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金メダルを期待されて…小川直也インタビュー「地獄の銀メダル」28年目の真実

近藤隆夫スポーツジャーナリスト
柔道界に復帰した小川直也(撮影:矢内耕平)

「完敗です。すいません」

プロレス、総合格闘技のリングで活躍し人気を博した「暴走王」小川直也。1992年のバルセロナ五輪に日本柔道の重量級エースとして「金確実」の期待を背負って出場したが、決勝の後に残したのはその言葉と銀メダルだけだった。最後と決めた4年後のアトランタ五輪は5位。世界選手権優勝4回、全日本選手権は5連覇を含む優勝7回と輝かしい実績を残した一方、五輪の金メダルがないまま柔道界を去った。その小川がいま、指導者として柔道界に復帰している。彼にとって五輪とは何だったのか、なぜ柔道界を一度去ったのか、いま五輪に何を想う――。「地獄の銀メダル」から28年、小川が静かに語り始めた。

なぜ負けたのか。いまでも理由がわからない

――1992年当時、小川さんは日本重量級の絶対的エースでした。五輪の重圧は感じていましたか。

「戦争に行くみたいで『負けたら帰りの切符はないぞ!』という雰囲気でした。でも、それほど気負っていたわけでもなかった。普通にやっていれば勝てると思っていましたから。『勝ってやろう』ではなく、自ずと結果はついてくるという感じでした」

――金メダル確実と期待されたバルセロナ五輪は、準決勝で強敵ダビド・ドゥイエ(フランス)を破り危なげなく決勝に勝ち上がりましたね。しかし、決勝でダビド・ハハレイシビリ(グルジア=当時)にまさかの一本負けを喫しました。

「いまでも、わからないんです。何であの時だけ、負けたのか。試合が終わって、ぼう然としました。対戦したハハレイシビリは決して苦手な相手ではなかった。翌年の世界選手権でも投げて勝っている相手なので。負けてしまったものは『しょうがない』と思うしかなかったですね」

92年バルセロナ五輪での表彰式、小川は俯いたままだった。(写真:青木紘二/アフロスポーツ)
92年バルセロナ五輪での表彰式、小川は俯いたままだった。(写真:青木紘二/アフロスポーツ)

――記者会見のときの心境を振り返っていただけますか。

「しゃべることで自分が惨めになるのも嫌だったんですよ。だから『完敗です』とだけ言って席を立ちました。『敗軍の将は兵を語らず』という言葉が好きだったので……。でも、賛否両論でしたよね。いまと違って『金メダルを獲って当たり前』と思われていた時代でしたから、期待を裏切ったとマスコミから叩かれました」

――柔道の最重量級で日本が金メダルを逃したのは、1972年のミュンヘン五輪以来、実に20年ぶりのこと(不参加の1980年モスクワ大会は除く)でした。そんなこともあって当時の報道は、かなり辛辣でした。斉藤仁さん(当時全日本コーチ)も「世界2位だが、われわれには地獄」とコメントしていました。

「失敗した者に対しては厳しかった。でも、自分の中では納得できないこともありました。それは、柔道はプロではなかったのに、五輪になるとプロのような感覚で扱われていたことです。柔道はアマチュアで、プロ野球などのプロスポーツとは違うじゃないですか。プロ選手ならば、それでメシを食って生計を立てています。だから負けた時には、ファンから非難の声を浴びても仕方がないと思うんですよ。ぼくは当時、JRA(日本中央競馬会)でサラリーマンをやりながらアマチュアとして柔道をやっていたんです。負けたとはいえ、そこまで非難されるほど悪いことをしたのかなぁ、と。『それは違うだろ』という気持ちはありました」

撮影:矢内耕平
撮影:矢内耕平

アトランタ五輪までの苦闘の4年間

――帰国された後、4年後のアトランタ五輪に向けて、すぐに気持ちを切り替えることはできましたか。

「いや、やめようと思ってました。もともと五輪を目指して柔道を始めたわけではなかったし、長くやろうとも思っていなかったんです。JRAに就職していましたから、仕事に従事しようという気持ちに傾いていました。でも周囲の雰囲気が、そうじゃなかったんです。『次のアトランタこそは頑張ってくれよ!』と会社の人や関係者がみんな、そう言うんです。とてもじゃないけどやめられない状態でした(笑)。五輪を目指すというよりも、一年一年やっていこうと気持ちをシフトさせて現役を続けていくことにしたんです」

