日本の殿堂など当たり前、野茂英雄の米国野球殿堂入りと「背番号11」の永久欠番を!

野茂英雄氏が17日、日本球界において野球殿堂入りを果たした。資格取得者の一年目での殿堂入りは、ビクトル・スタルヒン、王貞治両氏(ともに元巨人)に次いで三人目、1965年に45歳8カ月で殿堂入りを果たした故・川上哲治氏を抜き45歳4カ月、最年少での輝かしい受賞となった。

しかし、野茂を日本野球界のスケールで図ることは、無意味であることを多くのファンが知っている。今でこそ、メジャーリーグへの道を切り開いた「パイオニア」としての名誉を得ているものの、野茂がメジャーデビューを果たすまでの「いざこざ」は、現在までにも残る日本野球界の後進性が露呈した顛末でもあった。

今の若い世代の記憶にはないと思われるので、野茂のキャリアを若干、おさらいしておく。大阪府立成城工業高等学校から新日鉄堺へ進んだ野茂は、アマ球界で才能が開花。独特のフォーム・トルネード投法(他にこんなフォームを見たこともないもんね)から繰り出される剛球と大きなフォークで新日鉄堺を都市対抗野球制覇へと導き、当時プロ不参加だった五輪でも日本代表のエースとして88年のソウルで銀メダルを獲得した(なお、プロ参加が許された後、日本代表はこれ以上のメダルを獲得していない)。

89年のドラフト会議では史上最多となる8球団からの指名を受け、当時の近鉄バッファローズに入団。90年のデビューから4年連続で最多勝、最多奪三振を獲得するなど、目覚ましい活躍を見せる。当時、筆者が所属していた雑誌の編集長が近鉄ファンだったせいで、この頃の野茂の活躍は逐一、耳に入ったものだ。

しかし、理解者である仰木彬監督から鈴木啓示監督へと変わると、調整法、あの豪快なフォームの修正などを巡って確執が生まれ、右肩痛などもあり94年は、わずか8勝に終わった。このオフ、複数年契約と代理人による契約交渉を主張した結果、球団との契約合意に至らず、任意引退選手扱いとなった。複数年契約など日本球界でも当たり前になったが、当時は選手がそんなことを主張するのは「生意気」だったのだ。

この時、日本野球機構との会話から「海外球団との契約には問題ない」との言質を取り付け(現在は、海外球団との契約も不可)、ロサンゼルス・ドジャーズとマイナー契約にこぎつけた。年棒1億4000万円を捨て、わずか980万円からのスタートだった。

94年、メジャーリーグは史上最低のシーズンを送っていた。サラリーキャップを巡る選手の労使交渉問題決裂により、同年8月12日よりMLBの選手会はストライキに突入。世界大戦などの緊急時を除き、唯一ワールドシリーズが開催されなかったシーズンとしてMLB史に汚点を残した。アメリカ在住だった筆者は、日本シリーズで槙原寛己投手が完投、巨人が日本一となったシーンが「今年のワールドシリーズ」としてアメリカのTV局でオンエアされた事実を鮮明に記憶している。MLB選手会の労使交渉についても、多くのアメリカ人が「所詮、金持ち同士のいがみ合い」と切り捨て、アメリカでの野球人気は凋落した。

「スポーツ・イラストレーテッド」1995年7月10日号
「スポーツ・イラストレーテッド」1995年7月10日号

95年のメジャーリーグ開幕もその余波で4月25日にずれ込む。そんな凍ったメジャーの空気を変えたのが野茂だった。掲載写真にあるよう「スポーツ・イラストレーテッド」誌は、表紙に野茂をすえ「野球の何が良いのか?」と特集、「新人エース野茂英雄は、そのひとつの理由だ」としている。日本のスポーツ選手が同誌の表紙を飾ったのも、これが初めてのことだった。

5月1日にメジャー昇格し、先発。勝敗こそつかなかったものの、バリー・ボンズ、マッド・ウィリアムスらが揃ったサンフランシスコ・ジャイアンツを相手に五回、被安打1、7奪三振の無失点に抑え、トミー・ラソーダ監督から絶賛を受けた。筆者も同月、ニューヨークのシェイ・スタジアムで野茂の雄姿を目の当たりにした。「日本人はメジャーで通用するのか」と全米各紙でも議論が繰り広げられていたが、前半だけで6勝1敗2完封を挙げ、オールスターに選出。シアトル・マリナーズのランディ・ジョンソンを相手にナショナル・リーグの先発投手として投げ合いを実現しただけでも、当時の野茂の衝撃が理解できるだろう。当該シーズン、野茂はアトランタ・ブレーブスのチッパー・ジョーンズを抑えての新人王獲得。日本人通用是非論などは、すべて風化した。

以降、二度の奪三振王獲得、7度の二桁勝利、両リーグでのノーヒットノーラン達成などなど、目が飛び出るような契約金額でMLBデビューする日本人投手が目に付くようになったが、まさにパイオニアとして未だに誰も追いつくことができない足跡を残した。

そんな野茂だが1月10日行われた米国野球殿堂入りの投票では、300勝が目安と言われるメジャーにおいて米通算123勝と見劣りすることからか、わずか6票の得票数、1.1%の得票率に終わり、殿堂入りが適わなかったどころか、5%の得票率も満たさなかったことから、来年度以降の野球殿堂選考対象者からも外れてしまった。これにはラソーダ元監督も「野茂はメジャーへの道を切り開いた。日本のジャッキー・ロビンソン」とコメントしている。

今後、野茂がアメリカの野球殿堂入りを果たすには「ベテランズ委員会」という常にメンバーも規定も変革する立場の微妙な委員会により、野球功労者として選出される以外の道がなくなった。

野茂がいなければ、大魔神もイチローも松井秀喜も上原浩治もいなかったかもしれない世界を想像すると、ラソーダ氏の語るよう、黒人初のメジャー・リーガー、ジャッキー・ロビンソン並みのステータスを確立し、なんとか殿堂への道を残したい。

日本野球界が野茂によるロビンソン級の功績を形に表すには、メジャーリーグ全30球団がロビンソンの背番号42を永久欠番にしているよう、プロ野球全12球団も野茂の近鉄時代の背番号11を永久欠番に認定し、しかるべきだろう。日本のコミッショナーが、MLBのコミッショナーに働きかけると同時に、日本ではロビンソンと同様に神格化された選手であることをアピールするためである。

まぁ、もっとも選手にメジャーに逃げられては困る日本球界に、そんな懐の深さなどありえるはずもないか…。

野茂は、日本球界最高の名誉である野球殿堂入りの表彰式を、NOMOベースボールクラブが主催する兵庫県豊岡市で開催された少年野球大会を理由に欠席している。こんな男、ちょっといない。凄い男だよなぁ。

野茂本人は、日米の殿堂入りなどよりも、それこそNOMOベースボールクラブへの支援を望んでいるやもしれん。

数年前、ニュージャージーに位置するMLBの映像制作会社を訪れた時のこと、ライブラリー見学の際に野茂の二度のノーヒットノーランの映像テープを手にしたことがある。どちらも権利処理さえクリアすれば、日本でDVD化することは可能だと聞いた。殿堂入りを機に、誰か権利処理を施し、野茂の雄姿をすべて日本にもたらしてくれはしないものだろうか。

それにしても、野茂がアメリカの野球殿堂入りを逃したことは、やはり日本球界にとって損失だ。