように目の前に人様がいる方が、自分らしいものが出せますね(笑)」

「どうも私は不器用でして、ひとつのことを一生懸命やると、他に融通が利かなくて、舞台上では長年怖い思いをしていますので、怖いながらもまだ舞台の方が自分らしいものが出せるんですけど、レコーディングは苦労しました。目の前に人様がいるほうがいいですね。スタジオはなんだか窮屈でした(笑)。音の響きも違いました」(響泉)と、人に向かって演奏する舞台と違い、マイクに向け演奏するレコーディングとの感覚の違いに戸惑ったことを、弾んだ声と笑顔で教えてくれた。

「合図がわからなかったんです。舞台は緞帳が上がるとフッと気合が入るんですけど、スタジオではどうぞと言われても、気合を入れるところが難しかったです。それと同じように、最後に三味線の余韻を残すところで、『これでよろしいですか』って言ってしまったり(笑)」(響泉)。

理学療法士も驚くアスリートのような筋肉は、長年三味線を弾いてきたからこそ

響泉の父である、勘五郎の作品は、曲の構成がはっきりしているドラマティックなものが多い。『一〇五~』にはその中から「賤(しず)の苧環(おだまき)」「春秋(はるあき)」「多摩川」と、勘五郎の兄、十三代目杵屋六左衛門作曲「楠公(なんこう)」が収録されている。スタジオには普段通りの演奏ができるようにと、畳を敷いてもらったという。

「やっぱり習慣になっているからか、畳の上の方が弾けますね。体が落ち着くんです。小さい頃から三味線持って座ったら、どんなに押されてもひっくり返っちゃいけない、おなかで弾きなさいと仕込まれてきました」(響泉)。

「姿勢の良さ、弾く姿の美しさを求められていたのだと思います。丹田に力を入れて腹で弾くものだといつも言っています。長年そうやって弾いてきたからか、先日ケガをしてリハビリを始めた時、理学療法士の先生が『百歳の体じゃない、すごくいい筋肉を持っている』と驚いていました。『リハビリをして蘇る筋肉を持っいるというのは、長年鍛えてらっしゃるからで、アスリートみたいです』とも言ってくださいました」(六響)。

2015年4月、100歳のとき転倒し右手首を骨折。三味線奏者にとって致命傷になりかねない大けがだ。翌月の演奏会はさすがにキャンセルしたものの、リハビリを重ね、7月の国立劇場での演奏会には復帰。長唄によって培われた強靭な肉体と精神力が、医師も驚く驚異の回復力につながっている。

「三味線で生まれて、三味線で生きてきて、三味線で死んでいくのよ、私は」

Photo/御堂義乘
Photo/御堂義乘

杵屋響泉は1914年(大正3年)、東京・築地に五代目杵屋勘五郎の一人娘として、400年もの歴史を持つ長唄宗家の家系に生まれ、4歳のとき父から長唄の手ほどきを受けた。以来三味線一筋に打ち込んできた。昨年2018年、富士フイルムのWEB企画「楽しい100歳。」に出演し、その三味線と真摯に向き合う姿は、多くの人に感動を与えた。2018年3月、東京・紀尾井ホール。104歳の響泉のコンサート。父の作品を後世に残すべく行ったコンサートで演奏したのは「新曲浦島」。舞台の幕が上がると、三味線を抱え、凛とした佇まいの響泉がオーラを放つ。鮮やかな撥(ばち)さばきと指の運びは力強く、しなやかで、その音色は表情豊かだ。この映像の中で響泉が語っている「三味線で生まれて、三味線で生きてきて、三味線で死んでいくのよ、私は。三味線のおかげで長生きしてんのよ」という言葉が胸を打つ。

「演奏はイマジーネーションが大切。泣いている曲は、自分も泣きながら弾くような気持になる」

「長唄は曲の中に、自分が入ることが大切です。最初は間違えずに弾くことで精一杯で、余裕が出てきたら自分がその世界に入って、感情を込めて弾かなければ、伝わりません。演奏はイマジネーションが一番大切。舞台に上がる時に、その曲の中に入ると自然とその気持ちになっていっちゃうんです。泣いている曲は、自分も泣きながら弾くような気持ちになります。父が作った「新曲浦島」は風景を描いているから、ここは岩がたくさんゴツゴツしていて、波がダーンと押し寄せて、また散っていく、そういう景色と色を想像しながら弾きました。よく父からは、歌は言葉があるから聴いてる方に感情が伝わるけど、三味線は言葉がないから三味線が語らなければいけないと言われました。音締めもそう。私なんかもう年取ってきましたから、さんざんやってきましたからね、力を抜いて、響きに余韻を出すように弾くんです」(響泉)。

「常に頭の中で曲のおさらいをしているようです。お布団入って、眠るまでずーっと手が動いています」(六響)。

「父から教えられた型、音が体の中で残っているので、それを今回CDに残すことができて嬉しかったです。今の方は、曲をそれぞれの解釈で、色々な形にしていきますので、こういう伝承の音楽も、世の中が変わっていくにつれ、ある程度解釈が変わっていくところがありますよね。でも自分の中に残してもらったというか、残されたもの、自分だからこそわかるものがあるので、それを伝えることができて嬉しかったです」(響泉)。

