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「里海」を守るため、海を汚せ? 悩ましき人と自然の共生策

田中淳夫森林ジャーナリスト
瀬戸内・男木島の漁村。人の営みが里海をつくってきた(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

 環境省は、瀬戸内海の里海環境を守るために、排水に含まれる栄養塩を増やせる新制度を導入しようとしている。言い換えると、「きれいになりすぎた」海を汚そうという試みだ。

 何のことかと思われる方もいるだろうが、まず「里海」から説明しよう。あまり耳慣れないかもしれないが、陸の里山に対して海の環境を示す言葉として最近使われるようになった。

 里山は、人が農耕などで土地を耕したり、水田のような湿地環境をつくったり、雑木林を伐採したり……さまざまな人の利用を通して自然界を豊かにした地域とされる。同じく里海も、海辺に集落があることで、人々の営みや水産物の採取、そして交通や流通に海を利用してきた海域を指す。人が関与することで、生物多様性が高まるとともに産物を生産し、また人と自然の交わる文化を生み出してきた。

生活排水が里海をつくった?

 具体的には、人が生活排水やし尿を海に流して栄養塩を供給し、また石垣などで堤防を築くことで石の表面やすき間に生物の隠れ家を作り出した。それが元で水産資源が豊かになり、近海漁業が発達した。こうして人と自然の共生関係が成り立ったとされる。

 環境省は、国連の生物多様性条約会議などでも、日本の里山環境をモデルとして人と自然の共生をめざそうという「SATOYAMAイニシアティブ」を打ち出している。里海も、その線の上にあるといえよう。

 ところが瀬戸内海では、近年になって生き物の栄養源となる窒素やリンといった「栄養塩」の濃度が下がってきた。そのため養殖ノリの色落ちや、漁獲量の減少といった問題が起きている。栄養塩の減少理由は、排水がきれいになりすぎたからと思われる。

赤潮発生源の栄養塩を減らすと……

 そもそも瀬戸内海の水質は、高度経済成長期に悪化の一途をたどっていた。沿岸に多くの工業地帯が建設されて、そこからの排水で海が汚されてきたからだ。生活排水とは違い、そこには時として重金属や化学薬品など有害物質も含んでいた。

 結果的に一部の微生物が大増殖する赤潮の発生が頻発したほか、生物の棲めない水域も生み出した。そこで1973年に瀬戸内海環境保全特別措置法を成立させた。有毒物質の排出を禁止するとともに赤潮の原因でもある栄養塩の削減目標を定め、下水処理場の建設を進め、工場排水にも規制をかけたのである。

 そうした努力の結果、近年は赤潮の発生は激減した。工場地帯の沿岸でも釣りを楽しめるほど水はきれいになった。ところが栄養塩は、ノリなどの海藻やイカナゴなど近海魚類には欠かせない。必要以上に排除したことで、水産業に悪影響が出始めたのである。

 このため環境省は、栄養塩を増やす水域を設定しようというのが今回の動きである。具体策としては、ノリ生育に重要な秋~春にかけて下水処理場の運用方法を調整し、排水に栄養塩を増やしたり、ダムやため池の底にたまった泥から栄養塩を供給したりすることなどが考えられている。

 ただハマチやタイなどの養殖水域で赤潮は発生させられないことから、実施する水域には注意が必要だろう。環境省の計画では、排水の栄養塩濃度の目標値などを決めて、水域に応じた対応をめざすとしている。

ホタルも「少し汚れた水」に棲む

 とはいえ、里海環境を取り戻すのは簡単ではないだろう。里海の衰退は、栄養塩だけの問題ではないからだ。

 たとえば今や堤防もコンクリート製ばかりだ。石垣なら石のすき間が稚魚や貝類などの隠れ家になるが、それも望めない。また砂浜や干潟、藻場の消滅も重大な影響を与えている。近年はマイクロプラスチックで注目された海のゴミ問題も深刻だ。

 また高潮や津波を意識した巨大堤防の建設は、人と海の接触をしづらくしている。なにより漁業人口の減少が里海文化の継承に赤信号を灯している。

 思えば里山も同じ問題を抱えている。農業の近代化を進め、また生活向上で下水道が完備され、畦道や用水路もコンクリートで固めるとホタルが減った。ホタルの幼虫は「少し汚れた水」に棲み、土の中でサナギになるからだ。また昆虫や淡水魚も激減してしまった。

 一方で農林業が衰退する中、新たな土地利用として最近増えているのがメガソーラーだ。山林を削り何十ヘクタールものソーラーパネルを並べるが、そこに、かつての里山環境は望むべくもない。また林業振興の一部としてバイオマス発電所を建設すると、あっと言う間に山ははげ山と化してしまう。再生可能エネルギーという美名に隠れて、環境破壊を進行させているのが実情だ。

 人と自然の共生モデルとされた里山里海ともに危機に瀕しているのだ。人が関与することで、より自然が豊かになるというシステムは、一見すると理想的な「持続的な社会」の見本となる。しかし、それを維持するには「人の関与」の微妙なさじ加減が必要だ。

 果たして「排水を少し汚して放出する」という小手先の手段で、豊かな里海を取り戻すことはできるだろうか。

森林ジャーナリスト

日本唯一にして日本一の森林ジャーナリスト。自然の象徴の「森林」から人間社会を眺めたら新たな視点を得られるのではないか、という思いで活動中。森林、林業、そして山村をメインフィールドにしつつ、農業・水産業など一次産業、自然科学(主に生物系)研究の現場を扱う。自然と人間の交わるところに真の社会が見えてくる。著書に『鹿と日本人 野生との共生1000年の知恵』(築地書館)『絶望の林業』『虚構の森』(新泉社)『獣害列島』(イースト新書)など。Yahoo!ブックストアに『ゴルフ場に自然はあるか? つくられた「里山」の真実』。最新刊は明治の社会を揺り動かした林業界の巨人土倉庄三郎を描いた『山林王』(新泉社)。

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