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名言「雑草という名の草はない」世界は本当にあった

田中淳夫森林ジャーナリスト
草ぼうぼうの農地は「荒れている」と表現されるが……。(写真:イメージマート)

 NHK朝ドラ「らんまん」に、「この世に雑草という草はない」という有名な言葉が語られていた。「すべての草に名があり役割がある」と。

 これはドラマのモデルである牧野富太郎博士の名言として知られるほか、昭和天皇も同じ意のことを発したと伝えられる。昭和天皇は牧野博士に植物学のレクチャーを受けたこともあるから、関係あるのかもしれない。

 なかなか含蓄のある言葉だが、実は、本当に昔の日本に「雑草」という言葉はなかったようだ。

「雑草」の誕生は明治以降

 江戸時代に記された多くの農業書には、作物以外の植物については単に「草」と記しており、「雑草」とは呼んでいない。

 雑草という言葉が初めて登場するのは「本草図譜」という植物図鑑(1828年刊行)だが、それは効用や性質などがまだわかっていない植物を指している。

 ところが明治になると、札幌農学校(現在の北海道大学農学部)の半澤洵博士によって「雑草学」が著される(1910年)。そこで「雑草とは人類の使用する土地に発生し、人類に直接或いは間接に損害を与ふる植物を云ふ~」と記された。

 どうやら英語のWeedの訳語として「雑草」という言葉が使われたようだ。Weedには「望まれないところに生える植物」という意味がある。

 現在の雑草の定義も、人間社会に(農耕や景観などの点で)迷惑をかける草本系植物とされている。人の役に立つか立たないかという欧米の植物に関する見方を「雑草」という言葉に当てはめたのだろう。

 逆に言えば、明治以前の日本に「役に立たない草」=雑草とする見方はなかった。まさに牧野博士の名言どおりなのだった。

 農地だけでなく山野に生える草の多くが、葉や茎を食べられるほか、芋や地下茎のデンプンを採る(葛粉、片栗粉など)こともできる。もちろん薬になる草木もあるだろう。

 また牛馬の餌にもなった。草の繊維からは織物もつくれるし、染色剤にもなる。もっとも重要なのは、草を肥料にすることだ。刈り取った草を堆肥にして農地に漉き込むことで農作物の収量アップに寄与できた。

 草刈りとは、そんな産物の収穫作業でもあったのだ。

森で育つ草木を利用し尽くすのが林業

 林業でもそうだった。今でこそ、山に木の苗を植えたら下草刈りをして、広葉樹など雑木を除伐、育ちの悪い木を間伐して……と苗を育てるために余計な草木を除く作業が欠かせないとされる。だが、本来はそうした作業はなかったようなのだ。

 多くの林業地は、焼畑の跡地に誕生している。山を焼いて、そこに作物(陸稲や蕎麦、野菜など)の種子を蒔いて、その間に樹木の苗も植える。すると1~3年程度は作物を収穫できる。その収穫作業が下草刈りと同じだった。あるいは林内でウシやウマなどを放牧をすることで、林床の草は家畜の餌となった。

 除間伐するのも、伐った木に使い道があったからだ。直径数センチの丸太や雑木も商品にしたり、加工して自ら使う道具を自給したりした。切り捨てることはなかった。

 やがて植えたスギやヒノキが大きく育つと、地表部分は暗くなって下草なども生えなくなる。そのまま数十年経つと、大きく育った木から太く長い丸太が収穫できる日が来る……。無駄なく、森で育つ草木すべてを利用してきた。

 今は、そうした多様な利用法を忘れてしまい、「雑草」「雑木」という言葉が登場して役立たずの草や木という分類にしてしまったのだろう。

 現代の日本では、商品としての山菜や薬草は畑で栽培する。化学合成する薬も少なくない。一方で農地に作物以外の草が生えたら大変な労力をかけて取り除くか、除草剤を散布する。肥料も金をかけて購入する。

ラオスにも「雑草という名の草はない」

 ところで雑草の研究誌である「草と緑」(緑地雑草科学研究所発行)に興味深いエッセイが記されていた。研究者がラオス奥地の村を訪れたのだが、「雑草」に相当する現地の言葉がなかったという。つまり牧野博士の言葉どおりの世界が、今も残されていたのだ。

 雨期の水田に行ってみると、女の人が田んぼに入って稲以外の植物を楽しそうに採っている。聞いてみると、食材にするのだという。

 日本の水田にも多いデンジソウやオモダカなどは美味しくて人気だそうだ。また世界的に作物の成長を抑えると問題になっているヒマワリヒヨドリは、薬草扱いだった。ほかにも家畜の餌や工芸品の材料にする草もあった。

 そもそも水田に草が生えていたら何が問題なのか、と問い返された。ある程度稲に混じって草が生えていても稲の成長はよいと考えられているらしい。

 稲など農作物を守るために雑草を取るのではなく、それぞれの草を利用するために採るわけだ。不要な草などなく、それぞれの特徴を活かす。だからネガティブな「雑草」という概念はないのだろう。

 残念ながら、ラオスでも最近は急速に近代的農業が広がっており、除草剤を使って「雑草」を駆除するようになりつつあるそうだが……ちょっと残念な気がする。貴重な植物の利用する知恵を失うことになるまいか。

 日本には、古来より草も木も土も生きとし生けるものすべてが成仏するという意味の「草木国土悉皆成仏」という考え方がある。そして「草木塔」が建てられた。草木に感謝し、その成長を願って建立したのだ。

 改めて牧野博士の言葉を振り返ると、「雑草」といった言葉で多種多様な生き物を十把一絡げにするのではなく、生物多様性を認め、個々の個性や特徴を尊重することをめざしたのではないか。そこには現代的なSDGsの精神が感じられるような気がする。

森林ジャーナリスト

日本唯一にして日本一の森林ジャーナリスト。自然の象徴の「森林」から人間社会を眺めたら新たな視点を得られるのではないか、という思いで活動中。森林、林業、そして山村をメインフィールドにしつつ、農業・水産業など一次産業、自然科学(主に生物系)研究の現場を扱う。自然と人間の交わるところに真の社会が見えてくる。著書に『鹿と日本人 野生との共生1000年の知恵』(築地書館)『絶望の林業』『虚構の森』(新泉社)『獣害列島』(イースト新書)など。Yahoo!ブックストアに『ゴルフ場に自然はあるか? つくられた「里山」の真実』。最新刊は明治の社会を揺り動かした林業界の巨人土倉庄三郎を描いた『山林王』(新泉社)。

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