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【インタビュー】森山直太朗 デビュー15年、初心に戻りギター一本で行脚を続ける今、一番聴いて欲しい曲

田中久勝音楽&エンタメアナリスト

「世に出した曲が聴かれていないということが、ポップスをやっている者として一番辛い」――それまで穏やかな口調でインタビューに答えていた森山直太朗が、語気を強くしてそう語ってくれた。今、その想いをいっそう強くして、各地のショッピングモールなどに出かけ、積極的にフリーライヴを行っている。デビュー15周年を記念して9月21日にリリースし、好調なオールタイムベストアルバム『大傑作撰』にもその想いは込められている。森山の15年間の活動の軌跡を、花々しく支えてきた名曲15曲を収録した「花盤」、同じくその”土台”となって支えてきた名曲を収録した「土盤」の2枚に詰め、さらに”今”の自分を、自分が醸し出している空気をスタジオライヴDVDで伝え、全てを曝け出している。今、あらゆることに対して、デビュー当時の貪欲さを持って臨んでいるという森山が、このベストアルバムの中で、今だからこそ聴いて欲しい一曲とは?

もがいている時期もあったが、岐路に立たされた時にその指標となる曲ができ、恵まれていた

――この15年という時間は、もう、ですか?まだ、ですか?どちらの感覚が強いですか?

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森山 15年で企画色の強いものも合わせると15枚アルバムを出していて、1年に1枚出して相当まじめに働いてきているなと。そういう意味では、もがきながらも、その時その時で曲との出会いがあったんだなって。15枚も出していると思っていなかったです。

――レコード会社孝行ですよね。

森山 幸いなことに根本的に曲ができなくて悩んだことはなかったので。

――それがすごいですよね。

森山 それもどうかと思いますけどね。

――アーティストにとって生産力は生命線じゃないですか。そうやって15年間出し続けてきたからこそ、その季節になれば必ず流れる、代名詞的な作品も何曲も世に送り出すことができたのだと思います。

森山 そうですね、紆余曲折がありつつ、基本的には淡々とやってきたつもりではあるんですけど、その淡々の中にもビビッている時期や、もがいている時期はあったと思うんですよ。何か上手く歯車が噛み合わないとか。その中で、それを直接曲に落とし込んで表現してきたわけではないですが、結局いつも岐路に立たされていたときに、指標となる曲ができていたことが、すごく手前味噌ですが、恵まれていたと思います。その恵まれていることのひとつに、御徒町(凧)と一緒に曲を作っているということが、関係性としては良かったのかなと改めて思います。

「パートナーの御徒町とは、面白さを一緒に追求できなくなったり、掘り下げていくことができなくなったら、コンビは解消するというつもりでいつも制作活動している」

――学生時代からの付き合いではありつつ、御徒町さんとの絶妙な距離の15年間だったといってもいいですね。

森山 どうなんですかね、ただすごく地続きですよね、プライベートも含めて。元々高校時代のサッカー部の後輩で、遊びの延長で曲を作り始めて今に至っていて、でも楽しくやるという前提で始まっているので、面白くなくなったり楽しくなくなったりしたら、一緒にやるのはやめようねという話はしていて。でもそれって、じゃあ楽しくなくなっちゃったから辞めるというのは、なんか違うと思っていて。楽しいって何なんだろうとか、自分にとって面白いって何なんだろうってことを高め合えて、掘り下げていける関係じゃなくなって、向き合えなくなったらやめようねっていうシグナルは出しているつもりです。それがいつになるかはわからない、明日かもしれないし。とはいえ、友達としての環境はきっとずっと変わらないよねという話もしています。

森山直太朗はわかりづらい!?

――あうんの呼吸でもの作りができる、パートナーの存在はやはり大きいですよね。

森山 そうですね。このあいだスチャダラパーのBOSEさんとお話しする機会があって、その時BOSEさんに「森山直太朗っていうのは、わかりにくいよね。キャラクターとして、親が同じ仕事をしていて、そういうサラブレッド的な匂いもするし、だけど「どこもかしこも駐車場」みたいな歌も歌っていて。その得体の知れなさは、御徒町の存在が大きいんだよなって」言われて、なるほどなと思ったんです。それで「本当は森山直太朗って言っちゃいけないんだよ、コーネリアスとかにしなきゃいけないんだよ(笑)」っていうBOSEさんの独特の解釈で分析してくれて「でもそれが森山直太朗っていうことなんだよな、それをユニット名で片付けちゃうのも違うんだよな」って。わかりにくさっていうのは、ミステリアスとかそういうことではなくて、逆にそれだったらまだいいんだけど、本当にわかりにくいっていう……。

