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ムスリムによるフランス製品ボイコット運動:動員される信仰心

髙岡豊中東の専門家(こぶた総合研究所代表)
クウェイトでのフランス製品ボイコット風景(写真:ロイター/アフロ)

 フランスの週刊誌『シャルリー・エブド』がイスラームでアッラーの使徒と位置付けられるムハンマドを中傷するとされる風刺画を掲載したことが、またしても大きな波紋を呼んでいる。問題の風刺画を教材として使用したフランスの教員が殺害・斬首され、フランスのマクロン大統領は『シャルリー・エブド』誌と殺害された教員を断固擁護する旨表明した。これに対し、イスラーム教徒(ムスリム)が反発し、トルコなどの諸国とフランスとの外交的対立や、広範なフランス製品ボイコットに発展した。

 本稿は、表現の自由/不自由や特定の宗教とその象徴に対する敬意/侮蔑について論じるものではない。無論、いかなる権利に基づこうが誹謗中傷の類が公共の媒体で流布するのは嫌だし、例えば豚肉を肴に飲酒を楽しんだり、子豚を愛でたりする行為が規制・抑圧されることによって「多様性や多文化共存」や「他者への配慮」が達成されるとも思わない。その一方で、この問題が長年にわたり、繰り返し「西洋とイスラームとの価値観や信仰の違いや対立・分断」とのお決まりの枠組みで論評・報道されていることへの違和感も日々募っている。欧米諸国を含む「非イスラーム」諸国が当事者となる、イスラームやムスリムへの侵害や冒涜と解されるできごとは、それこそ世界中で枚挙にいとまがない。また、フランスでの風刺画の流布やムスリムに対する諸々の規制を「ムスリムへの迫害」というのなら、本当に命に係わる「ムスリムへの迫害」もそこらじゅうで発生している。象徴的だから、人目に付きやすいからとの理由があったとしても、風刺画の件だけが反響を呼ぶのは何とも面妖なことなのだ。

 一部政府や人権団体発の情報が事実ならば、新疆・ウイグルではまさに民族浄化や信仰箇条や実践の歪曲・捏造のレベルで「ムスリムへの迫害」が進行中らしい。また、エルサレムとそこにあるアクサー・モスクはムスリムにとってマッカ、マディーナに次ぐ聖地であると耳にタコができるくらい聞かされるが、そこでのイスラームやムスリムに対する侵害・冒涜行為は日常茶飯事である。他にも、いわゆるロヒンギャ問題やアフリカ諸国での紛争も、同様の問題として認識されうる。しかし、これらの問題に対する「反発や抗議」はほとんど聞かれないし、「迫害」の当事国に対するムスリム人民の抗議デモやボイコット運動が広範に広がったということも寡聞にして聞かない。このようになるのは、世界のムスリムが「ムハンマドの尊厳を擁護することには熱心だが、現に生命が脅かされるほどの迫害や圧迫を受けているムスリム同胞には関心がない」人々だからではおそらくないだろう。となると、なぜそのようになっているのかを思想信条・信仰の対立云々とは別の次元や視角で考えてみる必要がある。

