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【インタビュー】大江千里 ポップスターの座を捨てジャズを追求し続け8年 花開く”大江JAZZ”

田中久勝音楽&エンタメアナリスト
大江千里とシーラ・ジョーダン

1983年にメジャーデビューし、音楽シーンを牽引した一人、大江千里がポップスターの座を捨て、ジャズピアニストを目指しアメリカ・ニューヨークの音楽大学の門を叩いたのは、2008年、47歳の時だった。猛烈に勉強を続けながら、自身のレーベル「PND Records & Music Publishing Inc.」を設立。2012年に大学を卒業し、全米デビューを果たした。夢を叶えた瞬間だった。以降、競争の激しい本場ニューヨークジャズシーンでライヴを重ね、腕を磨き、アルバムも3枚リリース。”大江JAZZ”は徐々に広がっていった。そして今年7月(日本発売は9月)、初めてボーカルを全編にフィーチャリングしたアルバム『answer july~Senri Oe Jazz Song Book~』をアメリカでリリース。そこにはレジェンド、シーラ・ジョーダン、大御所ボーカリスト/作詞家ジョン・ヘンドリックスが参加するなど、大きな注目を集めた。この独自のポップセンスが薫る、凛とした表情をみせつつも、どこまでも自由で軽やかで美しいアルバムを聴いていると、”大江JAZZ”が大きく花開いた事を感じさせてくれる。現在ジャパンツアー中(~11月5日)の大江に話を聞いた。

憧れのシーラ・ジョーダンと共演。半端なものは作れない、歴史に残るものを作りたいという想いでいっぱいに

――9月7日にジャズミュージシャン転身後4枚目のアルバム『answer july』をリリースしましたが、これまでの3枚はインスト作品で、今回はボーカルを全編フィーチャリングしたアルバムで、しかも大御所・シーラ・ジョーダン他、豪華なボーカリスト陣で、贅沢な一枚になっています。

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大江 シーラは独特の魅力がある、憧れの人でした。チャーリー・パーカーの意志を受け継いでいる人で、楽器のインプロピゼーションのようなフレーズに、即興で言葉を乗せるのが斬新で、それを崩さないという自分のスタイルを守り続けているところが魅力的です。それとキャラクターが最高です。実際に一緒に仕事をして、彼女のアパートに行ったりレコーディングしたり、会う機会が増えるたびに新しい発見があって、お茶目で、鋭い人なんです。

――シーラ・ジョーダンの他にもベッカ・スティーブンス、ジョン・ヘンドリックス、ローレン・キンハンなど、豪華なラインナップのボーカル陣ですが、シーラで一枚作ろうという感じではなかったのですか?

大江 確かにシーラのアルバムを作りたいという想いはありましたが、高齢(86歳)ということもありますし、無理に作ってもよくないですし、なにより彼女が楽しく、快適に歌ってくれることが最優先でした。本当はもう1曲位は歌って欲しかったのですが(笑)、そこは無理をせず、シーラを敬愛する人たちで分担したという感じでした。ジョン・ヘンドリクスが書いた「ジャスト・ア・リトル・ワイン」も最初、「シーラとテオ・ブレックマンが一緒に歌うのなんてどうなのかな?」って言っていましたが、シーラが今お酒を飲んでいないという理由で、セオのソロに変更したり(笑)。

――シーラに「この曲を歌って欲しいんだけど」と、大江さんが作った曲を渡した時に、彼女はどんな反応でしたか?

大江 一般的にアメリカ人は悪くは言わないですよね。だから曲を聴いた時に「Wow,nice」とか言ってはくれるけど、本当かな?というのはあって。本当にシーラが歌ってくれるのだろうかという気持ちと、褒めてもらった嬉しさと両方ありましたが、これはたたみ込んでいかないといけないなと思って、なるべくシーラと連絡を絶やさないようにして。お忙しい方ですから、ニューヨークに帰ってきた時を狙って、「どうでしたか?メロディ覚えてくれました?」とか「いつ練習しましょうか?」とか連絡していました。「ロイズ」の生チョコを持って「シーラ、生チョコ持ってきました」って訪ねたり(笑)。

――最初のボーカルアルバムをレジェンドというか、向こうのジャズシーンを引っ張ってきたような人と作ることができて、ニューヨークで10年間やってきて、感慨もひとしおだったのでは?

