議事録から臭い立つ、「道徳」の教科化を目論む文科省のホンネ

「あなたが落としたのは、金のオノ?それとも銀のオノ?」への答えが成績に

文部科学省の「道徳教育の充実に関する懇談会」が、小中学校での「道徳」の授業を2015年度から教科化する検討に入った。現在は正式な教科としてではなく「道徳の時間」として週1回ほど授業枠が設けられているが、これが教科化されると、「記述式で取り組み状況を評価する」(産經新聞・12日)ことになるという。算数のテストで「2+3」を「8」と答えたら間違いだが、こういった数式と同様のアプローチで(ひとつの答えは出ないとはいえ)、心の持ちように評価軸が設定されることになる。

つまり、「あなたが落としたのは、金のオノ? それとも銀のオノ?」という問いに正解が用意される。「私が落としたのは、そんなに立派なオノではありません」と正直に答えるのがイソップ童話に準じて正答とされるのだろうが、でも本来は、必死に嘘をついて「はい、落としたのは金のオノです!」と言い張ってもいいのだし、「オノと一緒に腕時計も落としたんです」とひとまず言ってみるのもいいし、「そんなことより一緒にお昼ご飯を食べにいきませんか、近くに美味しいパスタ屋が」と誘う選択肢があったっていい。

柔軟性が落ちてきた大人の頭で振り絞ってみたが、小中学生の頭ん中はこんなもんじゃなく、もっと自由に飛翔する。そこに向かって、「これが正しいのではないか」と答えを提示してみるだけならばいい、しかし、正答を絞り込んでセンターにおき、そこからの距離で「正解」「今ひとつ」「うーんそれはいかがなものか」と評価を下していくのは明らかに誤りだ。

「国」が「個人」を規定する危うさが連なる昨今

「特定の価値観の教え込みにつながる」(毎日・11日夕刊)、「報告案の実現には問題が多い」(朝日・12日)、「国が画一的な価値観を植え付けることは危うい。撤回するべきだ。」(沖縄タイムス・12日)との懸念が並ぶ。産經新聞(12日)は、教科化された場合、「政治的、宗教的に自分たちの主義主張を並べた教科書でも合格する可能性がある」との文科省幹部のコメントを載せ、来年度に改訂される「心のノート」の充実に期待感を示しているが、教科化自体にはひとまず慎重な姿勢を崩していない。道徳が評価される、この危うさはさすがに各紙面で共有されている。

なんだか最近、こんなことばかり書いている。つまり、「国」が「個人」のあるべき姿を規定する危うさについて。ここで書いたように国公立大学の入試では「人物評価」導入が検討され、ここで書いたように、婚外子裁判違憲判決を受けて、伝統的な『夫婦』や『家族』が崩壊すると猛反発した自民党の保守議員からは「ちゃんとした家庭で、ちゃんとした子どもを作ることによって、ちゃんとした日本人が出来てですね、国力も増えるんですよ」(自民党・西田昌司副幹事長)というような非道な発言がこぼれてくる。無論、特定機密保護法案も然り。国を運営する側から、人間の在り方を規定する取り組みや発想が極めて短期間に次々と発せられていることが薄気味悪い。

なぜ道徳を教科化する必要があるのか。「歴史的経緯に影響され、道徳教育そのものを忌避しがちな風潮がある」(産経・12日)からだと言う。とにかく多忙な教師は、教科ではない道徳の授業について丁寧にプランニングすることが難しかった。「道徳」が教科化すれば、生徒に評価を下さなければならない。半ば強制的に、道徳についての指導プランを練らなければいけなくなる。とはいえ、余裕は無い。更に余裕がなくなるのだから、そこに用意された道徳教材の方向性に準じた教育を黙々と行なわざるを得なくなる。冒頭の例え話に唐突に戻るならば、金と銀のオノを出されたら「どちらでもない、と素直に答えましょうね」と教え込むのだ。

「修身科や教育勅語も含めて戦前的なもの」を意識?

道徳の教科化を狙う「道徳教育の充実に関する懇談会」の議事録(これまでの主な意見[1~3+前回(第7回)の主な意見])を通読すれば、画策されている「道徳教育」とやらが、いかに不安定なものかが露呈する。委員から出た意見を箇条書きにした「これまでの主な意見」(発言者は特定されていない)から、恣意的に引っ張り出せばと前置きしつつ、いくつか拾い上げてみる。道徳教科化の報を受けて、苦い歴史を背負ってきた沖縄の琉球新報は12日の社説で「道徳教科化 皇民化教育の再来を危ぶむ」と厳しく吠えた。議事録を振り返りこんな発言を見つければ、この琉球新報の懸念は決して大げさではないと気付く。こうある。

「戦後、道徳教育が政治マター化したことによって、修身科や教育勅語も含めて戦前的なものがすべてタブー視され、断絶が起こった。そのために道徳教育に関する理論的な研究が貧困なものとなり、そのことが教員養成や研修、実践、指導法、それを全部総括する意味での政策評価の分野にまで及ぶ機能不全を招いている。道徳の「教科化」によって道徳教育の学問的な体系を構築する必要がある。」

理想の道徳教育は「戦前的なもの」にあり、ゆくゆくの「教科化」はそこを目指すべき、とも読める。いや、これだけではこちらの曲解かもしれない。しかし、揺り戻しは、こんな記載からも漂う。

「善悪の判断基準は、宗教上のものの考え方や日本古来の伝統行事の意味するところあたりから身についていくのではないか。日本古来の伝統行事について、きちんと子供にも教え、また親にも教えていくのが日本らしい道徳教育の在り方ではないか。」

善悪の判断基準を述べたと思ったら、いつの間にか道徳教育の「日本らしさ」に行き着いている。更に、

「学習者の学習過程をポートフォリオとして記録と保存を図り、それらを日本人としての国民性、時代性、人間性の記録資料の社会資本としてとらえるべき」

「道徳教育を学校でも家庭でも重視するのは、人間としての品性を高めて、品性の高い人たちの集まりの国を作るためである。」

というような意見を重ねてみると、道徳教育の教科化で主眼に置かれるのは生徒個人の在り方ではなく、「日本」或いは「国」の在り方ではないか、と思わざるを得ない。彼らの考え方は、「○○を考えることで○○な子どもたちが育つ」ではなくて、「子どもたちに○○を教えれば○○な日本になる」なのだ。

免許を持っていないのに、新車を予約しに行くようなものだ

もちろん、最初に断ったように、ズラッと並んだ意見から恣意的に抽出しているにすぎず、意見の中には生徒の多様性を重視すべき、との指摘も多い。しかし、人の心をジャッジしようとする試みがこうして豪快に執り行われようとする今、その狙いを隅々までほじくり返してみる必要があるだろう。「具体的な評価観点は示されておらず何をどう評価するのかはまだ不透明」(朝日・12日)なのにもかかわらず、評価すること自体は是非とも導入したい、とする。これでは、免許を持っていないのに、新車を予約しに行くようなものだ。つまり、順番が間違っている。子どもたちをどのような観点で評価するのかを精査してから、教科化を打ち出すべきではないのか。それをせずに、とにもかくにも教科にしたい、と急ぐ姿を見つけると、やはりそこからは、個々人の在り方を無視した一方通行のあくどさが臭い立ってきてしまう。