――どこかつかみどころがないという印象はあります(笑)。

森山 それが僕の活動なのかなと思っていて。自分でも説明しきれない感覚的なものがあるし、もっと言えば説明しきれないから活動に落とし込めているし。そこは四の五の言うけれど、とにかくコンサート来てください、何かしらクリアになることはあると思うので、生の舞台を観に来てください、ということしか最終的には言えないというか。

初回出荷枚数1,000枚だった「さくら(独唱)」がミリオンヒットに。焦りとブレが生まれ、長い間、不安と焦燥感にさいなまれていた

――2002年にメジャーデビューして、2ndシングル「さくら(独唱)」(2003年)のプロモーションの時は、ギター片手に地方のラジオ局、レコード屋さんを回っていましたよね。その「さくら(独唱)」は120万を超える大ヒットになりました。

森山 でも気が小さいので、焦りは常にありました。これは語り草になっているんですけど「さくら(独唱)」って、初回出荷枚数が1,000枚ちょっとだったんです。数字に関しては疎いほうでしたが、さすがにインディーズでも当時イニシャル1,000枚ってちょっとないよなって(笑)。それくらい期待されていないんだなって思っていました。ただレコード会社のみなさんの熱意、とにかく番狂わせを起こすぞという意気込みは感じていました。結果的に恵まれましたが、そこに至るまではずっと路上でやってきたので、そこは変な話メジャーデビューしてもう一度襟元を正すというか、帯を締め直して原点に返る感じでした。ギター一本持って、コミュニティFMや地方のFM局の会議室とか普通のフロア、みなさんが仕事しているところにお邪魔して「お仕事中失礼します」とかいって、やっている事は流しですよ。名刺も作って、名前を覚えてもらって曲を聴いてもらう。それって駅前で「帰宅中のみなさま!」って言っているのと変わらないんですよね。そこでうるさいなって思いながらも、何かあるなって思ってもらえることが、ひとつのやりがいだったので、その戦法は今でも変わりません。

――「さくら(独唱)」が徐々に売れ始めましたが、ここまで売れるとは思っていましたか?そして何か変化はありましたか?

森山 売れてきたのは嬉しかったのですが、やっぱり自分に焦りが生まれて、ブレてきますよね。自分にはおおよそ抱えきれない状況なのに、でもそれを自覚できていませんでした。「さくら(独唱)」の後「夏の終わり」をリリースする時、インストアライヴやラジオの公開収録には何千人も集まって下さり、今でも覚えていますが、長崎の駅前でイベントをやった時は1万人近く集まって下さってパニック状態になって。そこから違う焦りが生じて、表現というものが筋肉質になっていた時期で、そこを自分で振り返り切れるまでは、不安や焦りがずっとつきまとう活動でした。でもそれだけCDが売れてきても、打ち合わせでレコード会社に行くとバイク便の人と間違えられていました(笑)。「おはようございます」って言うと、所属アーティストにも関わらず、「そこ置いといて」って言われるんですよ、顔も見られずに(笑)。

「「さくら(独唱)」のヒットは嬉しいが、「夏の終わり」や「どこもかしこも駐車場」をもう一回しっかりと伝えていくために何ができるのかを、チームで取り組んでいる」

――活動小休止後に発表したアルバム『嗚呼』の時のインタビューでは、スタッフィングが変わって、メジャーデビューした時のような気持ちで、創作活動だけではなく、プロモーションや制作物、細かいところにまで具体的に自分のアイディアを、スタッフにプレゼンしていくというスタンスで動いているとおっしゃっていました。

