伊勢湾台風から60年 被災者を治療した看護師の証言と病院で受け継がれる教訓

名古屋掖済会(えきさいかい)病院に残る伊勢湾台風被災時の写真(吉田尚弘撮影)

東海地方を中心に5000人以上の犠牲者を出した戦後最大級の災害、1959年の伊勢湾台風の発生から9月26日で丸60年を迎えます。

千葉県での台風や昨夏の西日本豪雨、そして巨大な津波被害が心配される南海トラフ地震など、伊勢湾台風をあらためて教訓にすべき時代です。特に昨今、命の最前線の現場としてクローズアップされるのが「病院」。名古屋市の病院で被災者の治療に当たった看護師らの証言から、当時の被害の大きさとこれからの防災について考えます。

瓦が飛び、ガラスは粉々、停電の病棟内はパニックに

笹田幸枝さん(79)は60年前、出身地の長崎県の看護学校を卒業し、初の勤務地として名古屋市中川区の名古屋掖済会(えきさいかい)病院に赴任しました。

名古屋掖済会病院で、伊勢湾台風の様子を証言する笹田幸枝さん(吉田尚弘撮影)
名古屋掖済会病院で、伊勢湾台風の様子を証言する笹田幸枝さん(吉田尚弘撮影)

掖済会病院は海運関係者の福利厚生を目的に、明治時代から全国の主要港湾近くに整備されていました。「掖」はたすける、「済」は救うなどの意味です。名古屋では戦後まもなくの1946年、名古屋港から内陸に3キロほどの現在地で開業しました。

笹田さんが赴任した当時、病院の周りは一面の水田。食堂も商店もなく、ニワトリ小屋が点々とある程度でした。「すごいところに来てしまった」と思いながら、病院の本館と道を挟んで向かい側にある寮(寄宿舎)に住み込み、看護師として働き始めました。

1959(昭和34)年9月26日。「きょうは台風が来る」という話は、朝から笹田さんも耳にしていました。実際に昼間から風雨が強くなり、「きょうは早めに帰っていい」との指示が。笹田さんは寮に帰り、風呂に入るなどしていました。

しかし午後6時ごろ、風はゴオゴオと聞いたこともない音を立てて激しくなります。そして「ガシャーン!」とものすごい轟音が。向かいの病棟のスレート瓦が飛ばされ、寮のガラスを突き破ったようでした。

病院も非常事態となり、医師や看護師は「全員出勤」に。笹田さんも再び白衣に着替え、強風に耐えながら道を渡って本館へたどり着きます。すると、すでにけがをした住民が続々と病院に押し寄せていました。1階で応急手当などに当たり、2階は治療した患者の待機場所として開放、同時にカルテなどの書類や薬品類も上階に運ぶなど、てんやわんやの状況でした。

午後8時ごろ、消防団から「庄内川の堤防が切れた!」と連絡が。間もなく玄関から水がどっと病院内へ入ってきます。1階にいた笹田さんも、すぐにひざまで水に浸かってしまいました。

それでも、患者は次から次にやって来ます。割れたガラスで手を切ったり、倒壊した柱に挟まれたりと訴えて。しかし病院内はすでに停電し、笹田さんは懐中電灯で患部を照らしながら、医師たちとともに患者の治療に当たりました。

10時過ぎ、風雨は収まりましたが、水かさは真夜中の満潮時刻に向けてどんどん増していきます。歩ける患者は2階に上げ、重症患者はベッドごと廊下に出して別室に移したり、ストレッチャーで運び上げようとしたり。しかし、全員は間に合いません。ついに真夜中の満潮時刻。水は患者が横たわるベッドのすぐ下まで来ました。しかしギリギリのところでとどまり、笹田さんは安堵したそうです。

引いては増す泥水、ボートの巡回診療も

こうして院内で朝を迎え、笹田さんは朝5時過ぎ、いったん寮に戻りました。雲はなくなり、陽が差し始めていましたが、白衣はびしょ濡れで「寒くて仕方がなかった」そうです。寮は鉄筋コンクリート造で頑丈だったため、避難者が大勢、駆け込んでいました。身を寄せ合って階段や廊下に座り込む避難者の横を申し訳ない気持ちで通り、笹田さんは2階の自室に戻って束の間の休息を取ります。

笹田さんが住んでいた寮の屋上から撮影した写真。向かいの本館へ行くのに船や材木をつなげた橋を渡らなければならなかった(吉田尚弘撮影)
笹田さんが住んでいた寮の屋上から撮影した写真。向かいの本館へ行くのに船や材木をつなげた橋を渡らなければならなかった(吉田尚弘撮影)

再び本館に出勤したころ、腰まであった水は太ももあたりまでは引いていました。しかし、当時は下水処理も完全ではなかったので、真っ黒な泥水にさまざまなごみや油が浮いていました。養鶏場のニワトリの死骸もあちこちに漂い、イカダで回収する人たちの姿がありました。

