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イエメン:フーシー派って何?

髙岡豊中東の専門家(こぶた総合研究所代表)
フーシー派のスローガン。左端のものの内容は本文を参照。(写真:ロイター/アフロ)

 まず確認しておくべきことは、フーシー派という呼称は彼らの敵対者が用いる蔑称に近い呼称であり、彼ら自身の組織名は「アンサール・アッラー(アッラーの支持者)」である。蔑称に近い呼称が報道や分析で主流となっている以上、フーシー派についての情報がどれだけ実態を反映しているかについても検証してみる必要がある。

起源

 1986年、イエメン北部のサアダ県でザイド派の政治・社会的復興を志す学習サークルが現れた。その中心となったのが、著名な宗教家一家の出身のフサイン・フーシーという人物だった。同人らの活動の背景には、自由の抑圧、宗教的教義への脅威、ザイド派文化人の周縁化などのザイド派やサアダ県の住民に対する抑圧的な状況があったようだ。なお、ザイド派については後述する。

 この時期は、イラン革命(1979年)から程ない上、イラン・イラク戦争の最中であり、抑圧に対する抵抗や政治分野でのイスラームの復権という現象は、イランの主な宗派である十二イマーム派のシーア派だけでなく、非シーア派のイスラーム主義運動をも大いに刺激した。フーシーらも、イランでの動きに大いに影響されたようで、フサイン・フーシー自身もこの時期イランに渡航したことがあるそうだ。

 南北イエメンが統一され(1990年)、複数政党制に基づく選挙が計画されると、ザイド派の政治勢力を結集した「真実党」が結党され、フーシーらも当初はこれに合流した。しかし、「真実党」は後に分裂し、フーシーらは「信心深い青年たち」との名称で政治活動を行うようになった。実際、フサイン・フーシー自身も1990年代半ばに国会議員に選出されており、この時点では、彼らはイエメンの体制内で活動する政治・社会運動だったといえる。1994年のイエメン内戦の際には、フサインの父バドルッディーンがサーリフ政権の要請に反し、南イエメンの社会党勢力への攻撃を不当な戦争とみなす立場をとった。また、フーシーらはイエメン国内でも辺境の地であるサアダ県において、社会サービスの提供なども行うようになっていった。

 状況が変わったのは、2002年にフーシーらが会合の際に「神は偉大なり、アメリカに死を、イスラエルに死を、ユダヤは地獄行き、イスラームに勝利を」とのスローガンを用いるようになったことらしい。ここでの「ユダヤ」とは民族としてのユダヤ人というよりは、中東やイスラーム共同体に対する侵略者・抑圧者としてのユダヤを意味する模様である。このようなスローガンが用いられるようになったのは、9.11事件、アフガン戦争、イラク戦争の前後という時代背景が影響していよう。フーシーらはアメリカの軍事行動を、イスラームに対する敵対とみなした。サーリフ政権が対外関係を意識して上記のスローガンの使用をやめさせようとしたため両者の関係は悪化し、2004年~2010年にかけ、6度にわたり大規模な軍事衝突が発生した。紛争を通じ、フサイン、バドルッディーンが相次いで死亡し、現在の指導者であるアブドゥルマリクが指導者となった。そして、組織の名称も「アンサール・アッラー」に落ち着いた。

ザイド派って何?

 フーシーやその支持者らが宗教的に帰属するザイド派は、シーア派の宗派の一つとみなされる。ただし、イランの国教とされる十二イマーム派のシーア派とは、歴史上のどの人物をイスラーム共同体の指導者(=イマーム)とみなすかの見解が異なる。また、十二イマーム派が信じるイマームの「お隠れ」と終末時の再臨を否定するなど、シーア派の諸宗派との思想的差異も目立つ。また、ザイド派の見解では、(抑圧などに対する)積極的な武装闘争を奨励する傾向がある(『岩波イスラーム辞典』389頁)。イエメンにおいては、ザイド派などのシーア派諸派が人口の35~40%程度を占めている模様である。

 一方、フーシー派の実践については、祝祭などで十二イマーム派に接近しているとの指摘もあるようだが、フーシー派自身はザイド派としての立場を堅持している。ここから、一言でいえば「シーア派」となるといっても、それだけでフーシー派とイランとの間に宗派的な連帯や親近感があると決めつけることは難しい。雑駁な分類に基づいてフーシー派の思考や行動様式を決めつけると、イエメン紛争や地域の情勢全体をも読み誤る恐れがある。

「アンサール・アッラー」の実態

 では、フーシー派はどのような目的を持ち、いかなる組織を形成しているのだろうか?

