防災を目的に「山川省」の設立を

2011年の紀伊半島大水害における奈良県天川村の崩落地

また台風が日本列島に近づいている。各地で風水害の心配をしなくてはならないだろう。

まったく、近年は災害が増えた。超大型台風、集中豪雨、竜巻……数十年に一度の大雨が毎年降るなど、異常気象が異常と感じられないほど頻発している。一部では地球温暖化が原因ではないか、と囁かれているが、はっきりとしたことはわからない。ただ覚えきれないほどの災害が起きているのは間違いない。

たとえば2011年と聞けば、誰もが3月の東日本大震災を思い出す。しかし、同年には各地で水害も多発したことを覚えているだろうか。

まず7月に新潟県中越・下越地方と福島県の奥会津に大水害が発生した。そして9月には紀伊半島に台風が直撃し、和歌山県と奈良県、三重県各地に河川氾濫と山崩れが頻発し、人々の生活圏をズタズタにした。実は2010年にも九州北部に豪雨による大水害が起きているし、震災翌年も水害は日本列島各地で頻発した。まさに災害時代を迎えたのだ。

ただ、同じような大水害が頻発した時代があった。幕末から明治初期である。1841年には春から秋にかけて江戸、下総、美濃、北陸、東北と洪水が相次いでいる。とくに利根川の決壊は大きな被害を出した。その後も毎年、どこかで洪水が起きていた。

明治時代では、1889年の奈良県の十津川大水害や1910年の関東大水害などが有名だが、その合間にも水害は大小繰り返し起きていて、毎年膨大な被害を出している。死者数も洪水の規模も、現代より格段に多い。

特徴的なのは、明治の水害は降雨量が多かっただけでなく、当時の山の状態が被害を大きくしたことだ。洪水、山崩れ、土石流……いずれも禿山だらけの結果だった。雨が降れば土砂が流れ出し、川床に土砂が堆積して氾濫が起きやすくなっていたのだ。

だから現代の災害と比べるわけにはいかないが、逆に災害から当時の山と森の状態をうかがうことができる。

東京帝国大学農科大学の志賀泰山教授は、1894年に国土の区分を「森林55%、原野25%、耕地16%」としたが、森林のうち本当に樹木で覆われているのは30%で、残りの70%は禿山である、と記している。この数字を単純に当てはめると、当時の森林率は16,5%になる。現代の中国以下だ。これでは災害も起きやすいだろう。

日本の国土は山と川が不可分であり、どちらも大いに関係し合っている。山が吸い込んだ水が河川を潤す反面、洪水を引き起こす。また川は山を削り、土砂が運ばれ下流に堆積する。だから、護岸や山腹土留め工事、植林などさまざまな方法で土砂崩れや河川の決壊を防がねばならない。

しかし現在、河川は国土交通省管轄で、山林部分は農水省の外局である林野庁。ほとんど同じ目的である土砂・土壌管理の仕事も、国交省では「砂防」と呼び、林野庁では「治山」だ。

そんな災害事情を調べていると、明治時代の奈良県吉野の林業家である土倉庄三郎を思い出した。最盛期、川上村に約9000haの山を持ち、そこから生み出される財力で世の中を変えようとした。山間部に道路をつくり、産業を興すだけでなく、自由民権運動を支え続け、有為の人々を援助し続けた。そこには板垣退助や山県有朋など明治の元勲の名が並び、同志社を設立した新島襄など教育者も多い。

彼は、政府の森林政策にも注文をつけ続けた。明治32年に「林政意見」を出版して、当時の林政を批判し数々の提案をした。その中に「山川省の設立」という項目がある。「河川と山林土木の両政務を合わせて山川省を置き、全国の山林河川の業務を統一する」というものだ。

当時の行政は、河川が内務省土木局で、山林は農商務省山林局だった。こうした縦割りが山村地域の開発や防災を阻害していると指摘した。そして一体的な政策を取るために、新たな省庁を求めたのである。

そういえば土倉庄三郎の故郷である川上村には、戦後、農水省管轄の大迫ダムと国交省管轄の大滝ダムが並ぶように建設された。それぞれ目的は違うことになっている(利水と治水など)が、両官庁が競うように計画された二つのダムで、川上村の中心的集落はダム湖に沈められたのだ。批判に対する倍返しか、と皮肉も言いたくなる。

今再び災害の時代を迎えるとすれば、防災を目的として官庁の再編も考えるべきではなかろうか。