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富士通の営業マンからB1のスターターへ。石井講祐の生き様はコツコツと目標達成してきたことの積み重ね

青木崇Basketball Writer
今季はシューターの役割だけでなく得点機会のクリエイトでも貢献している石井(写真:森田直樹/アフロスポーツ)

「小さい時から失敗とか負けて帰ってきた時に、結構両親はそれを許さないような人だった」という家庭環境で育ったこともあって、石井講祐は自分で簡単にあきらめるような人間にならなかった。それは、非常に長い道のりを経て千葉ジェッツのプロ選手になったことが証明している。

 船橋中に入学した当時、石井の身長は150cmくらいしかなかった。バスケットボール選手としては小さかったものの、父親が180cmを超えていたことから、同じくらいになるという楽観的な思いはあったという。1年で10cm以上など、着実に身長が伸びた石井は、3年生でインターハイに出ることを目標に地元の公立高である八千代に進学する。

 チームがインターハイとウィンターカップでベスト16まで勝ち上がった2年生の時にプレーする機会が少しずつ増え、3年生になるとスコアラーとしてチームを牽引する選手へと成長していく。「八千代自体もオフェンス重視というか、シュートをどんどん打っていくような感じだったので、100点取られたら101点取って勝つスタイル」と振り返ったように、地元千葉開催のインターハイに出場すると、1回戦で佐賀北を84対74で破り、2回戦で桜宮を109対80で撃破。3回戦で能代工に101対117で敗れたといえ、石井は45点を奪う大活躍だった。

 石井が八千代を受験する前、チームを率いる中嶽誠コーチが近々転任するという憶測も出ていたため、千葉県の選抜選手だった同級生たちの多くは市立船橋に入学していた。しかし、石井が「僕らの代の3年生は県選抜が一人もいなかった。ちょうど先生が変わるかもしれない、最後までいないかもという話があったので、あまり選手が集まらなかった代なんです。八千代は弱くなるという周りの声じゃないですけど、そういったことを全部跳ね除けて成績を残せたのは、結構僕らの代としてすごく誇りに思っています。先生は僕らの代で終わったので、ある意味賭けに勝った感じですね」と語ったように、厳しいと思われた状況を跳ね返して成果を出した経験は、その後のバスケットボール人生にも生かされることとなる。

 インターハイの活躍で全国に存在を知られるようになった石井は、インカレを制して日本一になったばかりの東海大に進学。高いレベルでやりたいという気持とは裏腹に、入学後すぐに大きな壁に直面してしまう。

「いやもう最初は打ちのめされたというか、本当にプロというような感じで、自分の技術というか、そういうので勝たないと、結果を示さないと使ってもらえない、認めてもらえないという世界だった。入った時の4年生の先輩たちは卒業後JBLにみんな行くみたいで基準が高かった。練習の1対1だったり、リバウンド1つにしても基準が違いましたし、終わった後の自主練でもそういった意識でやっているので、きついからやるやらないというとか、そういうレベルの雰囲気でもなかった」

 高校がゾーンディフェンスをやるチームだった影響もあり、石井はマンツーマンディフェンスのルールや用語をきちんと理解していなかった。東海大はディフェンスを非常に重視するチーム。基本の部分で他の選手より出遅れていた石井は、それができるようになるまでの時間を必要としていた。一貫して試合に出られるようになったのは4年生の時であり、途中でBチームに降格という辛い思いにも直面している。しかし、妥協を許さない両親の教えは、石井が苦難に直面してもあきらめることなく、気持を切り替えて這い上がっていくというプロセスで生かされた。

「ちょっと挫けたからあきらめるとか、例えば小学校のテストとか適当にやるとか許さない親だったので、そういったところから習慣になったのかなと思っています。東海の時も最初Aチームで入ったんですけど、途中でBに落ちた時も腐っちゃいけないと自然に切り替えられるマインドができました」

 プロ選手になりたいという気持こそあったが、石井は大学時代に教員免許を取得。人生における保険の意味合いもあったが、「4年の最後まで声がかからなかったらトライアウトを受けてという感じだったので、そういう覚悟、勇気が持てなかったから取得しました」というのが理由だった。とはいえ、後に富士通から声がかかって関東の実業団リーグでプレーする機会を得たことは、石井のキャリアにとってプラスに働く。

「声をかけていただいて、仕事だったりバスケットボールができるという感じですね。JBLとかに行ければ一番よかったんですけど、当時の僕に声をかけるかといえば、そういう感じでもなかったです。最後まで残ってプロになる、当時はbjか栃木(ブレックスの傘下にあった)のDライズかトライアウトが選択肢としてあったんですけど、現状やいくら給料がもらえるという話になった時、今だったらもっと調べたりとか全部状況を把握したうえで選択したらよかったと思うんですけど、なんとなくその時に決めてしまった。安定をとったということですね」

