事の発端は、マーク・ラムザイヤー教授(ハーバード大学)の「太平洋戦争における性の契約(Contracting for sex in the Pacific War)」というタイトルの論文。昨年12月1日に『International Review of Law and Economics』誌のオンライン版に掲載された。人身売買や児童買春なども”自発的な契約”であると主張し、太平洋戦争中の”慰安婦”も自発的であったと主張したいがために、ゲーム理論の名を借りたラムザイヤー論文に、多くの経済学者が強い懸念と違和感(あるいは怒り)を示している。

カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)政治学部の学部長マイケル・チェ教授が起草した経済学者による声明には、2月24日時点で、919名の賛同が集まっている。公開された賛同者リストをみると著名な経済学者たちも名を連ねていることがわかる。起草者のチェ教授自身もゲーム理論を専門とする経済学博士だ。ミクロ経済学の分野であれば、例えば、David Austen-Smith(ノースウエスタン), Lawrence Blume(コーネル), Patrick Bolton(コロンビア), Vincent P Crawford(UCSD), Janet Currie(プリンストン), Drew Fudenberg(MIT), Itzhak Gilboa(テルアビブ大), Jerry R.Green(ハーバード), Vijay Krishna(ペンシルベニア州立), Larry Samuelson(イェール), Steve Tadelis(UCバークレー), Leeat Yariv(プリンストン)などなどのおなじみの諸先生。919名なので、経済学に明るい読者のみなさんはご自身でも知っている名前を探してみてください。

声明は、ラムゼイヤー論文の問題として次の5点をあげている。

1.証拠を提示することもないまま、当時の慰安婦のおかれた状況を"契約問題"として切り取る点(論文中には当時の日韓の売春婦の給与などの事例は紹介されているものの、それを戦地の慰安婦の状況に当てはめることはできないし、慰安婦が結んだ契約の存在を裏付ける資料もないとのこと)。2.女性たちが合意したという想定(10歳で売春宿に売られた女の子の事例が紹介され、自発的な契約の前提となる”合意”について慎重になるべしとのこと)。3.女性たちがいつでも自分の意思で慰安所を離れることができたし、給与ももらっていたという仮定。4.軍隊や政府の関与を認めていないこと。5.経済学、ゲーム理論、法と経済学を使った点。

各々について、声明には補足説明があるので、異なる見解の人はまず声明や元の論文を読んでいただければと思う。ラムザイヤー自身は論文のなかで「[慰安婦たちが結んだ自発的な]契約そのものは、"信用できるコミットメント"というゲーム理論の基本的原則から導かれるものだ」と書いている。だが、ゲーム理論を使ったといいながら法と経済学の学術誌に載せているのに、論文には数式やxyなどの変数は一切登場しない。関連事象が断片的に並べられているだけともいえる。そして対象は、戦時の性暴力や児童買春・人身売買も含む、非常にデリケートなもの。

 ゲーム理論家や経済学者が抗議するのも無理はなかろう。筆者も賛同者に名を連ねた。