幸いだったのは、薬品類がほとんど浸からず、治療や消毒はそれなりにできたことです。食堂も水浸しでしたが、電気やガスは比較的早く復旧し、備蓄の食料で病院食は調理できました。ただし、笹田さんたち看護師はパンと牛乳だけの食事がしばらく続いたそうです。

さらにこたえたのは、潮の満ち引き。

「昨日よりちょっと水が引いたと思ったら、また満ち潮が来て水浸し。せっかくきれいにした屋内に、また泥水が。そんなことの繰り返し。いつになったら水が引くんだろうと、途方に暮れました」と笹田さん。本館と寮の間は板を渡したり、手製のイカダで移動したりする日々が続きました。

ボートが調達できるようになると、ベテランの医師や看護師は「救護班」として周辺を巡回。病院に来られない患者を診察して回りました。その場で臨機応変に対応しなければならないため、新人の笹田さんは担当しませんでしたが、先輩たちがボートに乗り込んで診療に向かう頼もしい姿は、まぶたの裏に焼き付いています。

当時の写真を見てさまざまな感慨を抱く笹田さん(吉田尚弘撮影)
当時の写真を見てさまざまな感慨を抱く笹田さん(吉田尚弘撮影)

ボートの漕ぎ手は、名古屋大学の学生たちが引き受けていたようです。当時はまだ一般的な言葉ではなかった「ボランティア」だったのでしょう。一方で、消防や自衛隊などを見かけた覚えはありません。自分たちで助け合うしかありませんでした。

ようやく水が引いたのは約2週間後。泥と油まみれの床を拭き、板が浮き上がった廊下を直しながらの再出発でしたが、診療態勢は徐々に元通りになっていきました。

「患者に大きな事故を出すようなことはなかった」のが笹田さんの誇りです。

しかし、最大瞬間風速45.7メートル/秒という暴風、4メートル近くに達した高潮は、強度が不十分だった港の堤防を破壊し、貯木場の流木を巻き込んで海抜ゼロメートル地帯の町を襲いました。掖済会病院より湾岸の南区で1471人の犠牲者が発生したのをはじめ、愛知、岐阜、三重を中心に全国で死者・行方不明者5098人、全壊・流出家屋4万838棟という被害をもたらしたのです。

ボートで巡回診療したり、浸水した台所で病院食をつくったりしている被災時の写真。左上の腰まで水に浸かっている男性は当時の太田元次院長だという(吉田尚弘撮影)
ボートで巡回診療したり、浸水した台所で病院食をつくったりしている被災時の写真。左上の腰まで水に浸かっている男性は当時の太田元次院長だという(吉田尚弘撮影)
60年前に本館のあった敷地は駐車場に。現在の本館(外来棟)は奥。当時、院長が腰まで浸かっていた辺りで笹田さんに立ってもらった(吉田尚弘撮影)
60年前に本館のあった敷地は駐車場に。現在の本館(外来棟)は奥。当時、院長が腰まで浸かっていた辺りで笹田さんに立ってもらった(吉田尚弘撮影)

笹田さんはその後、同病院で副看護部長まで経験し、2002年に退職しました。メディアの取材で話す機会はほとんどなかったそうですが、60年前の大災害は「忘れようとしても忘れられない」と胸の内にしまっていました。

教訓として「災害を甘く見ないこと。大したことないなんて思っちゃダメ。そして情報を組織の縦・横できちんと共有して、一丸となって対応すること」と強調しました。

教訓受けて対策強化、南海トラフに向けさらに一歩

伊勢湾台風での被災以来、同病院は東海エリアの中でも特に防災や災害医療に力を入れていきます。1978年に東海地方第1号の救命救急センターを開設。1996年には愛知県から災害拠点病院の指定を受けています。

エアストレッチャーによる患者の搬送訓練(名古屋掖済会病院提供)
エアストレッチャーによる患者の搬送訓練(名古屋掖済会病院提供)

24時間の緊急対応や災害発生時に被災した傷病者の受け入れ、DMAT(災害派遣医療チーム)などの態勢づくりをして、東日本大震災でも医師・看護師を宮城県や福島県に派遣しました。

3年前に完成した新病棟の屋上には、大型防災ヘリが離発着できるヘリポートと非常用電源を設置。602床の病室すべてのベッド脇にある可動の棚(床頭台)や病棟の精密医療機器など計1,000カ所ほどは地震の揺れに備えて固定し、各階の倉庫に食料や水、簡易トイレなどを備えています。患者を階上に引き上げるためのエアストレッチャーも8台ほど配備。津波や高潮で浸水するまでの職員の避難や動きを定めた初動マニュアル、浸水後の機能継続のためのBCP(事業継続計画)も策定するなどして、日ごろから訓練を繰り返しています。

