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「イドリブ県」ってどんなところ?

髙岡豊中東の専門家(こぶた総合研究所代表)
(写真:ロイター/アフロ)

 シリア紛争において「イスラーム国」がほぼ殲滅され、焦点はシリア政府がいつ、どのように、そしてどの程度、シリア領への統制を回復するのかになっている。その過程で、「イドリブ県」なる地域が政府軍の軍事行動の対象としてにわかに注目され、同地での戦闘が「最大の人道危機」につながると警告されたり、紛争の主体のいずれかが毒ガスを使用するとの憶測が広まったりしている。イドリブ県での戦闘が大規模な民間人の被害につながりうる可能性は高いし、これまでの紛争の推移に鑑みるとなにがしかの形で「毒ガス騒動」が起こることもほぼ確実である。その一方で、この地域はシリア全体の中でどのような場所なのか、紛争の中でどのような意味を持っていたのかについてはあまり知られていないのではないだろうか。この点がわかれば、何故シリア政府がイドリブ県を制圧しなくてはならないのか/シリア政府にイドリブ県を制圧させてはならないのか、という紛争当事者の立場を理解しやすくなるだろう。

 なお、イドリブ県や同県内の主要な都市や遺跡についての基礎的な情報は、既に朝倉書店より刊行された『世界地名大辞典3 中東・アフリカ』に収録されているため、本稿においても原則としてそれらを参照した。

イドリブ県略図(筆者作成)
イドリブ県略図(筆者作成)

イドリブ県の成り立ちと位置

 イドリブ県は、シリアの北東部に位置し、北東・東をアレッポ県、南をハマ県、西をラタキア県と接し、北西部はトルコと接している(ただし、イスカンダルーン地方と呼ばれるこの地域は、シリアも領有権を主張している)。元々はアレッポ県の一部だったが、1957年にそこから分かれてイドリブ県が設置された。県内は、イドリブ、アリーハー、ジスル・シュグール、ハーリム、マアッラ・ヌウマーンの5つの郡で構成される。おもな産業は農業と農産物の加工であるが、県内にはイブラやバーラなどの古代遺跡から、マアッラ・ヌウマーンのようなアラブ・イスラーム時代の建築を残すものまで多数の遺跡が存在する。県の人口は2009年の時点ではおよそ194万人である。

イドリブ県内には、上の地図で青線で示したダマスカス・アレッポ街道が通過している。この街道上には、ハーン・シャイフーン、マアッラ・ヌウマーン、サラーキブの諸都市が位置している。これらの都市については、政府軍やロシア軍による爆撃被害や、化学兵器使用問題の舞台となったこともあるが、それは諸都市が幹線道路上の重要拠点であることと無縁ではない。イドリブ県内にはダマスカスとアレッポとを結ぶ鉄道も通過しているが、こちらはイドリブ県東部のアブー・ドゥフール(アブー・ズフール)を通過する。なお、同地にはシリア軍の大規模な空港があり、2015年から2018年初頭まで、「ヌスラ戦線」が占拠していた。

 また、シリア紛争においては、同県が「反体制派」と「イスラーム国」による戦術的な政府軍挟撃の一翼をなすという点が非常に重要である。2015年3月から4月にかけて、トルコが後援する「ファトフ軍」(主力は「ヌスラ戦線」、「シャーム自由人運動」などのイスラーム過激派)がイドリブ県を占拠した。この結果、「反体制派」が西から、「イスラーム国」が東から政府軍の制圧地域を挟撃する配置が確立した。実際、「反体制派」は「イスラーム国」と直接戦火を交えることはほとんどなく、政府軍が「反体制派」に対して攻勢に出ると「イスラーム国」が東から政府軍を攻撃し、政府軍が「イスラーム国」の攻勢に忙殺されているすきをついて「反体制派」がイドリブ県を中心とする占拠地域の拡大を図ってきた。すなわち、イドリブ県を占拠する「反体制派」は「イスラーム国」と戦術的な共闘関係にあった。

 しかし、このような配置は、2016年から次第に変化した。まず、政府軍によるアレッポ解放(2016年末)の結果、現体制に対抗する何らかの政体を樹立し、それに正当性を付与して体制打倒につなげようとする「反体制派」やその支援国の戦略は破綻した。また、「イスラーム国」はイラクとシリアにおける占拠地域をほぼ喪失し、政治的・軍事的影響力を喪失した。さらに、政府軍がシリア南部を解放(2018年)し、ゴラン高原との境界地域・ヨルダンとの国境地帯を奪回した。つまり、東の「イスラーム国」、南の「反体制派」占拠地域から政府軍の制圧地を包囲・挟撃するかのような配置は解消し、イドリブ県はそうした配置の名残として孤立することとなった。

