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加藤登紀子 キャリア53年、歌い続ける原動力は「怒りとやり切れなさと、いい知れぬいとしさ」

田中久勝音楽&エンタメアナリスト
「その時代に生きた人の思いや辛さが、素晴らしい歌になって残っている」

日本で最初の女性シンガー・ソングライター加藤登紀子。キャリア53年の目に映る、音楽シーンの過去と現在、未来

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日本で最初の女性シンガー・ソングライター加藤登紀子。1943年生まれ、今年75歳を迎えるが、今も精力的にコンサート活動を行ない、全国を回り、歌を届けている。加藤は1965年、東京大学在学中にシャンソンコンクールで優勝し、デビューを果たし、翌66年に「赤い風船」で、「日本レコード大賞」の新人賞を受賞。 日本が高度成長期に入り、人々の生活、価値観、あらゆることが変わろうとしている時代に、加藤の歌は人々の心を癒し、時に鼓舞させた。日本と世界の社会の空気、時代と人々の“気分”を切り取り、歌で伝え、歴史を語ってきた。そんな加藤にインタビューする機会に恵まれた。キャリア53年の目に映る、音楽シーンの過去と現在、そして未来に残すべき歌について話を聞いた。

ビートルズ登場前と後

「たいていのミュージシャンは、ビートルズからスタートしてる。でも私はビートルズが登場する前からなの。すごくシンボリックにいうと、戦争のちょっと前に生まれた世代と、終わってから生まれた人の気持ちの違いが、ビートルズが来日する前の世代と来日した後の世代の違いとシンクロしてる。ビートルズ以前なんて、知らなくていいという気分が、過去のことなんて知らなくていいという空気にそのまま置きかわったのね。ビートルズの登場で、ヨーロッパからのヒット曲は姿を消しましたね。私が中学高校の頃は、映画も演劇もヒットソングも、イタリア、フランスが流行発信源でした。それをビートルズが一掃し、英語圏のものが中心になって、映画もアメリカ発のものに変わっていく、その変わり目が68年です。68年にベトナム戦争が激化し反戦運動が世界に広がった。戦争がらみの映画がどんどん出てきました」。

「世界も日本も社会が激しく動いた1968年から50年。当時、世界中で歌われていた歌と歌手の背景をきちんと残すべきだと思った」

『ゴールデン☆ベスト TOKIKO’S HISTORY』(4月18日発売)
『ゴールデン☆ベスト TOKIKO’S HISTORY』(4月18日発売)

68年は日本も世界も激しく動いた年でもある。1月は日本で東大紛争が始まり、3月にはベトナム・ソンミ村大虐殺事件が起こり、4月はアメリカでキング牧師暗殺事件が勃発。5月にはフランス・パリで5月革命、8月はチェコスロバキア(当時)の民主化運動“プラハの春”にソ連が軍事介入、10月には日本で、国際反戦デーで学生達が新宿駅を占拠するなど、世界で政治運動が大きな盛り上がりをみせた。その68年から50年という今年、当時世界中で歌われた歌と、歌手の背景をきちんと残すべきだという思いに駆られ、 ベスト盤『ゴールデン☆ベスト TOKIKO’S HISTORY』(ソニー・ミュージックダイレクト)を4月18日に、20日には自伝『運命の歌のジグソーパズル』(朝日新聞出版)を発売する。さらに21日からは東京・Bunkamuraオーチャードホールを皮切りに、コンサート『TOKIKO’S HISTORY「花はどこへ行った」』をスタートさせる。

「1968年からちょうど50年という節目をステップに伝えていくのは、すごくチャンスだなと思いました。例えば映画『紅の豚』の中で、ジーナ(=加藤登紀子)が<さくらんぼの実る頃>を歌っていますが、あれはちょうど50年前のパリ・コミューンの事を歌っています。50年の歴史というのがあって、そこで歌われている「さくらんぼの実る頃」なんです。ポルコ・ロッソ(紅の豚)は、20世紀がスタートする頃に飛行機乗りに憧れていて、でも第一次世界大戦で精神的にもずたずたになってしまう。そしてまた第二次世界大戦が始まろうとしている、戦争と戦争の谷間が『紅の豚』で描かれている時代です」。