――当時の日本重量級は、小川さんが絶対エース。ライバルとなるような次の世代が育っていなかったですね。

「そうでした。だから『やめたい』と言った時、柔道関係者からも『やめないで欲しい』と止められました。なのに結構、冷遇されたんです(苦笑)。バルセロナが終わってからアトランタまでの4年間は、葛藤続きだったんですよ。バルセロナの後、全日本の監督が上村(春樹)先生から山下(泰裕)先生になって、強化システムも変わりました。バルセロナまでは、わりと自分のペースで練習や調整をさせてもらえたんですが、そうではなくなったんです」

――強化システムの変更で、どういったことが起こったのですか。

「いまでこそ『選手ファースト』は当然ですけど、あの頃はそうじゃなかった。選手が納得できず、『それだけはやめて欲しい』と思うことでも指導者が言うことは絶対でしたからね。『負けたやつが何を言ってるんだ!』と言われるし、優勝した大会の後でも『勝ったからって、わがままは許さないぞ』という感じでした。『トップが決めたんだから、選手は全員それに従え!』という風潮がありましたから、山下先生ともぶつかりました」

――それでも全日本選手権で優勝を重ねて、1996年のアトランタ五輪に出場しましたね。

「でも正直なところ、バルセロナとアトランタでは気持ちの入り方が大きく違いました。『何のために柔道をやってるんだろう』って思いながら練習することも多かった。いまと違って、なかなか代表内定も出してもらえなかったんですよ。結果を出していても、そのほかの選手たちと最後まで横一線に並べられましたから。代表内定が出たのは、4月下旬の全日本選手権で優勝をした後です。だから大会直後の記者会見で言ったんですよ。『まだ(アトランタ五輪に)出る気持ちになれません。疲れました。予選で疲れました』って」

――そうして迎えたアトランタ五輪はどんな気持ちで挑まれたのですか。

「どうにかしてやり遂げなきゃいけないという気持ちだけでした。調整が十分でない状況で五輪を迎えていましたから。そんな中、準決勝でドゥイエとやって、競り合った末に判定で負けました。あの時は、ドゥイエが強かったです。結果にも納得しています。大会後にドゥイエも『あの試合が事実上の決勝戦だった』と言ってくれましたから」

――準決勝で敗れ、続く銅メダルをかけた3位決定戦では一本負けを喫してしました。

「3位決定戦は、もう棄権したいと思ったんですが、『それだけはやめてくれ、出てくれ』と言われてね。でももう気持ちが入らないですよ。金メダルじゃなかったら、あとは一緒なんで。ぼくの競技人生は、ドゥイエ戦で終わりました」

96年アトランタ五輪・95キロ超級準決勝でのドゥイエとの闘い。(写真:青木紘二/アフロスポーツ)
96年アトランタ五輪・95キロ超級準決勝でのドゥイエとの闘い。(写真:青木紘二/アフロスポーツ)

五輪での敗北が人生の振り幅を広げた

――アトランタ五輪から帰国後、現役引退を表明されましたね。その後、プロレス、総合格闘技のリングに上がることになります。

「プロレスはまったく頭になかったですね。アトランタが終わって『柔道をやめようかな。仕事に専念しようかな。でも柔道やりたいのになあ』と悩んでいた時に、(アントニオ)猪木さんから誘われました。その時に聞いたんですけど、猪木さんは1988年の時点で目をつけてくれていたようです。当時大学3年生で、この年の12月にグルジア(現ジョージア)のトビリシで開かれた世界学生選手権に出場したんですが、その会場で猪木さんから激励を受けました。その頃、新日本プロレスの副社長だった坂口征二さんに、猪木さんが『小川に声をかけられないか』と話したそうです。坂口さんは明治大学柔道部の先輩。『五輪がありますから、それはちょっと待ってください!』となったみたいで」

