レギュラー放送終了後も中毒者続出 20周年を迎える『水曜どうでしょう』が愛され続ける理由【後編】

(写真:アフロ)

『水曜どうでしょう』20周年の放送記念日まで、あと数か月。その魅力を解明してみようと、【前編】ではタレント大泉洋藤村忠寿ディレクターに迫ったみた。後編はもう1人のタレントで“ミスター”こと鈴井貴之と、この20年間の全記録をカメラに収めてきた、嬉野雅道ディレクターに触れてみたい。登場人物4人の中で、前編で触れた大泉&藤村がサッカーでいうオフェンスなら、今回の2人はディフェンスだ。

(3)男を下げた瞬間から魅力が開花 “ミスター・どうでしょう”鈴井貴之

鈴井は、大泉が所属するオフィスCUEの会長(前・社長)である。番組スタート当初は、北海道のローカルタレントとして既にその名を知られ、その後、俳優から脚本、監督業など、自分の才能を様々な形で表現し、変化を続ける人物だ。そして、彼は 『どうでしょう』の歴史の中でも、一番役割の変化を求められた人物であり、今や“ダメ人間”として輝き続ける男だ。

20年前、誰よりもテレビ番組の作り方を知っているのは、鈴井だった。番組には企画から携わり、視聴者に見せるべきエンタテインメントとして、目標に向けて全力疾走し、ゴールするタレントの姿を見せようと、大真面目に旅の進行管理に努めた。同時に、花形選手として、笑いをとるためにはディフェンスの最後尾から駆け上がり、シュートを決めるような人だった。しかし、皮肉にも彼が番組内で最大のポテンシャルを発揮するのは、嬉野Dの言葉を借りれば「男を下げた瞬間から」だ。ロケに真剣になればなるほど、オウンゴールさながらの大失態を連発する。

例えば1999年放送の『アメリカ合衆国横断』。1台のレンタカーに4人で乗り込み、サンフランシスコからワシントンD.C.までの3750マイルを横断しようという企画だが、終盤で旅のスケジュールに大幅な遅れが生じた。ゴール到着に危機を感じた鈴井は「明日以降、朝の寝坊も途中の寄り道も、一切認めない!」と一喝。そして一夜明けた翌朝5時。いざ!出発という場面で、鈴井は「車のインキー」事件を引き起こしてしまう……。底冷えする朝の屋外駐車場。アスファルトの上で見事な土下座を披露する鈴井と、爆笑する3人。「とりあえず部屋に戻ってロードサービスを待とう」とするも、さらに鈴井は、オートロックの室内にルームキーを置き忘れるという痛恨のミスを犯し、もはやタダのボンクラと成り下がる。

結局、大泉&藤村Dに散々罵倒されイジリ倒されるのだが、ここからの鈴井は何故か別人へと豹変。何を思ったか「もう、いいんじゃない? (ゴールまで)行かなくても?」と、糸の切れたタコ状態。寄り道、買い物なんでも来い! と、堕落のススメに身をあずけていく。この姿こそ、鈴井が最もチャーミングかつ輝く瞬間なのだ。絶対的エースから、ディフェンス選手へ…。この変化を受け入れられる度量の深さが鈴井にあったからこそ、長い時間を経た今も『どうでしょう』は4人の旅を続けられるのではないだろうか。これからも、ここぞ! という場面では、とことん男を下げ続けていただきたい。“ミスター水曜どうでしょう”は、やはり鈴井貴之でしか成し得ないのだから。

(4)最初に『どうでしょう』の形を作り出した嬉野Dの存在感

最後は、“うれしー”の愛称で親しまれ、番組内では最年長となる嬉野雅道ディレクター。鈴井、大泉、藤村Dの3人が織りなす奇跡をファインダー越しに見つめてきた、唯一の視聴者代表・嬉野Dからみえてくる『どうでしょう』の魅力とは?

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藩士(=番組のファンを指す)の間では、すっかり“癒し系おとぼけキャラ”の嬉野D。その要因は、大泉に散々突っ込まれる「タレントを撮らずに風景ばかり撮る」という素っ頓狂なカメラワークや、ロケ中の居眠り、またシカをトラと見間違えてロケをパニックに導くなど、愛嬌たっぷりなエピソードに事欠かない点だろう。しかし、嬉野Dこそ、立ち位置や役回りを変えず、感性のままにカメラを振り、俯瞰(ふかん)で番組を見てきた人物だ。そして、『どうでしょう』という番組の笑いの輪郭を、最初に作り上げた功労者なのだ。セオリー通りの旅番組を流す気など一切ない同番組の見所は、旅に出る前の緊張感や、移動の車中でのくだらないケンカ、準備不足の連鎖が招くハプニングに、枕を並べた就寝前の反省会やお説教など、赤裸々な人間模様だ。その結果、藤村Dも旅の一員となってしゃべり倒すという形が出来上がった。

この「ディレクターの落ち度を、タレント陣が突っ込む」という笑いの形を引っ張りだしたのが、嬉野Dだ。ある日いつも通りロケを終え、編集作業という第三者の目線で映像を見たときに、「このシーンは、藤やんのツッコミまで入って、笑えるんだ」と発見したそうだ。そこから、藤村Dと大泉の掛け合いは拡張され、今のスタイルが確立した。もし別のカメラマンだったら、タレント同士の会話のみでの展開を変えない。または、藤村Dをフレームインさせて、タレント化を図ったかもしれない。しかし、どちらも選ばなかったことで、藤村Dを「顔のみえない暴君」でありながら、旅仲間の一員だと視聴者に認識させた。視聴者は顔が見えない相手だからこそ、大泉が発する乱暴な恨み節をも、心安く爆笑し続けられた。

”言葉にできない面白さ”に引き込まれ、”4人”と一緒に人生という旅を楽しんでいる感覚

次に、かなり個性的な「タレントを撮らない」というカメラワークにも触れておきたい。もし、カメラが長回しの間ずっと、タレントに向いていたら? タレントは何か喋って笑いを取りたいと思う分、常にカメラが自分の姿を捉えるというのは、相当のストレスとなるはずだ。しかし、カメラは回っていても、自分に向いてはいない…。この状態だったからこそ、さまざまな「名言」が生まれたのではないだろうか。さらにもう1点、例えば車の移動中、カメラが鈴井&大泉の姿ばかりを撮っていては、視聴者は「旅らしさ」も感じられず、その画に飽き始める。しかし、車中の会話は肝である。実は、窓から流れる風景を見ていると、車内の会話が耳に入ってきて、思わず笑ってしまうという「普遍的な旅の出来事」を視聴者に提供し、楽しさを分け合っているような気がする。

嬉野Dのエッセイ『ひらあやまり』(KADOKAWA)には、同番組を通じて体得した独特な仕事論がある。“大人になる”とは、楽しい子ども時代が終わり、社会や仕事の厳しさの中に投げ込まれる事だと思っていた時代があった。しかし、心から楽しいと思える『水曜どうでしょう』という仕事に出会い、この楽しさの中で人生を生きていけると認識できた時が「大人なった瞬間」だったと。続けて「人生は素晴らしい」と、綴られている。

同番組の本当の魅力とは、いったい何だろう? もしかしたら、「どんな時でも笑って生きていけるんだな」、「人生って楽しいんだな」と、気づかないまま共鳴しているところなのかもしれない。

『水曜どうでしょう』オフィシャルサイト