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森山 そうですね、スタッフと裸の言葉でぶつかりあっていきますが、アルバムを世の中に伝えていくのには、それぞれ役割があると思っています。僕はアルバムを作って、歌い届けていく、それを共にする対等なチームがあって、作品が伝えられていきます。僕はアーティストという言葉はあまり使いたくないのですが、アーティストっていう人がいて、スタッフがそれを支えるといっていう構図じゃないんですよ、我々のチームって。あくまでもクリエイティブファーストなんです。だから僕もスタッフ側に回って、これどう?どう?ってやっていないとダメなんです。そうじゃないとプロモーションっていう観点から見ても、良い舞台は整えられないんですよ。僕の名前にピントがあったものになったときに、それは手前味噌だよ、そんなこと誰も知らないよっていうことが今までにあったから、今そういうふうに言えると思います。僕の気持ちの中では、もう一回「夏の終わり」も「どこもかしこも駐車場」もゼロから伝えていきたいという気持ちが強くて。「さくら(独唱)」はお陰様で教科書にも載せていただいたり、これから歌い続けていくことで変化していくことはあると思いますが、曲としての一つのポテンシャルというのは、ある季節の中で示せた感覚はあって。でもポップスという括りの中で、「夏の終わり」だったり「どこもかしこも駐車場」という曲は、もっと普遍性のあるものだと思っているので、その潜在的なものを、表現者として伝えきれていないというジレンマがあるんですよね。表現するためには舞台が必要で、その舞台を作る準備をしていくという部分で、一人で切り拓いていく部分と、スタッフ全員の決断力と、パンクな精神が求められると思っています。それは自分はシーンの中でメインストリームではないと思っているからなんです。だっておかしいですよ、「さくら(独唱)」という曲は、テーマもそうですが、ピアノで独唱というスタイルって、当時小室哲哉さん他の音楽が全盛だったシーンの中では、一種の違和感じゃないですか。何やっているんだ今更お前は、と思われていたと思うんですよね。

「我々がやっていることはカウンターカルチャーであり、隙間産業。自分達も安心できないものを創り続けなければいけない」

――逆に目立っていましたよね。

森山 きっとそこなんですよね。あの曲は今でこそさくらソングといえばという感じになっていますが、決してそんなことはなくて、全く軌道とか王道には乗っていないものなんです。そういう意識、我々は隙間産業だという部分の解釈を間違えてしまうと、たちまち面白くないものになるという話は、御徒町といつもしています。カウンターカルチャーなんだということは、活動をこれだけ長くやっている中で説明としては不十分だったとは思いますが、常に自分たちにとっても安心できないものを創らなければいけないと、いつも思っています。

――それはずっと変わらないポリシーのようなものですか?

森山 そうですね、活動って生き物なんですよね。そういう部分が活動としてのオリジナリティを作っていくし、例えば宣伝も他とは違うことをということで、「さくら(独奏)」の時は、さくら前線北上中とかいって、ギター一本持って地方を歌って回り、認知されるようになったり。今まさに同じような時を迎えていて、ゼロからまたもう一度僕はギター一本持って、色々なところに飛び込んでいくということをやっています。僕はプロモーション方法とか作戦の話をするのが好きで、歌い手がそんな話をすると生々しい感じもしますが、でも、一人でも多くの人に強く深く曲を伝えたいというところでいうと、そのモチベーションはデビュー当時と変わっていなくて。先日も御徒町やスタッフとそういう話をしていたら、御徒町から「すごく良く分かる、直太朗らしいと思うけれど、もし君が本当にそういう風にやりたいんだったら、そのことをまずレコード会社のスタッフに、こういう風にしたいんです、お願いしますって言わないといけないんじゃない?」と言われ、それが結構ショックで。ひとつのチームだと思っていましたが「そっか、自分の活動に協力してもらっているんだ」ということを再認識して、そういえば昔はひたすら頭を下げていたことを思い出したんです。でもこの精神こそ、自分が一番忘れていたことだなと身につまされました。そこを改めてからはレコード会社のスタッフの姿勢が変わっていって、だから活動は生き物だなと思ったんです。当時は意識していませんでしたが、僕は曲を作って表現しているけど、それをどう伝えていくかということ、そこにこそ最大のクリエイティブがあるんだなと。いま振り返ってみると、曲の力とか歌い手の姿勢だとかそんなことは当たり前のことで、それを世の中に伝え切るためには、頭を下げることが大切だったという。

「自分で切り拓いた道のはずなのに、いつからか人に甘えていた。曲を作って歌うだけではダメ。それをどう世の中に伝えるかまでを、考えるなければいけない」

――原点に立ち返った。でも10周年という節目の時に、一度立ち止まってガッツリ振り返っていますよね?

