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シリア:なぜ、いま化学兵器か?

髙岡豊中東の専門家(こぶた総合研究所代表)
(写真:ロイター/アフロ)

情報戦争の下で生きる

2017年4月4日、「反体制派」やそれに与する人権団体・医療団体が、シリア北西部のイドリブ県ハーン・シャイフーンが政府軍によるとみられる化学兵器攻撃を受けたと発表した。それによると、これまでに100人近くが死亡している。欧米諸国は、政府軍が化学兵器を使用したとみなし、一部が国連安保理の緊急会合開催を要請した。一方、シリア政府はシリア国内のどのような場所でも化学兵器を使用していないと発表し、化学兵器の使用を政府の仕業であるとの主張を否定した。これに加えて、ロシア政府が「毒ガスが発生したのは、政府軍が「ヌスラ戦線(現「シャーム解放戦線」。シリアにおけるアル=カーイダ)」の化学兵器工場を爆撃したためであると発表し、これまで幾度となく繰り返されてきた化学兵器使用疑惑に比べて一段と強い調子でシリア政府を擁護した。

このように、安保理の常任理事国レベルで事実関係についての見解が著しく異なっているため、少なくとも国連を通じて何か説得力のある事実認定や実効的な措置が取られることはほとんど期待できない。また、欧米諸国とロシアとの見解の相違に象徴されるように、シリア紛争についての情報発信と情報の受容は、紛争が勃発した2011年の時点で、諸当事者が敵方を貶め、世の中の支持や同情を自分の側に惹きつけるためのプロパガンダ合戦となっている。つまり、発信する当事者も、情報を受け取る当事者も、紛争に対する主観的判断や政治的立場に沿ってそうしているに過ぎない。「悪の独裁政権とその同盟者」の発信する情報は全て虚偽で、「正義の革命家やそれを支援する善良な人々」は常に真実を語る、などと言う単純な世界ではない。ここまで来ると、実際に化学兵器が使用されたか否か、そして誰が使用したのかについて論じることは不毛ですらある。

それでも思考のスイッチは切らない

しかし、このように悲観的な状況でもシリアについての情勢分析を止めてはならないし、思考を停止させてもならない。思考を停止させて現実性の乏しい「勧善懲悪」物語に浸ることこそが、シリア紛争を長引かせ、シリア人民の犠牲を嵩ませている最大の原因となるからだ。少々論理的に考えると、今般の化学兵器使用疑惑は、条件反射的にシリア政府を責めていればよい、というわけにはいかないことは明らかだ。なぜなら、シリア政府は2013年夏にも大々的に取り上げられた化学兵器使用疑惑を切り抜ける際に、化学兵器禁止機構に加入し、同機構と国連の監督下でシリア国内の化学兵器と関連物質を廃棄・国外移送したことになっているからだ。廃棄・国外移送の過程は、2014年末には完了したと発表されている。そうなると、ここでシリア政府が化学兵器を使ったことになると、廃棄・国外移送の過程を監督したはずの化学兵器禁止機構と国連にとっても重大な過失となる。

そもそも、政府軍が現段階で化学兵器を使用することは、自殺行為にも等しい不合理な行為である。というのも、2016年末のアレッポ制圧や、「反体制派」武装勢力の主力であるイスラーム過激派に対する国際的な対応の変化により、政府軍の軍事的優位は相当強まっていた。また、政治的にも、欧米諸国の間では現政府の打倒にあくまで固執する国々は減りつつあり、政府にとって好都合な状況となってきた。ここでわざわざ国際的な非難を浴びる化学兵器を使用して、政府が得るところは何もない。

それでも、シリア政府が敢えて不合理な行動をとる可能性が完全に排除されるわけではない。しかし、このような場面で必ず持ち出される、「アサド大統領ら政権首脳部の統制に服さない分子が、目先の事情を優先して大局的状況を顧みずに暴走した」という説明のやり方に頼ることはできない。この種の説明をする場合ですら、ではその統制が及ばない分子は何者で、彼らが大局的状況よりも優先した事情とは何かを、根拠を挙げて語らなくてはならない。結局のところ、シリア政府・軍部内の「誰か」が暴走したとの説は、実証も論理的な説明も期待できない憶測に過ぎない。

これからどうなる?

上述の通り、安保理常任理事国の立場が著しく異なる以上、国連を通じた事実の解明や、問題解決のための措置が取られることはまず期待できない。そうなると、問題は欧米諸国が国連を経ずに大規模な懲罰行動にでるか、ということになる。しかし各国がそのような行動に出ることは、2011年以来の欧米諸国の対シリア政策を根本的に転換する大冒険である。アサド政権打倒を目指してきた欧米諸国やサウジ、トルコ、カタルなどは、紛争勃発以来一貫して「アサド政権を打倒するには過少、紛争と長期化させるには過大」な資源を投入してシリア紛争に介入してきた。また、これらの諸国はアサド政権を打倒した後のシリアの内政・外交の運営や、シリアや近隣諸国の国際関係・安全保障環境の管理のための構想も手順も全く持っていない。化学兵器使用を懲罰し、抜本的な行動に出るというのならば、この問題をまず解消しなくてはならないが、そのためには各国が大軍を投入し、巨額の戦費や復興予算を負担しなくてはならない。問題は、世界のどこにも、そのような負担を喜んでする政府・国民が存在しないことだ。

今回、「またしても」化学兵器使用問題が取りざたされたのは、シリア紛争をめぐる内外の環境が以上のような局面に至ったさなかである。事実関係がどうであろうと、今般の問題が現場の政治・軍事的優劣を覆すことになるとは考えにくい。また、欧米諸国などがシリア政策を多少見直して、「反体制派」の政治団体の復権や、イスラーム過激派を主力とする「反体制派」武装勢力への支援を再開・増強することも考えにくい。なぜなら、「反体制派」の政治団体や武装勢力の処遇の問題と化学兵器は全く別問題だからだ。その上、現段階で「反体制派」の増強を図っても、その結果は「イスラーム国」対策の放置とシリア紛争の更なる長期化にしかならないだろう。

結局のところ、今般の化学兵器使用問題によって生じうる効果は、欧米諸国が「現実を直視」して現在のシリア政府が当面存続することを容認しつつある中、シリア政府が長期的かつ公式に正統性を回復することを妨げる足かせをつけること、となるだろう。これにより、あくまでアサド政権打倒を目指す人々は、自らの存在意義を確認し、運動の将来に希望をつなぐことができるようになるだろう。その一方で、これは欧米諸国がシリアの政治・経済・社会的再建に背を向けることにもつながるので、最終的に一番損害を被るのは、化学兵器使用云々とは無関係の一般のシリア人だけということになるだろう。

中東の専門家(こぶた総合研究所代表)

新潟県出身。早稲田大学教育学部 卒(1998年)、上智大学で博士号(地域研究)取得(2011年)。著書に『現代シリアの部族と政治・社会 : ユーフラテス河沿岸地域・ジャジーラ地域の部族の政治・社会的役割分析』三元社、『「イスラーム国」がわかる45のキーワード』明石書店、『「テロとの戦い」との闘い あるいはイスラーム過激派の変貌』東京外国語大学出版会、『シリア紛争と民兵』晃洋書房など。

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