「イスラーム国」の「犯行声明」は何故できそこないか?

イスタンブルをはじめ、最近トルコの大都市でも襲撃事件などが相次いでいる(写真:ロイター/アフロ)

トルコのナイトクラブ襲撃事件

 2016年の大晦日、年越しのパーティーでにぎわっていたイスタンブル市内の著名なナイトクラブが襲撃され、39名が殺害された。この事件について、2017年1月2日に「イスラーム国 トルコ」名義で「犯行声明」が出回った。声明によると、「キリスト教徒が彼らの多神崇拝的祝祭を祝っていたナイトクラブ」を襲撃したのであり、「これはトルコを標的にせよとの信徒の長の命令に応じたものである」そうだ。トルコを攻撃対象にせよとの扇動は、2016年12月に入ってから「イスラーム国」の首長であるバグダーディーの演説や公式報道官の演説にある。また、トルコの政治や経済、そして世論に影響を与えたいのならば観光業・サービス業とそこに集うお客を襲撃するのはテロ行為としてきわめて合理的である。その一方で、今般の声明も「イスラーム国」の過去の作品群の例にもれず、攻撃の意図や組織の論理についての説明を「攻撃された側」なり「分析する側」に丸投げするかのような「できそこない」である気配が強い。

というもの、犠牲となった39名のほとんどがムスリム(しかもスンナ派)の可能性が高いのである。内訳を見ると、トルコ人が23名、外国人16名のうちサウジ人7名、ヨルダン人3名、チュニジア人2名など、人口のほとんどがムスリムである国の国籍の者が犠牲になっている。また、これらの諸国は2011年以来「イスラーム国」の資源供給源・通過地となっている諸国であり、このことはこれらの国々の内部に「イスラーム国」の組織的基盤や同派に同情的な雰囲気があることをも示唆している。それにもかかわらず「キリスト教徒が彼らの多神崇拝的祝祭を祝っていた云々」と主張し、トルコの為政者や官憲とほとんど無関係の者を殺傷して戦果を誇っている。ここまでになると、「イスラーム国」やその支持者から見ると今般の事件で犠牲になった人々は、「キリスト教徒」とまではいかなくとも「殺して当然」の対象に見えていると割り切るしかない。

ここで、「イスラーム国」のすることは人間のすることではない、「イスラーム国」の行為はイスラームの教えに反する云々との言辞を弄して思考停止のスイッチを入れてしまうことは、今後同種の脅威に備えるためには避けるべきである。「イスラーム国」やその支持者が今般の事件の犠牲者のような人々を殺傷するのを正当化・推奨する論理を持っていることを把握し、なぜそのように考えているのかを解明ことが重要なのである。

「イスラーム国」はなぜ「ムスリム」を殺しても平気なのか?

 「イスラーム国」はスンナ派のイスラームに基づく運動だ、と考えるなら、彼らが様々な襲撃事件や、占拠した地域の「統治」の中で容赦なくスンナ派のムスリムを殺戮することは矛盾した行為のように感じられる。

 元々、「イスラーム国」に限らずイスラーム過激派の間では、ムスリム⇔非ムスリムという二元論で世界を認識する傾向が強い。この認識に則り、キリスト教徒やユダヤ教徒から信仰の維持の代わりに人頭税を取り立てる、2014年夏にイラクの「ヤズィーディー」に対する虐待に見られた女性の性奴隷化・売買のような行為が正当化される。シーア派など一般にはイスラームの範疇に入る諸宗派も、イスラーム過激派から見れば多神崇拝の異教徒か、せいぜい背教者扱いとなる。ちなみに、日本人の大方は非ムスリムの中でも最も嫌われる偶像崇拝者か無信仰者と位置付けられるであろうから、一般のムスリムはおおむね親日的だとか、日本は歴史的にムスリムの共同体を侵略・圧迫した経験がないとの議論はイスラーム過激派を相手にする限りにおいては脅威を避ける材料にはなりにくい。