森山 そうですね、ベスト盤こそ出さなかったものの。

――そこから5年経って改めて身につまされて。

森山 後悔っぽい感じではなくて、それはその時はそうするより他になかったし、そうすることで得たことを鑑みると有意義なことだったなと思うので。でも5年前の姿勢で、今回の活動に臨んだら怠慢なんじゃないかなという感覚はありました。具体的に言うと、色々な人との距離が遠かったですね。「これはやってくれるんでしょ?」みたいな感覚でいたので。歌う事以外は、全ての面においてやって欲しいと思っていたのかもしれないですね。中期から後期にかけての自分はすごく幼かったと思います。自分で切り拓いた道なのに、いつからか誰かが何とかしてくれると思っているんですよね。曲は作り続けることができているし、歌も歌えているし、なんとかなるんだろうという甘えた考えはありました。

――でも普通は、それぞれ役割分担があって、それぞれがそれに従って動くものですよね。

森山 もちろんそうだし、僕の場合は歌うことで責任をとる、という役割でした。周りから「あなたはものを創る、そして歌う。それに専念して自分を追い込め」と言われていた気がするし、そういうポジションでした。僕はいつも何かを待っている状態で、その分つまらない曲ができたときには、ばっさり切られる。なぜなら言い訳がきかない環境にいたので、さっき言った有意義さというのはそこなんですけれど、やっぱり抜き差しならないんだなって。この活動が、末広がっていく活動になるためには自分との対話、問いかけ、自分への疑いがなければいけないんだと。今でもその精神は自分の中にあるけれど、ただ活動小休止中に、いやちょっと待って、と。そもそも自分は何がやりたいんだろうと思って。僕は舞台でただ表現しているのが楽しいのであって、どうやらそこにいるオーディエンスというか、関心を持って観にきてくれる人が多ければ多いほど、自分の精神が掻き立てられるのかなと思った時、それは弾き語りをやっている時からそういうイメージがあったなと思ったんです。目の前にお客さんがいて、どうやったら自分の歌声や表現で世界が広がっていくんだろうって、このシンプルな興味やモチベーションは潰えなくて。レコード会社の人間とのぶつかりあいも、自分が舞台から世界を広げていく上では大事なコミュニケーションだし、それがそっくりそのまま表現に表れるし。活動としても抜き差しならないし、骨の折れることはたくさんありますけど、でも休んでいる中で、本当に自分のやりたいことを再確認できたんです。これが5年後10年後どうなっているかはわからないですけど、シンプルに自分が感動すること、こういうことが好きだよなとか、面白いよなということに気付けたのは、オリジナルアルバムを6月に出して、今回の『大傑作撰』をリリースする流れの中で、すごくリアルに、活動と作業を伴って感じていることです。「これがやりたかったんだ僕は」って、面倒くさいと思いながらも(笑)。御徒町からも「今の直太朗のこの面倒くさい感じ、デビュー当時に似てる。このぐらいものわかりが悪かった」って言われて(笑)。最近は「みんながいいんだったらいいんじゃない?」って合わせるような感じだったから。どこかでそうやって矯正することが必要だったのだと思います。自分の欲とか業との闘いというか、そういう意味では辛かったですが、その時期の表現は面白いですよ。色がないというか、逆に聴きやすいものが多いんですよね

「自分を支えてくれた曲達を、今の自分の表現力で、バンドとの関係性から生まれる空気とともに伝えたくて、スタジオライヴDVDを付けた」

――スタジオライヴの映像も入っていますが、あれもさらに、より世界観を伝えたいという想いの表れですか?

森山 歌う理由がそこにないと、前線で活動している人間はやっぱりすり減っていくんですよね、消費されるというか。我々が本当に楽しそうとか、面白そうって思っている部分がどこかに感じられないとダメだと思うんですよね。より多くの人にこの活動を知ってもらえるきっかけになったらいいなと思って「花盤」「土盤」という2枚組にして、自分の15年の軌跡を辿る図鑑のようなものになっていたので、だったら過去だけではなく、“今”の自分も知ってもらいたいという気持ちになりました。当時の「夏の終わり」もいいけど、今、上書きされた表現で聴いてもらいたいなって。それとバンドメンバーとの関係性もより強固かつカジュアルなものになっていたので、みんなに集まってもらって一発録りでやってみたいと思いました。これがどういう効果を得るかというのは、皆目見当がつきませんが、自分の中では「花盤」「土盤」とライヴDVDの3枚を通して、ここまで過去のことを思いっきり出し切ったという、ひとつの踏ん切りがついているので、ちょっと前だったら振り返れないことも、切り離して考えられるので、今回この作品を作れたことは個人的にもな大きな意味があると思っています。