 

富士通に入社した後の新人研修にて 写真提供/石井講祐
富士通に入社した後の新人研修にて 写真提供/石井講祐

 富士通に入社後の石井は、法人営業を担当するサラリーマンとして働きながら、バスケットボール選手としてのキャリアを継続。仕事では製造業の顧客を担当し、工場に通うことが多かったという。東海大の陸川章コーチもNKK(現JFEエンジニアリング)に勤務していた時、工場の人たちと一緒に大きなプロジェクトを成し遂げる仕事をした経験があった。「バスケやっているほうが全然楽」と恩師から言われていたこともあり、石井は仕事で面食らうようなことがなかったという。法人営業の仕事で経験したことは、バスケットボールでも非常に重要なコミュニケーションで役に立っているそうだ。

「営業は商談を成功させる。額はいろいろあるのですが、ゴールに向かって営業はだれをアサインして、専門の人を呼んでとか、全部スケジュールを立てなければいけない。そういう習慣はプロのバスケットボールでもシーズンのゴールだったり、チームとしてのゴールだったり、自分のこうなりたいというスキルの部分とかも予定を立ててじゃないですけど、目標をしっかり立てて1個1個クリアしていくみたいなことはつながっていると思います。もちろん、コート上でのコミュニケーションだったり、それ以外のコミュニケーションでも、営業をやったことはプラスになっていると思います」

 富士通での勤務が3年目を迎えた時、地元の千葉ジェッツも見にくるというNBLのトライアウトがあると知った石井は、躊躇することなく参加。その後、2013-14シーズンに練習生として千葉に受け入れられ、プロ選手という目標に一歩前進したのである。やりたいチームでプロになれるかもしれないという感触を得たといえ、置かれた環境は非常に厳しいものだった。日々の過ごし方と時間のマネージメントをしっかりやらなければならなかったが、石井はこのチャンスを逃すことなどできないという強い気持で乗り切った。

「本当に練習以外にもやることがあったので、その空いた時間でトレーニングだったり、ケアだったりとか全部入れ込まなければならなかったので、1日のスケジューリングは細かくやりましたね。昼にウェイト、スクールもあったので、それ以外の時間でなんとかする。自分の中で時間を無駄なく使おうという感じでした」

 2014年1月、26歳になっていた石井は千葉ジェッツと正式にプロ選手として契約した。シュート力を武器とするガードとして、Bリーグ創設1年目となった2016-17シーズンには平均9.7点をマーク。今季はチームの天皇杯3連覇に貢献し、3P成功率46.3%がB1でNo.1の数字であり、アシストも自己最多の2.3本を記録している。千葉にとって非常に重要な選手へと飛躍しているのは明らかで、「1個1個ステップアップというか、少しずつですけど登れている実感があるので、プレーの幅を広げられているなと思っています」と、石井自身も手応えを感じている。

 バスケットボールでは1ポゼッションに最大限集中する中で一生懸命にプレーし、うまく行かなかったら気持を切り替えて次の対応をすることが大事。こういったことの繰り返しとハードワークの継続で苦難を乗り越えた経験から、石井は人生の一瞬一瞬を楽しめるメンタリティを身につけ、プロバスケットボール選手としてのキャリアを構築できたのである。

「本田(圭佑)選手みたいに卒業アルバムで具体的に将来をイメージしているタイプではなく、その時々で次に進むには何が必要かを考えてクリアし、登っていったら見えてきたみたいなタイプだった。その時々で落ち込んだり、感情の起伏はありますけど、後で冷静に考えれば…、切り替えが早くできるようになってきましたね。元々性格的には引きずるほうなので、練習で5ついいプレーをしても、1つ悪いプレーをするとそっちばかりにフォーカスしてしまうタイプだったんですけど、5つのほうを認めて1つを課題にしよう、次のステップにつなげるという捉え方がだんだんできるようになりました。(陸川コーチの影響は)あります。ポジティブというか、ピンチはチャンスだ。それをどう捉えるか次第で自分の成長につながると思うので、そういう言葉と自分の社会人になってからとプロになってからの実体験が、だんだん擦り合わせてできるようになってきたのはメンタル的に大きいですね」

Basketball Writer

群馬県前橋市出身。月刊バスケットボール、HOOPの編集者を務めた後、98年10月からライターとしてアメリカ・ミシガン州を拠点に12年間、NBA、WNBA、NCAA、FIBAワールドカップといった国際大会など様々なバスケットボール・イベントを取材。2011年から地元に戻り、高校生やトップリーグといった国内、NIKE ALL ASIA CAMPといったアジアでの取材機会を増やすなど、幅広く活動している。

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