大江 この作品に関しては3年かかってできたアルバムで、途中でシーラに「ひとつだけ守って欲しいのは、もし私の歌に対して、疑問を感じたら、ちゃんと私のこと首にしてね」と言われ。それで逆に猛烈にスイッチが入ったというか、半端なものは作れないという感じでした。作業が中断している時間は不安でしたが、とにかくアーカイブになれるような内容にしたい、歴史に残っていくようなものを作りたいという思いでいっぱいで、できることを全部やろうと思って。

――シーラが歌った「Tiny Snow」は鳥肌ものでしたが、個人的にM6「The Very Secret Spring」も、メロディもローレン・キンハンのボーカルもすごく良かったです。

大江 彼女は憑依系のボーカリストで、すごくいいですよね。10月からのジャパンツアーでは、彼女に歌ってもらいます。

歌に寄り添いつつも”歌う”ピアノ

――アルバム全体に言えますが、やっぱり大江さんのピアノが歌に寄り添いつつも、歌っている感じがしてそれがすごく良かったです。

大江 そうですね。歌を聴いているとやっぱり自分の事よりも、歌に寄り添う感じになりますね。

――歌の後ろで弾いてる時は寄り添っていて、でも間奏とかでソロになるとピアノが歌っていますよね。

大江 ジョン・ヘンドリクスがセロニアス・モンク(アメリカの名ジャズピアニスト)の曲に詞をつけて、それを歌うライヴをやるというので、そこでピアノを弾かせてもらうために、ジョンにオーディションしてもらい、しごかれました。でも僕にとってものすごく勉強になったライヴでした。セロニアス・モンクの曲ってクラシックジャズだし、ポップスだし、ワイルドだし、繊細だし、なんかキラキラして色々な要素、ジャズの楽しさが詰まっています。それを歌って、子供のようにはしゃいでる当時御年94歳のジョンの後ろでピアノが弾けたことは、本当に光栄なことだし、あの1回のライヴでたくさん勉強しました。

オーセンティックなジャズを追求したいという想いが日に日に募り、2008年ニューヨークへジャズ留学

――もう何度も聞かれた思いますが、ポップスターとしての25年のキャリアを捨て、ジャズミュージシャンになろうという決断までの経緯を教えていただけますか?

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大江 そんな大きな決断じゃなかったんですよ。ジャズはずっと勉強したかったんです。10代の頃に諦めたというか、勉強を途中でやめて。ジャズってなんであんなにダークなのにキラキラしていて、ものすごく哀しいのにどこかクスッと笑えるユーモラスさがあって、一体どういうカラクリになっているのか全くわからなかったので、そのジャズのドアを開ける鍵が欲しいと思っていました。だからずっとジャズラバーズで、自分のポップスの曲の中にも、ジャジーな感じを入れたりしていました。でも本物のジャズをやりたい、オーセンティックなジャズをやりたいという思いが日に日に膨らんでいって。それで2008年に、ニューヨークにある「THE NEW SCHOOL FOR JAZZ AND CONTEMPORAY MUSIC」という音楽大学を受けました。試験はまず自分の作品と、推薦文送らなければいけないのですが、僕のジャズの先生が「受けなよ、手伝ってやるよ」って言って背中を押してくれました。そうしたら「合格」の連絡がきて。そこからマネージャーに相談したら「行ったほうがいいですよ」と。え、止めないんだって(笑)。「大江さんがジャズをやりたいのは知っていましたから、絶対行ったほうがいいですよ」って言ってくれて。それで僕が「でも年末にライヴやイベントが決まっているから、それをやり切ってからのほうがいいと思うんだけど」と言うと、「いや、これから全部キャンセルしますよ。ちょっと上に掛け合って、辞める準備をしておきますよ」って。えぇーっ本当に止めないんだって(笑)。そういう感じでした。信号がどんどん青になっていくので進むしかないというか。渡辺美里さんに話をしたら「乾杯しよっか」って、やっぱり止めないんだって(笑)。

――行くのは決めていたけど、一回は止めて欲しかった(笑)。

大江 みんなと当時の話をすると、やっぱり相当驚いたらしいのですが、その時は僕がかなりシリアスで、絶対行くぞという強い決心の塊に見えたんでしょうね。そんな決心の塊がありながらも、どこかに誰かにちょっとくらい引き留めてもらって、そういう押し引きがあるんじゃないかと思っていたら一切なく(笑)。でも、いい時期だったんだと思います。