――「花盤」「土盤」2枚を聴いていると、生で歌っているのを観たく、聴きたくなります。

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森山 これ10年前だったらできなかったですね。当時はさっき言っていたような時期だったから、あまり身が伴ったものになっていなかったと思います。ここ5~6年はセールス自体は、期待しているようなものには正直なっていなかったと思いますが、ほぼ毎年やらせてもらっていたツアーが、骨の周りにどんどん肉がついていくような感覚で、。それは結局我々は路上から叩きあがっているから、表現の場は路上から舞台にかわったけど、結局舞台でやっているときが一番自分たちを表現しやすいんです。そのひとつのスタイルがはまってきたのが、色々な暗中模索を経て、デビューから10年経ってからでした。そから5年という時間の中で、一つ一つのツアーを丁寧に積み重ねていくのは、根気のいる作業で、そこでグッと耐え忍んで楽しんでできたというひとつの結果が、今回のライヴ映像に表れているんじゃないかなという気がします。

「「どこもかしこも駐車場」は非常に大切な曲なのに、リアルタイムでしっかりと伝えることができなかったという後悔の念が強く、今回改めてきちんと聴いて欲しい」

――過去映像じゃないですもんね。新たにスタジオライヴをやって、CDも2枚組にして、出し惜しみを全くしていない。

『大傑作撰』(9月21日発売)
『大傑作撰』(9月21日発売)

森山 正にその通りで、今僕の中には何もないです(笑)。あとは、歌い手の役割りとして、「さくら(独唱)」や「夏の終わり」で森山直太朗を知ってくださっている人たちに、キャリアの中期~後期の、こういう季節にこういうものも歌っているんですよということを知って欲しかったんです。実はこの『大傑作撰』の最大の目標は「どこもかしこも駐車場」を聴いてもらうということなんです。この曲は『自由の限界』(2013年)というアルバムのリード曲で、この曲を中心にアルバムのプロモーションをして、ツアーに突入する予定でしたが、アルバムのリリースが遅れてしまって…。そんな事もあってこの曲をリアルタイムで聴いてもらう機会を損失してしまい、後ろ髪をひかれている部分があったので。自分の役割を果たせていないと思い、今回もう一度チャンスをいただけたので「花盤」にも特典DVDにもこの曲を入れさせていただいて。どんな感想を持たれるにせよ、少なくとも聴いた人には曲の存在を知ってもらえるということなので。聴かれてもいないという状況が、ポップスをやっている上で一番つらい。今日もギターを持ってラジオ局回りをやりましたが、その辺のスタンスが軽いのは、聴いてもらえるんだったら歌いたいというのが基本精神としてあるからなんです。今回は、本当に初期の宣伝活動の時よりも歌っているのではというくらい、各地のショッピングモールでフリーライブをやっています。この感じってデビュー当時や、デビューする前の切り込んでいく感じなんですよね。僕の事を知らない人もたくさんいるとは思いますが。

――森山直太朗という名前は聞いたことあるけれど、曲を知らないという人が、まだまだいるのかもしれませんね。

森山 正直そういう人ばかりかもしれないですし、後はテレビで観た事ある人が来ているから、興味本位でのぞきに来たという人も多いと思いますし、でもそれで全然良くて、むしろ何も知られていないところからやっている人間としては、ちょっとでもそういうとっかかりがあるのは恵まれているということなので。

「大衆音楽を追求したい。母親が苦労しているところを見ているので、自分なりのやり方で曲をポピュラーなものにしていきたい

――ポップスを大衆音楽と訳すのであれば、そういう人たちに聴いてもらわなければダメですよね。

森山 もちろん。言葉の意味は飽和しているけれど、原点はそこですよね。やっぱり大衆音楽をやりたいんだなと思います。母親(森山良子)とか見ていると、今でこそ「さとうきび畑」とか「涙そうそう」といった曲が知られるようになりましたが、それまでは結構苦労していて。ライヴを年間60~70本毎年色々な地方でやって、もちろんそれも活動の軸なんですけど、そういう苦労を見ているので、曲がポピュラーになるということが、何かコンプレックスとしてあるんですよね。母親は歌い続けていくことでその結論を出したんです。その背中を見ているから、僕は僕のやり方を見つけなければいけないと思っています。

――15年のキャリアを積んでもなお、地方の街のショッピングモールを細かく回って歌うという、その姿勢には頭が下がります。

森山 この前行ったところでは館内アナウンスもさせてもらって(笑)、そういう意味ではむしろデビュー当時より貪欲になっているかもしれないですね。デビュー当時の方がもうちょっとストイックでしたね。

「人それぞれの”記号化できない感覚”に、訴えかけていく歌を歌っていきたい。その象徴となる一曲が「どこもかしこも駐車場」」

――難しいと思いますが、15年やってきた中で、特に自分の中で特別大きな存在になっている曲を「さくら(独唱)」以外で挙げていただけますか。自分のなかのポイントになっているというか15年歩いてきた中でポイントになっているのは?