病院の名前と「液状化」を引っ掛け、地域の施設同士で「液状会」というユニークな組織もつくっています。弱みを逆手に取って危機感を持ち、みんなで対策を進めようという前向きな発想です。

病棟屋上に設置された非常用電源。左の青い病院着の男性が北川喜己副院長(筆者撮影)
病棟屋上に設置された非常用電源。左の青い病院着の男性が北川喜己副院長(筆者撮影)
屋上のヘリポート。全国各地から防災関係者の視察も受け入れている(筆者撮影)
屋上のヘリポート。全国各地から防災関係者の視察も受け入れている(筆者撮影)

昨年の西日本豪雨では、岡山県倉敷市真備町の病院が孤立しました。今年8月末の九州北部豪雨では、佐賀県大町町の病院が浸水によって長期に孤立。現在も影響の続く千葉県の停電でも、病院や医療機関にこれまで以上の備えが必要なことを突き付けています。

病棟の各階に備えられた水や食料、簡易トイレ(筆者撮影)
病棟の各階に備えられた水や食料、簡易トイレ(筆者撮影)

北川喜己副院長は「昨今の災害の情報も踏まえながら、毎月開いている防災・災害対策委員会を中心にマニュアルやBCPの見直しを進めています。ボートなどさらに必要となる備品や食料についても内容の見直しの検討を予定しています」と話します。

地元で掖済会病院の取り組みをよく知る名古屋大学減災連携研究センター長の福和伸夫教授も「病院は命を守る最後の砦(とりで)。しかし、医療に不可欠なのは電気、水、燃料や酸素。どれが途切れても病院はまさに修羅場と化す」として、南海トラフ地震に向けてインフラを含めた二重、三重の備えについて一層の点検をすべきだとします。

大雨の影響で孤立した佐賀県大町町の順天堂病院。自衛隊のボートが物資を運んでいた=2019年8月29日(写真:毎日新聞社/アフロ)
大雨の影響で孤立した佐賀県大町町の順天堂病院。自衛隊のボートが物資を運んでいた=2019年8月29日(写真:毎日新聞社/アフロ)

市もネットワーク整備、課題検証して備えを

ここで名古屋市と医療機関の連携についても見てみましょう。市の地域防災計画では病院や医療機関の役割も位置付け、災害時は市役所内に災害対策本部が立ち上がると同時に、保健所長をトップとした「地域災害医療対策会議」を設置。医師会や地域災害医療コーディネーターなどと緊密に連携を取り、被災者の救護に当たる計画です。

現場では災害時、110校の市立中学校に市医師会による医療救護所が設けられ、応急手当とトリアージが行われます。軽症の患者は地域の医療機関へ、中等症の患者は市内17カ所の災害協力病院に、そして重症患者は掖済会病院など市内11カ所の災害拠点病院に搬送されるといった態勢です。

各拠点にはデジタル防災無線や衛星電話などが順次、配備されつつあります。しかし、場所によっては非常用電源などが十分なく、電気が来なければ連絡が取れない可能性も。浸水で孤立した病院では、人の出入りも阻まれるでしょう。港地区が集中的に被災した場合は、内陸の病院に患者を移送しなければなりません。名古屋市内は医療機関の数が多いとはいえ、実際にどの病院からどの病院へ移すかまでのシミュレーションはまだできていないようです。

港区役所の玄関に掲げられている「津波避難ビル」の表示シール。同区内だけで約300カ所の指定ビルに順次張り出されている(筆者撮影)
港区役所の玄関に掲げられている「津波避難ビル」の表示シール。同区内だけで約300カ所の指定ビルに順次張り出されている(筆者撮影)

市健康福祉局保健医療課の担当者は「マニュアルをしっかりと整備したうえで、想定以上のことが起こってもすみやかに対応できるよう、日ごろから顔の見えるネットワークをつくっていきたい」と話します。

国の災害対策基本法は、伊勢湾台風の被害をきっかけにできました。名古屋港では同じような高潮に備えて、高く頑丈な堤防を建設。臨海部での住宅の建築は、区域ごとに木造を禁止したり、2階建て以上に居室を設けたりするよう条例で定めるなどの対策も。東日本大震災の教訓から、津波避難ビルの指定やハザードマップの見直しと配布も進んでいます。しかし、自然は人間の想定をやすやすと上回ることを、過去の災害が教えています。

まずは自分たちで最大限に備え、持ちこたえ、助け合う。60年という節目に、あらためて何が必要かを見直してみたいものです。

名古屋港の展望施設からの眺望。右奥は名古屋駅前の高層ビル群。左側の観覧車との間の奥に、掖済会病院が立地する(筆者撮影)
名古屋港の展望施設からの眺望。右奥は名古屋駅前の高層ビル群。左側の観覧車との間の奥に、掖済会病院が立地する(筆者撮影)

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