――タイミングだったんでしょうね。

大江 あのタイミングを逃すと、多分アメリカに行けなかったと思うし、学ぶにはいい時期だったと思います。それは、遅過ぎず早過ぎずというか、僕が10代の頃にジャズの勉強を何回も頓挫したというのは、あの時の僕には早過ぎたということだったんです。色々経験を積んで、47歳になって恐る恐るではありますが、僕にとってすごく良い感じで気持ちの風船が膨らんできて、ジャズにフッとその空気を入れるにはいいタイミングだったのかな。でもあれより遅かったら、フィジカル的にキツかったと思います。入学してすぐに「大江千里」というものを脱ぎ捨てて、普通の47歳のおじちゃんになって、リラックスしてクラスに入った途端に老眼が始まって、黒板の字が見えないとか、衰えがきましたね(笑)。練習しすぎて肩を壊したり…。

――肩は今は大丈夫なんですか?

大江 一旦治ったのですが、今もやっぱり騙し騙しというか、アスリートがそういうのを抱えながら走っているような感じに近いと思います。

――じゃあライヴ後のケアも、それまでは喉が中心だったのに、今はもう腕、指が中心なんですね。

大江 そうです。自分でマッサージをやって、弾き終わったあとはアイシングをして、そのあとはお風呂で指の神経を一本ずつほぐしたり、色々な方法で指を元の状態に戻していきます。練習し過ぎると故障しますが、でも負荷をかけないと上手くなれないし。加減がなかなか難しい。

――まさにアスリートですね。

大江 そうですね。1日でも1時間でも長くピアノを弾いていたいという想いがあります。

お客さんに心を伝えるという部分では、ポップスもジャズも同じ

――ジャズピアニストとしてニューヨークのジャズクラブで拍手を浴びている時と、ポップスターとして、日本の大きな会場で拍手を浴びていた時と、感覚は違いますか?

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大江 基本的にお客さんに心を届けるということは同じです。50人だろうが3万人だろうが同じなんですが、最初は距離が近い分怖いというのはありました。でもそれを超えてかないといけないし、曝け出していくしかないと思っていました。ニューヨークは人種のるつぼで、世界中から色々な人が聴きにきてくれます。2年前に観にきてくれた人が、「あの時もう1回行くって言っただろう。俺のことを覚えてるかい?」ってまた来てくれたり。人種とか関係なく、偶然居合わせたジャズバーで、いいなと思って、自分が見つけたと思うものをまた聴きに来てくれたのだと思うと、嬉しくて。

――ミュージシャン冥利に尽きますよね。

大江 本当にそうです。心を伝えるということはそういうことですよね。お客さんの近くにいるということは怖い反面、助けられることも大きいんです。みんな飲んでるなと思ったら、ワインが入ったグラスを持ってきてくれたり(笑)、空調の風で譜面が飛んだりすると、お客さんが横でバッと押さえてくれたり(笑)。

――お客さんの楽しもうという気持ちが強いですね。

大江 最初から思い切り楽しむつもりで来ているので、その状況に素直に乗っかるというか、あまり構えていないですね。

――話が前後してしまいますが、音楽大学を卒業されてから、自分でレーベルを立ち上げて、それこそマネージメントを自分でやり、今までずっとやってもらっていた事を、全部自分でやらければいけない状況になってきました。

大江 そうなんですが、できないことの方が多いですよ。改めて、長年SMAという事務所に支えてもらい、どれだけ楽だったかというか、音楽だけに集中できていたかという事が、今になってわかりました。ポップスをやっている時も、あれだけのチャンスに恵まれて本当に楽しかったのですが、それよりもやらなければいけないという危機感というか、責任感がのしかかっていました。今はあの時期よりむしろ忙しいです、全部自分でやっているので。でもできないことはできないし、柄じゃないこともできないし、この歳になったらどれだけ楽しいことをやるかが大切で。自分が楽しめれば最終的にはそれでいいのかなと思いつつやっています。今はCDの配送をやって、練習して作曲したら一日が終わりという感じですが、でもそれが心地いいです。

ジャズはこうあるべき――構えてがちがちに堅かった気持ちを溶かし、解放してくれた恩師の言葉

――ニューヨークで初めてライヴをやったのはいつですか?