森山 僕の中で「生きてることが辛いなら」とか「君は五番目の季節」とか、その都度その都度エポックメイキングな瞬間はありましたが、リアルタイムでイベントやフリーライヴで歌っていることもありますが、やっぱり「どこもかしこも駐車場」が一番ですね。「生きてることが辛いなら」とかああいう曲を歌い切って、さあこれからどうするよってなった時に気づいたんです。そうなんだ、我々は歌っている姿勢とか、歌詞1行1行のメッセージとかではなくて、ただ感覚に訴えかけているだけなんだって。「嗚呼」もそうですよね。解釈というのは聴く人の自由で、僕がそのことを言うのはすごく無責任なことで、ということはパフォーマンスでそのことを示さなければ、ただ言っているだけになってしまいます。だとしたら訴えかけなきゃダメだと。記号化できない感覚というのは、みなさんそれぞそれがきっとお持ちだと思うんですよね。そういうところに語りかけていく、疑っていくということは、これからの音楽が持つ重要な役割になると思っています。だから共感できなくてもいい、当たり前だっていう。だけど自分でも知らないような、共有できるみんなが持っている感覚というものがあるはずだから。そこは唯一自分の中でモチベーションになってやっているので、その象徴が「どこもかしこも駐車場」という曲です。

――こうやって改めて全編を通して聴かせていただくと、聴きやすく、でも胸に迫る曲あり、せつない曲あり、クスッと笑える曲あり、元気になる曲あり、直太朗さんの人間性と15年分の曲の変遷がパッケージされています。アルバムのトレーラーでは「実は「土盤」の方が気に入っている」とおっしゃっていましたが。

森山 「土盤」に入っている曲のほうが、シングルにするとか考えないで作っているので、力が抜けていて聴きやすいかなと思ったのですが、でもこうやって取材とかで話をしていくうちに、また「花盤」が大外からぐいぐいやってきて、伊達じゃないなという感じが伝わってきます(笑)。

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<Profile>

1976年、東京都生まれ。2001年3月インディーズレーベルより“直太朗”名義で、アルバム『直太朗』を発表。'02年10月ミニアルバム『乾いた唄は魚の餌にちょうどいい』でメジャーデビューを果たし、翌2003年「さくら(独唱)」の大ヒットで一躍注目を集めた。その後もコンスタントにリリースとライヴ活動を展開。独自の世界観を持つ楽曲と、唯一無二の歌声が幅広い世代から支持されている。また、'05年には、従来のコンサートでも垣間見せた、シアトリカルな要素を高めた音楽劇での劇場公演『森の人』を成功させ、'06年には楽曲の共作者でもある詩人・御徒町凧の作・演出による演劇舞台『なにげないもの』に役者として出演。メジャーデビュー10周年を迎えた'10年にも7年ぶりとなる劇場公演『とある物語』を開催。音楽だけにとどまらない表現力には定評がある。'14年にはフジテレビ55周年ドラマ『若者たち』の主題歌を手がける。同年11月にはアルバム『黄金の心』をリリース。このアルバムを携え、'15年1月から半年間に渡り全国ツアー『西へ』を行い、このツアーを経て生まれた楽曲『生きる(って言い切る)』を2015年9月にリリース。'16年6月1日、約半年の”活動小休止”を経て生まれたニューアルバム『嗚呼』をリリース。9月21日には15周年記念オールタイムベストアルバム『大傑作撰』を発売。来年1月からは「森山直太朗 15thアニバーサリーツアー『絶対、大丈夫』」がスタートする。

『大傑作撰』特設サイト

音楽&エンタメアナリスト

オリコン入社後、音楽業界誌編集、雑誌『ORICON STYLE』(オリスタ)、WEBサイト『ORICON STYLE』編集長を歴任し、音楽&エンタテインメントシーンの最前線に立つこと20余年。音楽業界、エンタメ業界の豊富な人脈を駆使して情報収集し、アーティスト、タレントの魅力や、シーンのヒット分析記事も多数執筆。現在は音楽&エンタメエディター/ライターとして多方面で執筆中。

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