「もうこれで最後にしようと思って発表した「ひとり寝の子守歌」がヒット。人生そういうものなのかもしれませんね」

同じように、「百万本のバラ」、「ひとり寝の子守唄」、「ANAK」、「悲しき天使」などの曲の背景、意味もセルフライナーノーツに詳しく書き記されており、もちろん自伝にも書かれている。当時も今も、加藤の歌へのモチベーションは、“怒り”と“やりきれなさ”と“言い知れぬいとしさ”だという。「ひとり寝の子守唄」はある意味では私にとって、もう終わりにしようと思った歌でした。歌手になって3年が経っていましたが、歌手である私が、私というのを自己実現できるのかという事に不安がいっぱいあったんです。そんな時、彼(藤本敏夫氏)は拘置所にいて、その距離感が耐えられなかった。それで、もう最後と思って出したら、ヒットして。人生そういうものなのかもしれませんね」。この曲が生まれた1969年は、加藤の恋人である学生運動の闘士・藤本敏夫氏が、東京拘置所に収監されていた。その時に藤本氏の事を思い書いたのがこの曲だ。藤本氏とは72年に獄中結婚し、大きな話題となった。この曲がヒットした事で、曲は職業作家が作るものだった当時、“歌手が自分で曲を作るのは命取りだ”と言っていた、周囲のスタッフが、手のひらを返したように“自分でどんどん書け”と言ってきたという。

シンガーとしての道に明かりを照らしてくれた、母の言葉とは?

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「その時に、母が“昨日今日で曲を作るようになった人が、立て続けにそんないい歌が作れるはずがない。世の中にはいい歌がいっぱいあるんだから、それをしっかり選んで歌ったらいいんじゃないの?”って言ってくれて、レコード会社のスタッフも納得し、『日本哀歌集』(1971年)というアルバムを作って、それが大成功しました。だからシャンソンのような、自分が好きな歌を選んで歌う時は本当に嬉しくて、自分で作った曲を歌う時はいつもドキドキして、でもその両輪でやってこれた事が、私の歌手人生の中ではラッキーでした。例えば「愛の讃歌」を歌う時の自分と、オリジナル曲を歌う時の自分とではちょっと違います。名曲達の持つパワーに触発されるんです。その時代に生きた人の思いや辛さが、そうやって素晴らしい歌を残してくれる。だから、私も私として生きたものの証は残さなくてはいけない。だから自分のオリジナルを残すという想いと、こんなすごい歌を残してくれた事に対して、歌手として応えたいという想い、その両方の想いを抱えて今までやってきました」。

加藤は、ロシア文化の影響下にあった国際都市、満州・ハルビンで生まれ育っただけでなく、帰国してからも亡命ロシア人の歌を聴いて育ったという。そして今年は、歌手としての生き方に大きな影響を受けた、ベトナム戦争を背景にしたアメリカのフォークソング「花はどこへ行った」と改めて向き合う事で、自身の半世紀の歩みを振り返る事にした。「花は~」の作者、ピート・シーガーは、ロシア革命に翻弄されるコサックの人生を描いた、ロシアの文豪ショーロホフ作の『静かなドン』の中の、コサックの子守歌からこの曲の発想を得ている。

「現代は未来も過去も時系列に関係なく同時に存在している時代。私のコンサートに過去と未来を感じに来て欲しい」

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ロシア文化と“地続き”ともいえる、この『ゴールデン☆ベスト TOKIKO’S HISTORY』に収録されている曲は、そんな加藤のまさに血となり肉となっている、未来に伝えたい歌が収録されている。そして全国4か所で行われるコンサート『花はどこへ行った』で、その想いを届ける。

「何かの時代の終わりのような感じもするけれど、それは何かの始まりの兆しかもしれないという事が、余韻として残るようなコンサートにしたい。特に若い人に聴いて欲しいです。やっぱり、現代は、過去のものを消すという消しゴム文化でもあると思います。でも同時に、未来も過去も時系列に関係なく同時に存在してる時代でもあります。社会全体としては、若い人たちが過去を知る機会があまりないし、古い文化の蓄積や文学は、見向きもされないようなところがあります。そんな中でも音楽は、一番聴かれている方だと思っています。ぜひ過去と未来とを感じに来て欲しいですね」。

「必死で準備して臨むステージ本番は、究極の遊びであり自己実現の場」

コンサートをとにかく楽しんでいる。誰よりも自身が楽しんでいる。「ステージ本番が最高に幸せな時間。なぜならそれは究極の遊びだから。そこに向けて四苦八苦しながら必死で準備するから、本番は究極の遊びだし、自己実現の場だから、仕事というものを越える存在だと思う。すごく幸せだと思いますよね、歌う仕事をしているという事は」。

「OTONANO」加藤登紀子特設サイト

音楽&エンタメアナリスト

オリコン入社後、音楽業界誌編集、雑誌『ORICON STYLE』(オリスタ)、WEBサイト『ORICON STYLE』編集長を歴任し、音楽&エンタテインメントシーンの最前線に立つこと20余年。音楽業界、エンタメ業界の豊富な人脈を駆使して情報収集し、アーティスト、タレントの魅力や、シーンのヒット分析記事も多数執筆。現在は音楽&エンタメエディター/ライターとして多方面で執筆中。

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