大江 2010年です。コリアンクラブでトリオでやって。コネチカットから来たドラムの男の子と、イスラエル人のベースと3人でやりました。その時はジャズはこうあるべきだという頭でっかち状態、ポップスは二度とやらないという気持ちが強すぎて、カチカチでした。だからMCも「今晩は、大江千里トリオです。1曲目にお送りした曲は「枯葉」でした」という堅い感じで。会場の窓が開いていて、外で演奏を聴いている人たちが踊っているのが見えて、だんだん気持ちがほぐれてきて「イェイ!」とか言ったら、あれ?これポップス時代の俺となんら変わってないなって。素が出てきたなと思ったら、ライヴが一気に回り始めて。それで2012年いよいよ学校を卒業するとき、最後の授業でクラスで自分をプレゼンすることになって、終わってから先生が最後にみんなにひと言ずつメッセージをくれるのですが、その時に「千里、あなたがステージに現れただけで人が幸せになる。その明るさを忘れないで」と言ってくれて、目から鱗が落ちました。あ、これが僕の良さなんだって。僕は僕でいいんだ、ニヒルに構えることはない。僕のジャズをプレゼンすればいいんだって、その時にポロって皮がむけたような感覚でした。それからジャズバーでやる時も「WelCome To~!拍手~!」という感じで、機嫌よくやらせてもらってます。

――ポップスをやってきたことが実は武器になっていたということですよね。

大江 ジャズへの憧れの時間が長かったから、ご本尊に触れちゃいけない、ご本尊様は苔むしてなければいけないんだ、キラキラしちゃいけない、みたいな。ジャズって言っただけで、体全体に力が入って、楽しむことがなかなかできなかった時期が長かった。今もまだどこかにそういう感じがあるかもしれないけれど、僕のジャズでいいんだ、ジャズっていろんな形があるんだと言い聞かせています。そしてジャズは全てを許してくれる寛大な、寛容な音楽なんだと。

「56歳でこんなに楽しい、日に日に疑問を解く楽しみが増えていく音楽に出会えたというのは、ある意味ラッキー」

――ニューヨークに拠点を置いて、自分の好きなジャズを突きつめていって、自分が出したい音が出せるようになって、アルバムも自分がやりたい人と作れるようになり、50歳を超えて充実の時を迎えている感じですか?

『answer july』(9月7日発売)
『answer july』(9月7日発売)

大江 ひとつ鍵が見つかってドアを開けると、その先にまたドアがたくさんあって、またその中のひとつを開けるとまたドアが増えるというか。だから本当に死ぬまでに辿り着けないんじゃないかと思います。学校を卒業する時に、最後のドアを開けて卒業証書をもらった時、あれはまだ山の麓なんだとわかってがっくり、みたいな(笑)。日本を発ってもうすぐ10年、山の麓から5合目あたりに向かってはいるけど、でもなんか山全体がどんどん高くなってるような気がしています、正直なところ。

――山頂がどんどん上へ上へと。

大江 そうなんです。でも56歳でこんなに楽しい、日に日に疑問を解く楽しみが増えていく音楽に出会えたというのは、ある意味ラッキーなことだと思っています。

――その山を高くしているのは、実は大江さん自身じゃないですか。もっとできるという気持ちの積み重ねが、山を大きく、高くしている気がします。

大江 そうやってジャズの山がどんどんソリッドに高くなっていって、気持ちが深みにハマればハマるほど、あえてそれを壊してもっとポップな感じでいいじゃんとか、もっとテクノっぽいことを入れてみようとか思えてきて。変なこだわり、肩に力が入った感じがちょっと取れてきて、だから今だと「世の中にはふたつの音楽ある、いい音楽とそうじゃない音楽とが」という、デューク・エリントンの言葉がすごく胸に沁みます。

――どんな音楽もそうかもしれませんが、音楽ってプレイヤーが歳を重ねると音に芳醇さが増して、それが味となって聴き手に感動を与えると思うのですが、特にジャズはそういう音楽だと思います。一番年齢が関係ない音楽かもしれないですね。

大江 学校に入った時も、誰も年齢を聞かないんですよね。ある時、授業で全員出身地と年齢を言う機会があって、その時僕が年齢を言うとみんなざわついて…。「嘘だ、君がそんな年齢であるわけがない」って言われちゃって(笑)。

「ニューヨークでは、自分からアグレッシブに動かなければ何も始まらない」

――アメリカで生活をし始めて一番変わったことはどういう部分ですか?