街道上の諸拠点

 ハーン・シャイフーン、マアッラ・ヌウマーン、サラーキブは、いずれも人口数万人程度の地方都市ではあるが、ダマスカス・アレッポ街道上に立地する要衝である。これらを「反体制派」が占拠しているため、政府軍側から見ればダマスカスとアレッポとの往来は、十分整備されているとは言えない裏街道を使用することを余儀なくされてきた。つまり、上記の諸都市をはじめとするダマスカス・アレッポ街道を制圧してシリアにおける二大都市であるダマスカスとアレッポとの往来を正常化することは、軍事的な重要性だけでなく、今後のシリア全体の経済活動の復旧・復興に死活的な重要性を持つのである。また、サラーキブはダマスカスとシリアの主要港湾であるラタキアからアレッポに向かう街道の合流地点であり、アレッポ・ラタキア間の幹線道路上にあるアリーハー、ジスル・シュグールと並び、アレッポの経済的な復興という観点から極めて重要である。なお、ジスル・シュグールは、1980年に政府とムスリム同胞団との武力衝突の中で激しい弾圧を受けており、そうした経緯から反政府気質が強いと思われる。一方、イドリブ市は県庁所在地ではあるものの、ダマスカスとアレッポ、アレッポとラタキアのような重要都市間を結ぶ街道からは孤立した位置にある。このため、イドリブ市の重要性はイドリブ県という地方自治体をいずれの当事者が制圧するのか、という政治面的な重要性が主となる。

トルコとの往来の拠点としての諸都市

 イドリブ県はトルコと接しているため、トルコとの往来という面でもシリア紛争の中で重要である。例えば、シリア領内には「停戦監視」を名目にトルコ軍が侵入してイスラーム過激派諸派の同伴の下「監視拠点」を設置しているが、イドリブ県内のトルコ部隊は同県とトルコとを結ぶバーブ・ハワーの通過地点を利用している。

 また、トルコはイラクやシリアに世界各地から送り込まれた外国人戦闘員の大半の経由地だったが、そうした戦闘員やその家族の一部が、イドリブ県内に拠点を築いたようである。本来は中国西部のムスリムによる反体制運動・独立運動だったはずの「トルキスタン・イスラーム党」の構成員の一部が従来の潜伏先のアフガニスタンから大挙してシリアに侵入し、アル=カーイダの諸派と並んで「反体制派」の主力となった。「トルキスタン・イスラーム党」の戦闘員や家族数千人が、イドリブ県内のオロンテス川を望むジスル・シュグール市とその近郊を占拠している。

「反体制派」はイドリブをどのように扱ってきたか

 それでは、「反体制派」が占拠するイドリブ県とその住民は、その支配下でどのような状況に置かれているのだろうか?彼らは、シリア政府の圧政から「解放」されて幸せな生活を送ることができたのだろうか?イドリブ県には「反体制派」と親密な報道機関や援助団体が多数活動しているが、政府軍やロシア軍による爆撃の被害を除き、県内の実態についての情報は不足気味である。しかし、イドリブ県各地で「反体制派」諸派同士の抗争や「スパイ狩り」が相次いでいることは、例えば「反体制派」の主力である「シャーム解放機構」(旧称「ヌスラ戦線」)自身が繰り返し発表している。

 また、「反体制派」は自派に従わない者やシリア政府の公務員らを体系的に殺害・追放し、イドリブ市の住民の4分の3は同市を離れた模様である。また、県内に多数ある遺跡の多くは、発掘品を密売して資金源とするため、「反体制派」諸派によって盗掘されたようだ。そのうえ、「反体制派」諸派はイドリブ県の各地に「刑務所」を設置したが、恣意的な逮捕・拷問・処刑が相次いでいる。要するに、イドリブ県の人民の安寧を脅かしているのは政府軍やロシア軍の攻撃だけではなさそうなのだ。

 政府軍などがイドリブを解放するために大規模な攻撃を仕掛けることは、多数の人的被害を生じさせる危険な行為である。しかし、イドリブの状況を現行通り温存することは、そこに居住する人々が搾取・虐待されることを放置することをも意味する。もしイドリブ県で活動している武装勢力が、独裁政権から郷土を守る善良な人々ならば、イドリブ市の住民の大半が同市から逃亡することはなかっただろう。また、安田純平氏のような外国人がイドリブ県内で拉致・監禁されていることに対し、同県を「統治」しているはずの諸派が犯行集団を摘発し、身代金など要求せずに彼らを救出し、出身国に送り返してくれるだろう。イドリブを取り巻く軍事情勢は、シリア紛争の諸当事者が繰り広げる宣伝合戦の焦点と化している。宣伝合戦にからめとられないためにも、個別の好悪とは別に基礎的な情報について収集・整理することが有効だろう。

中東の専門家(こぶた総合研究所代表)

新潟県出身。早稲田大学教育学部 卒(1998年)、上智大学で博士号(地域研究)取得(2011年)。著書に『現代シリアの部族と政治・社会 : ユーフラテス河沿岸地域・ジャジーラ地域の部族の政治・社会的役割分析』三元社、『「イスラーム国」がわかる45のキーワード』明石書店、『「テロとの戦い」との闘い あるいはイスラーム過激派の変貌』東京外国語大学出版会など。

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