 そもそも、デモなどの抗議行動、特定の製品やサービスなどに対する経済的なボイコットは、政治や社会の分野で何か要求事項を実現するための手段である。要求事項を実現するための手段には、武装反乱やテロ行為からSNS上でのコメントの拡散のようなものも含まれ、何か行動を起こす人々は様々な選択肢の中から適切だと思われる手段を選択して行動を起こす。行動を起こすか否か、或いはどの手段がふさわしいかという判断は、行動を起こすことによって達成されうる成果と、それによって生じる負担やリスクとの比較検討などを通じてなされる。例えば、テロ行為によって何か目的を達成しようとする場合、テロ攻撃が成功する確率に比して摘発されたり弾圧されたりしてひどい目に合う確率の方がずっと高いので、テロ行為を運動の手段として選択する者がものすごく大勢になるということはめったにない。となると、この種の運動を組織する者や扇動する者は、「なるべく勝つ確率が高い相手、なるべく勝つ確率が高い時機、なるべく勝つ確率が高い手段」を選んで運動を仕掛けることが必須である。一見、強固な信念(或いは妄執)に基づいて「反イスラーム的な」すべてに対して闘争を挑んでいるように見えるイスラーム過激派も、実のところは上記のような戦術的・技術的考察を十分踏まえて「マト」を選んでいる。つまり、新疆やパレスチナやロヒンギャで「ムスリムを迫害している」者を非難してボイコットするよりも、フランスに対してそうした方がずっと楽ちんで大きな成果が見込めるからこそ、何十年も継続している「ムスリムへの迫害」よりもたまに発生する事件に対する反響の方がずっと大きくなるとも言えるのだ。

 それでは、フランスに対する抗議行動の行方や、フランス権益の安全についての見通しはどのように立てればよいだろうか?フランスに対する抗議やボイコットは、各国の政府や政治指導者、著名報道機関の強硬な発言や扇動も無視できない。中東(特にアラブの国)で政府や公的な機関が抗議行動を組織・扇動する場合、「相手方が屈服することも何か解決案が出ることも期待していないし、そうなるまで頑張って運動を続けるという場面」は予想しにくい。というのも、この種の動員や扇動をする為政者は大抵の場合「独裁・専制」体制の為政者であり、うっかり抗議行動が成果を上げると、動員された人民が抗議行動は自国の為政者や公的機関に対しても有効であると「誤解」してあらぬ騒乱を起こしかねないからだ。つまり、抗議の対象も、抗議の手段や範囲や期間もある程度制御・統制して人民を動員しないと、動員・扇動した側の身が危うくなる恐れがある。イスラーム過激派が風刺画の件を口実に何か事件を起こすことは、各国の為政者が本件についての抗議やボイコットを「そこそこ」の水準に統制する絶好の機会になるだろう。この点、アメリカや中国やイスラエルに対する抗議やボイコットを動員するよりも外交・経済的リスクが低く、ミャンマーのような国をたたくよりも政治的得点が大きいように思われるフランスは、まさに「うってつけ」のマトと言える。

 本稿の指摘は表層的でつまらないものかもしれないが、このような視点を持たないと、世界中のムスリムの信仰心や同胞愛は「ネタのおいしさ」に応じて発揮されるご都合主義だとの批判をせざるを得なくなる。また、個々人がどんなに真摯で純真な信仰心や同胞愛を持っていたとしても、それを発揮する場面や方向性が何らかの権力によって相当程度方向づけられてしまっている現実からも目を背けてはならない。今般のような問題を「価値観や思想・信条、宗教の違いから生じる摩擦」とか、「西洋からの差別や偏見や押し付けに対するムスリムの反発」のような観点からのみ論じても、異なる時期に異なるネタで同じ問題を繰り返すだけに終わるだろう。また、抗議をする側の主張や要求に阿って摩擦を回避しようとするだけでは「異なる価値観の尊重」にも「共存」にもならないことも明らかである。結局のところ、今回の問題の場合はフランスにせよムスリムにせよ、動員や扇動の対象になる人民の側が、動員・扇動を意図する言辞や働きかけに対して判断力(や抵抗力)を高めることが肝要なのではないだろうか。

中東の専門家(こぶた総合研究所代表)

新潟県出身。早稲田大学教育学部 卒(1998年)、上智大学で博士号(地域研究)取得(2011年)。著書に『現代シリアの部族と政治・社会 : ユーフラテス河沿岸地域・ジャジーラ地域の部族の政治・社会的役割分析』三元社、『「イスラーム国」がわかる45のキーワード』明石書店、『「テロとの戦い」との闘い あるいはイスラーム過激派の変貌』東京外国語大学出版会、『シリア紛争と民兵』晃洋書房など。

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