大江 アメリカに住んでいると、自分から外に出て行かないと何も起こらない。例えば音楽を聴いていて「この人いいじゃん。この音って誰?」と思って検索して名前がわかったら、SNSで「セッションをお願いしたい」とメッセージして、返事が来たらさっそくギャラの交渉して。で、スタジオで「初めまして」ってな具合。あちこちで出会いも多いです。駅でストリートライヴをやっている人で「いいじゃん」って思ったら、名刺をもらってメールをしたり、ミュージカルを観に行って、気になる人がいたら、調べて直接コンタクトを取ったりしています。そうしないとアメリカの複雑な人種の社会には入っていけないです。自分もいつ声がかかるかわからないので、いつも準備OK状態にしておかなければいけません。

――アルバム『answer july』をリリースしたばかりでが、次の構想を聞かせて下さい。

大江 すでに色々と考えていて、例えばピアノのソロだとするとジョージ・ウィンストンのような透明で美しいメロディを追求するというのをいつかやってみたい。あとはニューヨークならではの色々な国の、歌がうまいスキャットができる若くて美しい女性ボーカルを集めて、リズムチェンジとか歌ってもらって、ジャズ界のスパイスガールズの世界とか、大きな編成の弦サウンドでボサノバというのも考えています。

――東京・名古屋のBlue Note公演を含むジャパンツアーが楽しみです。

大江 7月にニューヨークの“The Jazz Gallery”でやった、シーラ・ジョーダン、ローレン・キンハン、そしてサジャという新進のボーカリストが揃ったライヴが楽しかったので、本当はそのメンバーで日本でもライヴをやりたかったのですが、全員を連れて来るのが難しいので、今回はローレン・キンハンにお願いしました。僕の長年の相棒のベース、ジム・ロバートソンとトリオで演奏します。色々なジャズ、即興演奏を楽しんでください。

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<Profile>

1960年9月6日、東京都生まれ、ニューヨーク在住。1983年シングル「ワラビーぬぎすてて」アルバム『WAKU WAKU』(同日発売)でメジャーデビュー。以降「十人十色」「格好悪いふられ方」「ありがとう」などのヒット曲を連発。ソングライターとしても「第31回日本レコード大賞」を受賞した光GENJIの「太陽がいっぱい」をはじめ、郷ひろみ、渡辺美里、渡辺満里奈、松田聖子他に楽曲を提供。2007年末までに45枚のシングルと18枚のオリジナルアルバムを発表。また俳優や番組MC、ラジオ番組のパーソナリティとしても活躍し、エッセイや小説も執筆。 2008年ジャズピアニストを目指し渡米。ニューヨーク「THE NEW SCHOOL FOR JAZZ AND CONTEMPORARY MUSIC」へ入学。ジャズピアノ専攻。AARON GOLDBERG やJUNIOR MANCEなどのピアニストに師事。2012年卒業。 2012年7月、ジャズピアニストとしてのデビュー作『BOYS MATURE SLOW』を全米発売。2013年9月にアルバム『SPOOKY HOTEL』を発売。2013年、自身が率いるビックバンドで「東京ジャズ2013」に参加。2015年2月14日に3枚目のアルバム『COLLECTIVE SCRIBBLE』を発売。2016年7月5日アルバム『answer july』を発売。現在、拠点のニューヨークで毎月最終木曜日にライヴを行いながら、制作活動のみならずアーティストへの楽曲提供や、ニューヨーク在住のジャズアーティストの発掘も積極的に行っている。

大江千里オフィシャルサイト

音楽&エンタメアナリスト

オリコン入社後、音楽業界誌編集、雑誌『ORICON STYLE』(オリスタ)、WEBサイト『ORICON STYLE』編集長を歴任し、音楽&エンタテインメントシーンの最前線に立つこと20余年。音楽業界、エンタメ業界の豊富な人脈を駆使して情報収集し、アーティスト、タレントの魅力や、シーンのヒット分析記事も多数執筆。現在は音楽&エンタメエディター/ライターとして多方面で執筆中。

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