――プロレス転向を決めたのは引退会見の前ですか。

「そうです。猪木さんから話をもらって、また明治大学柔道部の監督をやることも決まっていましたし、いろいろと考えていました。そんな時にカミさんに言われたんですよ。『人生は一度しかないから。40歳になった時に、やっぱりプロに行っておけばよかったなって悔いを残さないで』って。ちょうど雄勢(長男)が生まれた直後で、本来なら『そんな危ない、安定しない道を選ばないで』って言われそうなものですが、ぼくの性格を知っているからでしょうね。『悔いを残さないで』って。その言葉は大きかったですよ」

撮影:矢内耕平
撮影:矢内耕平

――五輪に2回出られて金メダルは獲得できませんでしたが、そこから得たものもあったわけですね。

「バルセロナで勝っていたらプロの道には進みませんでした。ずっと柔道界にいたと思います。名誉を得ると、それが大事になりますから新たな挑戦ができなくなっていたでしょう。でも、五輪で負けたことで人生の振り幅が広がりました。明日どうなるかわからない世界に飛び込むことができたんです。いろいろな経験をしながら、常に前を向いて歩くことで、新たな自分を見つけることもできました」

――2018年にプロのリングを下りてから、1年以上経ちました。いまは柔道界に復帰しているんですね。

「子ども(長男の雄勢)が、柔道をやりたいと言わなければ、絶対に戻らなかったですね。この小川道場もないです。どうせやるなら、中途半端な柔道を教えるよりは、ぼくの理想とすることを教えたかったので、住んでいた普通の一軒家を潰して、道場に建て替えました」

――最後に、小川さんにとってのオリンピックとは。

「今回、(延期前の)東京五輪を目指していた雄勢が代表に選ばれなかったのは、かなりショックでした。ぼくは出るのが当たり前だったので、子どもを通して、出られないさびしさ、悔しさを体験させられました。ですが、雄勢には、オリンピックにまたトライしてほしい。そういう意味では、ぼくはいまでもオリンピックと常に対峙しているのかなと思います」

金メダルの枠は空いたままになっている。(撮影:矢内耕平)
金メダルの枠は空いたままになっている。(撮影:矢内耕平)

■小川直也(おがわ なおや)

1968年3月31日生まれ(52歳)。東京都出身。高校生から柔道を始める。19歳で出場した1987年の世界選手権無差別級で史上最年少で優勝。1989年には全日本選手権初優勝。1992年のバルセロナ五輪は金メダル確実として期待されたが、決勝で敗れて銀メダル獲得。1996年のアトランタ五輪では5位。約8年間、日本重量級を背負い続けたが、五輪の金メダルとは縁がなく、アトランタ五輪後に引退表明。現役時代は、世界選手権優勝4回、全日本選手権の優勝回数は山下泰裕に次ぐ歴代2位の7回という輝かしい実績を残した。1997年にプロ格闘家に転向。同年4月、新日本プロレスのリングに上がり、デビュー戦で当時のIWGPヘビー級王者だった故橋本真也さんを破る。「暴走王」のニックネームでプロレス、総合格闘技「PRIDE」の舞台などで活躍。2004年にはハッスルポーズの「3、2、1、ハッスル、ハッスル」が流行語となった。2018年6月、プロレス・格闘技からの引退を表明。現在は柔道界に正式復帰し、神奈川県茅ケ崎市の「小川道場」で後進の育成に当たっている。

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スポーツジャーナリスト

1967年1月26日生まれ、三重県松阪市出身。上智大学文学部在学中から『週刊ゴング』誌の記者となり、その後『ゴング格闘技』編集長を務める。タイ、インドなどアジア諸国を放浪、米国生活を経てスポーツジャーナリストとして独立。プロスポーツから学校体育の現場まで幅広く取材・執筆活動を展開、テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍している。『グレイシー一族の真実』(文藝春秋)、『プロレスが死んだ日。』(集英社インターナショナル)、『情熱のサイドスロー~小林繁物語~』(竹書房)、『伝説のオリンピックランナー”いだてん”金栗四三』、『柔道の父、体育の父  嘉納治五郎』(ともに汐文社)ほか著書多数。

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