カンボジアの地雷原で芋焼酎ソラークマエができるまで 地雷処理専門家・高山良二さんに聞く

店頭に並んだソラークマエを手に満面の笑みを浮かべる高山さん

1947年愛媛県北宇和郡三間町(現・宇和島市)に生まれた高山良二さんが陸上自衛隊に入隊したのは1966年4月1日。その7月には愛知県豊川市の建設大隊に着任。主に施設科部隊に在籍する。高山さんに転機が訪れたのは1992年、日本の自衛隊初のPKO(国際連合平和維持活動)でカンボジアに派遣された自衛官のひとりとなったことだ。実は高山さん本人がカンボジア入りする予定は当初なかったという。

「(1992年)5月20日、団長から『カンボジアに行くことになった場合、明日の朝までに大隊幹部の名をリストアップせよ』と命じられ、最初は3個中隊300名の小隊長から大隊長までの名前を列挙しました。最終的には600名7個中隊になりましたね」。つまり派遣自衛官の選定が高山さんの任務だった。当時、京都府にある大久保駐屯地第4施設団本部人事担当一等陸尉だった。

しかし「心境としては、みんなに行けと言っておきながら、仲間の首を差し出しておきながら、自分は安全な後方にひっこんでいるわけにはいかないと思った」とカンボジア行を志願。高山さん自身も部隊を指揮することになった。同9月30日には愛知県の小牧基地で壮行会が行われ出発。10月1日にタイのウタパオ米軍基地に到着。84名の隊員とともに10月3日にカンボジアのプノンペンに入り、以降PKOの一環として、翌年4月8日に任を解かれるまで従事した。

瀬戸内海をバックにテレビ朝日の取材に応える高山さん
瀬戸内海をバックにテレビ朝日の取材に応える高山さん

内戦で荒れたカンボジアにて、破壊された道路や橋の整備を担い任務を終えたが、大量の地雷が埋まっている状況を知りながら日本へと帰国した高山さんは「まだやり残したことがある、必ず戻ってこよう」と当時から心に決めていたという。高山さんがカンボジアを去った後だが1993年5月には、国際平和協力隊員として派遣されていた日本の警察官がカンボジア・バンテイメンチェイ州で武装ゲリラの襲撃を受け殺害されるという痛ましい事件も起きている。

高山さんはPKO後も自衛官として勤務。2002年5月9日に退官された。やはりカンボジアでの活動は壮絶な印象を高山さんに残した。それが高山さんを衝き動かした。退官したわずか4日後の13日には松山を発ち、再びカンボジア入り、地雷除去の活動に戻った。

過酷な活動に従事するためだ。国などから正式な許諾を得たものと思われるものの、高山さんは2002年の時点では観光ビザで活動していたという。驚きだ。

地雷除去活動には60人ほどのメンバーが必要とのこと。地雷除去の前に、まずは不発弾を処理するため、3人のチームを2組編成し、活動をスタート。この経験を糧に徐々にメンバーを増やし、世界初となる住民参加による地雷処理活動を開始した。その労苦は、自衛隊で勤め上げた高山さんでさえ2004年に一時、精神疾患と診断され、帰国を余儀なくされるほどだった。

帰国中の2005年、同じく愛媛県出身の塩崎恭久外務副大臣に掛け合い、外務省に活動を認めさせる。2006年、カンボジアに戻ると、「日本地雷処理を支援する会(JMAS)」に参加、理事を務めた。 激戦区だったタイとの国境に近いバッタンバン州カムリエン郡タサエン地区が活動拠点だ。体制を整えた高山さんは6月から地雷除去の活動を軌道に載せた。しかし2007年1月19日には、作業中に7名が死亡する事故が発生。またも活動は暗礁に乗り上げた。

それでも高山さんは立ち止まらない。2008年に再編成。以降は日本語学校設立、日本企業誘致など、さらに精力的に活動範囲を広げる。高山さんのこうした活動が功を奏し、地雷による事故は昨年、2件までに減った。その中には農作業中、トラクターが地雷を踏み、運転手が死亡する事故も含まれている。これを「ゼロ」にするのが高山さんの目標だ。

平和を取り戻したかに見える同村は、産業も乏しく貧しい。キャッサバ芋を作り、1キロほど向こうのタイまで、がたがたの道を行き来し輸出しているが、それが二束三文。「このままではいつまで経っても村は豊かにならない。もっと高い値段で芋を売らないと」と掛け合うものの、まったく成果が出ない。それなら芋に付加価値をつけなければ…。「そうだ、芋焼酎だ!」と閃いた。

「もうとにかく芋をお酒にして売る…それ以外、何も思いつきませんでした」と高山さんは明るく笑う。高山さんは元自衛官、酒作りに尽力したことはない。いちから勉強し、蒸留器も手作り。2年ほど試行錯誤のあげく、試作品を持って愛媛に帰った。地元・愛媛の名士、桜うづまき酒造篠原成行会長(日本酒造組合中央会)に差し出すと「酒とは呼べないな…」との言葉。篠原会長は「高山さん、麹を持って行きなさい」と米麹を贈られ、これが起死回生となった。再度焼酎を試作し、会長に持ち帰ると「これならいける」とお墨付きを頂いた。

2012年、こうして生まれた焼酎1200本を日本に輸入しようとしたところ、実はキャッサバ芋特有のシアン化合物が基準値よりも高く、そのままカンボジアに送り返すはめに。「破棄するか、カンボジアに持ち帰るか…と言い渡された時の情けなさと来たら」と当時の心境を吐露する。高山さんはその後この問題を、赤米を使用することで解決。よって今回、日本で売り出された焼酎ソラークマエは、ホワイト・リカーではなく、ブランデーのような色合いのついたひと品となった。

この間、焼酎つくりについて、高山さんの次男に事業を託した「クマエ酒造」は倒産。その道のりは決して平たんではなかった。仕事仲間のカンボジア人をトップにすえ「クマエ蒸留」という新会社により、やっと今回の焼酎が陽の目を見た。前回の経験があるだけに、5月末に税関を通過するまで、気が気でなかった。

ソラークマエの出荷を祝うタサエン地区オ・アンロック村 右端が高山さん(IMCCD提供)
ソラークマエの出荷を祝うタサエン地区オ・アンロック村 右端が高山さん(IMCCD提供)

高山さんも心筋梗塞を患い「オレの葬式にあいつは来てくれんかもしれんなぁ」と奥さんに次男の愚痴をこぼすことも。最近は特に筋トレなどをすることもなく「(地雷に火をつけ、走って)逃げるのが最近、しんどいです」と笑う。自らを「フーテン」と揶揄する高山さんだが、その行動力を目の当たりにし、これほどまでに手を差し伸べる方が多い点にひどく納得してしまう。

カンボジアの地雷原から生まれた焼酎ソラークマエの売り上げは、高山さんが理事長を務める認定NPO 法人 国際地雷処理・地域復興支援の会(IMCCD)の活動費用となる。日本にいる我々にとって地雷撤去に従事するのはあまりにも難しいが、焼酎を呑むことで支援できるなら、大いに呑んでみようじゃないか。さて、こうして出来上がったソラークマエ、バーのマスターに持って行って、どんなカクテルに仕上げると愉快なのか相談してみることにしよう。

ソラークマエ販売ページ