 目的:彼らの公式サイトには、組織の綱領にあたる文書が掲載されているわけではないようなので、各種報道やこれまでの活動実績の観察を通じて目的を推測することになる。主な目的としては、ザイド派の教義や解釈を統治に反映させる、ザイド派の教育を導入する、大学でのイスラーム法教育にザイド派の教学の学部を創設する、などイエメンの政治や社会の中でザイド派が周縁的な立場に置かれているとの認識に基づく、宗派の復興運動的な側面が強い。また、社会活動や政治参加の実績に鑑みれば、イエメン国内で宗派共同体や地域の利益の増進を図る志向もあるといえる。また、フーシー派がサナアを制圧した直接の契機は、政治的移行の中での経済改革に伴う燃料価格引き上げへの抗議行動を組織したことなので、大衆迎合的な行動様式もうかがえる。

 財源:フーシー派の財源についてまとまった報告書類は見当たらなかったが、宗教・社会運動として活動している以上、支持者からの献金や奉仕活動を通じて資源を調達していることも考えられる。2014年にサナアを掌握して以降は、行政機関などを通じた徴税や、紛争の際に現れる民兵の多くと同様、道路や港湾の通行・使用や商品の流通に課金をするという資金調達を行っているとの報道もある。また、同派の財政の規模についての推計も、現時点で確度の高いものは見当たらなかった。

 軍事力:イエメンは伝統的に国家の統制が弱く、辺境地域や部族民が独自に武装して国家権力を意に介せず振舞うこともよく見られた。フーシー派が武装勢力として顕在化したのは、イエメン政府と最初に軍事衝突した2004年であるが、それ以前から個々の支持者や構成員が相応に武装していたと思われる。正確な兵力は不明だが、10万~30万人との推計がある。このうち常時活動する中核的な戦闘員がどの程度かは不明である。

 装備については、イランから調達している、イランが提供しているとたびたび指摘され、イエメン政府などによる摘発事例もある。また、2014年以降はイエメン軍の予算や装備も使用可能な状況にある。サウジなどに対して弾道ミサイルを発射することがあるが、フーシー派が掌握している報道機関などでは、これらをイエメン軍の作戦として報じている。

 対外関係:現在の紛争においてはイランの支援を受けているが、この関係は宗派主義的な心情に基づくものとは限らない。抑圧への抵抗という発想でイラン革命の影響があると思われるが、ザイド派自身の思想にも武装闘争による不正との戦いという発想は色濃いようだ。また、上記のフーシー派のスローガンに明らかなように、反米・反帝国主義・反植民地主義的な思考を持っているため、2004年の最初の軍事衝突の時点では、「反米・アル=カーイダ系」と位置付けられることもあった。一方、「イスラーム国」や「アラビア半島のアル=カーイダ」は宗派主義的二元論に基づいてフーシー派を攻撃する傾向にある。イスラーム過激派にとっては、本来イエメン紛争の中でフーシー派以外の諸当事者もイスラーム統治を実践しない背教者か、十字軍とその手先と位置付けられるべきものである。しかし、イエメン紛争においては、「イスラーム国」や「アラビア半島のアル=カーイダ」はフーシー派への攻撃を優先し、他の当事者とは暗黙の共闘関係にあるようにも感じられる場面も多い。

 フーシー派を単に「イランの代理・傀儡」とみなすことにより、ザイド派という宗派集団や、サアダ県やその周辺の地域が置かれている被抑圧状況を見落とすことになりかねない。特に、フーシー派も2012年からのイエメンの政治的移行の過程に当初は参加していたことから、彼らの政治・経済・社会的な要求が何処にあるのかを見極め、イエメン全体で適切な国政運営や権益配分を追求することが紛争打開の基礎となろう。そうした中で、宗派主義的発想や善悪二元論的発想に基づいて彼らを敵視するだけでは問題解決どころか一時的な停戦の実現もおぼつかないだろう。

中東の専門家(こぶた総合研究所代表)

新潟県出身。早稲田大学教育学部 卒(1998年)、上智大学で博士号(地域研究)取得(2011年)。著書に『現代シリアの部族と政治・社会 : ユーフラテス河沿岸地域・ジャジーラ地域の部族の政治・社会的役割分析』三元社、『「イスラーム国」がわかる45のキーワード』明石書店、『「テロとの戦い」との闘い あるいはイスラーム過激派の変貌』東京外国語大学出版会、『シリア紛争と民兵』晃洋書房など。

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