「長唄は立三味線が指揮者」

三味線について話をしていると、熱を帯び、その旋律を口ずさみながら説明してくれる。三味線こそ全て、そんな思いが伝わってくる。長唄は立(たて)三味線(首席演奏者)が演奏隊の肝である。「歌を立てるのも三味線ひとつ」と教えてくれた。

「立三味線は指揮者なんです。気合のタイミングを皆さんに伝える役割なので、立三味線ひとつで、曲が生きもするし、殺されもする。つまらない曲にもなっちゃうんですよ。もう自分の気持ちひとつなんです。私、幕が開くとね、お願いしますって、フッと気合を入れるんです。それがみんな気持ちがいいって言うんですよ。そしてみんなついてくるの。そうするとノリがいいんですよ。それがないとね、みんなバラバラで入ってくるの。それが嫌なのね。だからみんな、響泉さんとやると気持ちがいいですねって言ってくれるんですよ」(響泉)。

「曲をこういう風に運びたいっていうのが伝わるって、演奏する皆さん仰ってますね。横に並んでいると、気持ちがビンビン伝わって来ると。それが伝わって、さらに客席に波のように伝わっていくのを、並んでいても感じます。それでお客様の反応が返ってくると、またノリが変わるんですよ。祖母はお客様に何か感じていただきたい、喜んでいただきたいといつも言っています」(和久)。

「なんとなくノリが悪いお客さんを見ると、振り向かせてやる!という気持ちで演奏します(笑)」

ロックやポップスのライヴ同様、長唄もステージと客席のキャッチボールだという。

「あのお客さんを振り向かせてやろうと思うの(笑)。なんとなくノリが悪いお客さんに対しては、そう思って演奏します」(響泉)。

「祖母は、指揮者の(ヘルベルト・フォン)カラヤンが大好きなんですけど、その指揮を観て、これを長唄に活かさなくちゃいけない、こういうのをやらなくちゃいけないって。カラヤンがタクトを振ってるのがカッコいいって言っています。テレビはスポーツを観るのが好きで、よく一緒にサッカーを観ますし、水泳も好きなようです。体操の内村航平選手がお気に入りで、あの緊張感が舞台に通じるものがあると言っています。指先まで美しくて、それを表現をしたい、憧れると言っています」(和久)。

「結婚して、主人と生活していく中で、人間の喜怒哀楽を三味線で表現できるようになりました」

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響泉は昭和22(1947)年、32歳のときに、今は亡き詩人の木村孝さんと結婚。響泉の一番の理解者であり、応援してくれていた孝さんのアドバイスも、三味線の深みのある音色につながった。孝さんは仲間を自宅に招いては、文学論に花を咲かせ、その際、響泉に「みなさんに一曲お聞かせして」とリクエストされ、よく演奏したそうで、それが嬉しかったという。「それまでは三味線しか知らない生活でしたが、結婚して『これが人間なんだな』ということが実感できました。主人がお友達と文学のお話をしているのを横で聞いていると、いいお話だなっていつも感激していました。主人に色々と教わって勉強していくうちに、それが三味線のメロディにも出てくるようになって、結婚生活をしていく中で、人間の喜怒哀楽が表現できるようになりました。小田原の海を、月を観ながら一緒に散歩して、色々なお話もしました。旅行にも連れて行ってくれました。どれもいい思い出。その時のことは全て三味線の中に息づいています」(響泉)。

「この10年で、曲の感じ方が変わってきて、解釈が深くなってきました」

響泉の心の中に、孝さんとその思い出は、今も鮮やかに存在しており、人生を後押してくれる。芸歴100年――楽しい時も悲しい時も三味線を弾いてきた。

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「悲しいとき、嬉しいとき。嬉しいときなんかね、もう笑いが出てくるんですよ、弾きながら(笑)。私から三味線を取ったら、つまらない人間ですから。だから死ぬまで勉強です。この10年で、曲の感じ方が変わってきました。解釈が深くなってきました。なんとなく慣れでやっていた曲が『ああここはこういう気持ちでやらなくちゃいけないな』と思ったり、色々なことで、心で振り返る余裕がでてきているのだと思います。やっぱりそれで感受性が強くなるんでしょうね」(響泉)。

「耳が少し遠くなりましたが、それでも外出先やテレビから三味線の音が流れてくると、すぐに反応するんですよ、会話は聴こえないのに(笑)。ずっと長唄のことが頭から離れないようです」(六響)。

「素直になることと、いつも自然体で向き合うことが大切」

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最後に人生のモットー、一番大切にしてることを聞くと、「私、強情っぱりなんですけど、素直になることと、いつも自然体で向き合いたいと思っています」(響泉)。

今年3月には「長唄」への多大な貢献をした功績が讃えられ「平成三十年度文化庁長官表彰」を受けた。現在も後進の育成に熱心に取り組んでいるが、「三味線を持ったら歳なんて関係ない。新しい長唄をやってみたい、もっと勉強したい」と三味線への熱量は衰えるどころか、ますます高く、熱くなっている。7月10日には長唄協会主催の「夏季定期演奏会」の舞台に立つ。

otonano『一〇五 娘がつなぐ五世勘五郎の長唄世界』特設サイト