フランスが「いつも」イスラーム過激派のマトにかかるのは何故か?

ムハンマドへの敬意が盛り上がるほど、他の多数の問題には関心ないの?との疑問が募る(写真:ロイター/アフロ)

 ニースでの教会襲撃事件(2020年10月29日)の犠牲者追悼会でのフランスのカステックス首相の演説は、いろいろな意味で興味深いものである。同首相は、「敵はイスラーム過激派」であると述べつつ、イスラーム過激派のテロ行為の標的となるのはいつもフランスだと指摘したのである。同首相によると、イスラーム過激派とは「コーランを曲解することでイスラームをゆがめる政治的イデオロギー」である。上記の教会襲撃事件は、フランスの『シャルリーエブド』紙がイスラームでは神の使徒とされるムハンマドの風刺画を再掲載したことに対する、イスラーム教徒(ムスリム)の抗議行動と反発の中で起きたものと信じられている。そして、この問題はフランスとムスリムとの間の文化・文明・政治信条の衝突なり摩擦なりであると考えられているようだ。

 筆者は、フランスなり、ムスリムなりの文化・文明・信条についてうんちくをたれる任には堪えないので、本稿はそれらについて解説するものではない。また、一連の問題と文化・文明・信条が異なることによって必然的に生じた衝突や摩擦と考えるのならば、「根本的解決策」は「相手方に関わり合わない」か「強い方が弱い方を屈服させる」しかない。そうなると、別に風刺画の問題や報道機関への襲撃云々でなくとも、いつでもどこでも別のネタが衝突の話題として浮上し、そのたびにフランス(きっと西洋でもいい)やムスリムの文化・文明・信条についての「解説」が異口同音に繰り返されるだけに終わることだろう。本稿で重視するのは、このような不毛な営みではなく、今般フランスに対して世界中のムスリムが起こしたことになっている様々な反応のような現象が、「いつ、どこで、だれが、なぜ、どのように」起こすかを論理的に考察することである。この点において、カステックス首相が「イスラーム過激派」が、「いつも」という認識を表明したことが重要なのだ。誰がいつ何をするのかを認識していれば、その原因を究明し、様々な損害を回避・軽減する対策を講じることが可能になるだろう。

 「イスラーム過激派がいつもフランスを攻撃する」というのならば、その原因の究明は文化・文明の衝突やら怒りやらの、本質論・観念論に基づくものではなく社会科学に則る観察と分析に基づいてなされるべきである。既に別稿で概要を示したが、この問題は、テロ組織(=何らかの政治運動)やボイコットや抗議行動(=何らかの社会運動)の観察や分析として取り扱うべきものである。また、「イスラーム過激派は何故フランス以外の対象をマトにかけないのか」という問いを立てて考えることも有益である。テロ組織の何たるかやその行動様式に着目すれば、いずれについてもそれなりの説明はできる。テロ行為とは単なる破壊や殺戮ではなく、政治的示威行動なので、作戦行動についての情報や攻撃者の意図が敵方の社会に広く伝えられ、反響が高まらなくては作戦は失敗なのだ。つまり、フランス(EU諸国でもよい)ではそれなりに自由で自発的な判断力を持つ報道機関が、頼みもしないのにテロ組織のメッセージや「思想」なるものの紹介のために惜しげもなく時間を費やしてくれる。これに対し、報道管制が行き渡っている国では、攻撃に情報や実行者のメッセージなどを少なくとも国内の世論向けに一切発信せず、攻撃そのものを「なかったこと」にできる。新疆でムスリムが抑圧されているどころか、信仰・生命・財産が剥奪されている件について、イスラーム過激派は何年も前からメッセージを発信し、行動を起こすよう扇動し続けている。しかし、これに対するムスリムの反響はない。これについてのメッセージや思想なるものは探せばたいして苦労しなくてもいくらでも見つかるが、それに応じる者はいないということだ。要するに、「メッセージや思想が残っているからイスラーム過激派は脅威である」という見方は、有効な場合とそうでない場合があるということで、メッセージや思想の残存の脅威の予測や判定も攻撃対象や状況によって著しく異なるということだ。

 ボイコットや抗議行動の有効性についても同様で、「勝てそうな相手、勝てそうな時宜、勝てそうな手段を選んで」仕掛けないと、逆効果に終わることも大いにありうる。新疆の問題で中国に対するムスリムのボイコットは起こっただろうか?また、アメリカが中東和平に関しイスラエルに偏重した決定をとった際、アメリカやイスラエルに対するボイコットは起こっただろうか?2020年夏以降のイスラエルとアラブ諸国との「関係正常化」の際、ムスリムとして或いはアラブとしての同胞であるはずのパレスチナ人をないがしろにした為政者たちへの反発や攻撃はあっただろうか?テロ行為はもちろん、経済的なボイコットや抗議行動についても、実行者たちはそうした行動に出た場合の費用対効果を考慮し、「割に合わない」ならばわざわざ危険を冒してまでそんなことはしないということだ。財やサービス、経済的権益が人民の日常生活にあまりにも浸透している場合も攻撃やボイコットは難しくなる。当然のことながら、攻撃や抗議行動などに広範な参加や支持の動員を可能とする組織やネットワークが弱体ならば行動を起こすのは困難だし、攻撃対象の側が一致団結して反撃してくることが予想される場合も、行動のために負担する費用がかさむことになる。さらに、広範な参加や支持を促すために適切な目標や大義名分を設定しなくては、人民はついてこない。中国、アメリカ、イスラエル、そしてそれに阿るアラブの為政者に対するテロ行為や抗議行動は、以上に鑑みて「成算が低い」から起こらないのだ。

 結局のところ、抗議行動や経済的ボイコットはもちろん、教条主義的になんにでも非難・攻撃の矛先を向けると信じられているイスラーム過激派のテロ行為ですら、それがいつ、だれに対して、どのように仕掛けるかは客観的な状況とそれについての現実的な判断に基づいて決まるということだ。2015年に増長を極めた「イスラーム国」でも、客観的な状況や組織の運営を全く顧みずにヨーロッパ諸国やアラビア半島諸国で行動を起こし続けた共鳴犯たちに対し、「イスラーム国」の経営者たちは裏で頭を抱えていた、ということも十分考えられる。西洋やイスラームの行動様式や価値観のごり押しが常に物理的な反応や衝突を伴うとは限らないし、それらを防ぐ手立てにしても、相手方に極端な行動をためらわせるくらい「仲良くする」から、極端な行動への代償があまりにも大きくなるような状況を整備するまでたくさんある。

 さらに重要なことに、この種の問題の観察・分析・対策においては、社会科学の知見と公開情報の収集が基本中の基本になる。本邦においてもその道に励む学徒や大学・研究機関で地位を占める研究者は大勢いるし、多様性の尊重や他者の排除・包摂のメカニズムについての研究とその成果はたくさん公開されている。そして、何よりも今般の「フランスに対するムスリムの反発」のような事例を本質論・文明論で語る堂々巡りから脱却した専門的・学術的な研究・分析対象とすることこそが、身近な人々とその権益を危機から守るだけでなく、愛し、敬うべき観察対象の社会(この場合はムスリム)に無益な犯罪を実行したり、それを称賛したりするという愚行を回避させることに貢献するのではないだろうか。