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形骸化してきた?食育に木育、これでいいのか

田中淳夫森林ジャーナリスト
木育の一環としてマイ箸づくりを体験するイベント

娘から、中学校の給食の話を聞いた。

それによると、どんどん食べる時間が短くなっているそうだ。昼休みは1時間近くあるものの、給食を運び込んで配膳して……さらに片づけの時間を引くと、食べる時間は10分15分しかないのだという。

そして小学校より量は増えているため、時間内に食べきるのは大変らしい。

生徒側から食べる時間を増やしてくれという要望を学校側に出したそうだが、すると昼休みを延ばさないといけなくなり、午後の授業も延び、帰宅時間まで遅くなるからダメと却下されたとか。

その給食の時間に「食育」がある。給食センターの人が来て食育の話をするそうだ。「よく噛んで食べよう」みたいな内容だ。

しかし、そんな話を聞かせるためにさらに食べる時間は縮み、黙って聞かなくてはならないので友人らとおしゃべりもできず、不味い飯を食うことになる。

これでは「食育」にならないだろう。むしろファーストフードそのものだ。早く食べろ、黙って食べろ、食べながら勉強しろ、流し込め……。

本来の食育とは、食に関する知識を学ぶだけでなく、食べることが生活や心に響く点を感じてもらうものではないのか。ゆっくり、楽しく、食べられる喜びを感じられるもの。自らが食べるものの背景にその食材をつくったり手に入れたりする人がいて、作物の育つ環境にまで眼を向けることを伝えるもの。つまりスローフードでなければならない。

このような中学校の話を聞くと、早くも「食育」の形骸化が進んでいると感じた。だいたい大量生産で画一的なメニューの給食が食育になるとは思えない。

食育という概念が登場した時、現在の食の現場がおかしくなっているという思いがあったはずだ。素材を知らず、素材がどこから来るのかも知らず、一人で黙々と食べる社会に危機感を感じたから始まった。

ところが、それを広げる過程で、逆に「食育」というイベントを行うことが至上課題となって、本来の意図の逆になっているのではなかろうか。担当者にとって、食育によって生活が変わることより、食育を行う時間を設けるのが仕事になってしまう。

そんなことを考えていたら、食育に啓発されて誕生し、広がりつつある木育に関しても心配になってきた。

木材を通して木のことを知ってもらおう、ということから始まった木育は、当初こそ林業振興の狙いもあったが、発展する過程でもっと広い情操教育へと拡散していく。そして「人が木と森に寄せる気持ちを育てる」のが木育だと謳い上げた。

だが、現在各地で開かれる木育イベントを覗くと、子供を木のオモチャで遊ばせたら木育と単純化されている。あるいは木の知識や利用法を教えるセミナーになってしまいがちだ。木のオモチャが悪いわけではないし、木の知識を知るのも大切だが、本質と何かズレてきている気がする。

また各自治体や団体が、木育に関するインストラクターやアドバイザー、そしてマイスターといった資格を設けるようになってきた。それが資格ビジネスとなり、「流派」も生まれてきているような……。それぞれ木育の中心人物が定義付けた趣旨や活動内容に縛られて、自分たちの定義に外れる活動に対して牽制するような動きを耳にする。イベントの取り合いも起きる。

そんな状態で、本当に子供たち(だけでなく大人でもいいのだが)は、木育で木が好きになっているか? 森に興味を持ち出したか。そして何より楽しんでいるのか。

社会をよりよくしようと始まった食育や木育。それなのに無理やり行事化したりセクト化が進むようでは、もはや時代遅れだ。原点を見つめ直してほしい。

森林ジャーナリスト

日本唯一にして日本一の森林ジャーナリスト。自然の象徴の「森林」から人間社会を眺めたら新たな視点を得られるのではないか、という思いで活動中。森林、林業、そして山村をメインフィールドにしつつ、農業・水産業など一次産業、自然科学(主に生物系)研究の現場を扱う。自然と人間の交わるところに真の社会が見えてくる。著書に『鹿と日本人 野生との共生1000年の知恵』(築地書館)『絶望の林業』『虚構の森』(新泉社)『獣害列島』(イースト新書)など。Yahoo!ブックストアに『ゴルフ場に自然はあるか? つくられた「里山」の真実』。最新刊は明治の社会を揺り動かした林業界の巨人土倉庄三郎を描いた『山林王』(新泉社)。

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