「イスラーム国」の新段階:或いは退行的先祖返り

(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

 2020年1月27日、「イスラーム国」の新報道官であるアブー・ハムザ・クラシーの演説の音声ファイルが出回った。これについては、既に大手報道機関が「「イスラーム国」がイスラエルへの攻撃を予告」との趣旨で報じているが、報道内容はごく控えめである。こうした取り扱いは、テロリストをあんまり報道露出させない、テロリストや犯罪者の主張をそのまま流通させないという、立派な対策の一翼である。筆者としても、こうした対処の在り方を逸脱しない範囲で、「イスラーム国」の思考・行動様式と今般の演説について考察してみる。

世界の片隅で「存続している」と叫ぶ

 問題の演説、37分強もあり、「イスラーム国」の作品としては長い方に属する。その内容というと、

1.アブー・ムスアブ・ザルカーウィーらがイラクで戦っていたころからの自派の歴史を語る

2.「イスラーム国」のジハードは「新段階」に入ったと主張する

3.シーア派、(シリアの)クルド勢力、(「イスラーム国」に敵対した)諸部族などを脅迫する

を基幹とする(詳細は別稿)。特に1.の「イスラーム国」の歴史を語る部分がおよそ半分を占めたのだが、アメリカなどが「「イスラーム国」を根絶した」と言う度に軍事作戦を継続してそうした主張を覆してきたことを誇っている。その上で、現在も軍事作戦が継続していることをもって、「「イスラーム国」は存続している」と連呼する“サビ”を迎える。しかし、落ち着いて考えれば、「イスラーム国」の目的や行動は、イスラーム共同体にでっち上げられた「人工国境」を破壊しつくし、イスラーム法が統べる「国家」を樹立することだから、単に声明類の発信や「イスラーム国」を名乗る殺人行為が続いていれば「イスラーム国」が存続していると主張するのは何とも情けない話である。現在、「イスラーム国」の言うイスラーム統治が施行されている領域は無いし、「イスラーム国」に合流しようとする者がいても行先は僻地の砦か居心地のよくなさそうな潜伏地がせいぜいである。

ある意味衝撃的な「新段階」

 今般の演説の注目点は、「イスラーム国」がイラクでのアメリカなどとの戦い→シャーム(≒シリア)へと拡大して「境界破壊」の段階へ→そして今日、「新段階へ」と移行したと主張している点である。「新段階」が意味するところは、ユダヤへの攻撃らしい。ここで、シナイ半島やシャーム(≒シリア)のムジャーヒドゥーンに対し、「ユダヤの入植地や市場を様々な兵器や化学兵器ミサイルの実験地にせよ」と語ったところが、諸般の報道で「イスラエルへの攻撃予告」と解釈されたのだ。確かに、この方針は従来の思考・行動様式を激変させる「新段階」ではある。というのも、「イスラーム国」は対イスラエル攻撃の実績が皆無ではないものの、「イスラエルを攻撃しない」イスラーム過激派として、イスラーム過激派の定義にまで影響を及ぼす奇異な行動様式をとる団体だったからだ。

 筆者が「イスラーム国」の週刊機関誌(2015年10月から刊行。「イスラーム国」の機関誌として唯一現在も刊行が続いている)で使用される語彙を解析したところ(こちらも詳細は別稿)、「イスラーム国」は「イスラエル」という単語を使用せず、「ユダヤ」か「ユダヤの国家もどき」という言い回しを用いていた。しかし、その使用の頻度は「十字軍」やシーア派の蔑称、そして「背教者」のような敵対者を指すそのほかの語彙に比べて圧倒的に低く、「イスラーム国」はこれまでイスラエルやその権益に対する関心が低かったことを示していた。

 そこで突如「ユダヤへの攻撃」を促されたわけだから、主な担い手として名指しされた「シナイ州」や「シャーム州」のムジャーヒドゥーンだけでなく、「イスラーム国」のファン・共鳴者・模倣者にとっても、これに従うなら思考・行動様式を劇的に変えることを迫られることになろう。なぜなら、イスラエル権益やユダヤ人は世界中に存在し、そうと覚悟を決めてことを起こすのなら、これまでもいくらでもできたはずだからだ。また、シリア南部で活動していた「イスラーム国」の仲間たちは、これまで兵站や医療の面でイスラエルの支援を受けていた模様であり、ここでイスラエルに毒ガスを撒こうものなら、まさに「飼い主の手を噛む犬」になってしまう。

 しかも、「新段階」の論理的拠り所として持ち出されたのが、2006年4月に出回ったアブー・ムスアブ・ザルカーウィーの演説の一節、「我々はイラクで戦いつつ、バイト・マクディス(≒エルサレム)を見据えている」だった。「イスラーム国」、多少の揺れがあるものの、実はイスラエルやパレスチナについての関心は低く、機関誌にエルサレムにこだわることはイスラーム統治を妨げる言い訳と断じる論説を掲載したこともある。それでも、ザルカーウィーの時代には、アル=カーイダの名声を利用しつつその実ユダヤと十字軍と戦わずにイラクの民間人を殺戮する一方だったことへの非難をかわすため、多少は反ユダヤ扇動や対イスラエル攻撃を実行したことがあった。その一つが、上述の演説である。従って、そのような「古典」を持ち出して「新段階」と言われても、筆者から見れば短期間のうちに本当にそれにあたる劇的な行動を起こしてくれでもしない限り、思考・行動様式の面では単に10年以上前のそれに退行したとしか見えない。

 ただし、このような分析は、「イスラーム国」による攻撃が「起こらない」、脅威の可能性を放っておいてもいい、という意味ではない。また、ユダヤ・イスラエル権益に限らず、世界中のあらゆる事象について「イスラーム国」による破壊と殺戮を防止する、仮に起こった場合は政治的意味を与えないことこそが「イスラーム国」対策の基軸であるとの筆者の主張も変わらない。この点での備えと対策は決して怠ってはならない。ともあれ、今般の演説について論評すべきことは、演説が「イスラーム国」の構成員・支持者・ファン・模倣者にとって、今後「大ヒット」を巻き起こす展望を示すにはなんだか情けない内容にとどまったということである。