さらに、イスラーム過激派の間では上記のような二元論と同等かそれ以上に、「ムスリムの中で正しい者」⇔「背教者」という二元論が重要な意味を持っている。そのあたりを雑駁ではあるが整理すると、「アッラーが降した法(=イスラーム法)による統治を実践する」という政治的行為がイスラーム過激派にとって非常に重要な宗教的実践と考えられていることが重要である。この考え方に基づくと、例えスンナ派のムスリムであっても、憲法に代表される人定法(=アッラー以外のものが定めた法律)に基づいて社会を運営したり、そうした制度に従ったりしている者は「アッラー以外のものを崇拝する多神教徒」とみなされる。また、人定法での統治を前提とする民主主義、共産主義やその他の政治的な信条も「異教」扱いとなる。この論理をさらに進めると、「イスラーム国」のような特定の集団や個人の解釈・実践以外の方法で信仰を実践する者は、スンナ派ムスリムでも「正しいムスリム」ではないことになり、せいぜい(暴力的な)矯正の対象にすぎず、作戦行動の過程で彼らが死んでも何の痛痒も感じない扱いになる。

「イスラーム国」の「犯行声明」は何故できそこないか?

 上記を踏まえて、表題の問いに戻ろう。今般の「声明」では、キリスト教徒云々のほか、バグダーディーによるトルコ攻撃指令やトルコによる「ムスリム」殺害に言及している。こうした主張は、トルコによる攻撃や「イスラーム国」抑制策に対するテロ組織としてのいたって俗世的な政治・軍事的な反応として分析すべきである。「イスラーム国」はトルコに対し、今まで同様資源の調達地・通過地であり続けてほしいのだろう。その一方で、「イスラーム国」が「スンナ派ムスリム」を殺戮することを全く厭わない論理構造は声明には全く示されていない。これは、過去に同派が引き起こした他の事件(例えば2016年6月のバングラデシュでの襲撃事件)の「犯行声明」でも同じことである。論理の説明を敵方にやらせ、それを通じて敵方の社会に恐怖を植え付けるという戦術かもしれないが、我々部外者が「犯行声明」の「行間」を読むようなことは誤解の元になるので、お勧めできない。

つまり、「犯行声明」だけの「読み解き」に熱中しても「イスラーム国」の世界観や論理は説明できないのである。また、バグダーディーをはじめとする幹部の「演説」にも彼らの世界観や情勢認識の全容が表明されているとは限らない。声明類を組織の世界観や理念を表明・広報する道具とみなすなら、「イスラーム国」の世界観や論理は作品群に断片的にちりばめられる敵対者に対する差別用語に若干表明されているにすぎない。そうした表現を「そういうもの」として読むだけの予備知識がない者に対しては、広報の道具としての用をなさない「できそこない」なのである。

このような状態にあるが故に、機関誌、論考集はもとより、イスラーム過激派の思考・行動様式を方向付ける上で重要な著述をした者の業績なども対象とする包括的な観察をしないと、「イスラーム国」の思考・行動様式の全貌がつかみにくいのである。その一方で、膨大な著作群を読解する能力や余裕のない者に対し、そのようにして組織の世界観や思考・行動様式を理解することを要求する運動は、大衆に広がり、支持されるだろうか?筆者が現在「イスラーム国」に集っている者の大方を、組織の主張や論理の理解度が著しく低い「戦闘員」か、視聴者を扇動することが自己目的化した報道機関やプロパガンダ機関の影響を受けた直情径行的な人々、自己顕示を主な目的とする者、或いはなにがしかの権益・利権によって結びついた人々と考えるのはこれが理由である。このような人々が過激なのは「暴力行為」の程度であって、彼らの「思想」ではない。

「イスラーム国」の論理や思考・行動様式は、筆者のような者に限らず一般のムスリムにとっても理解に苦しむところが多いだろう。だからこそ、イスラーム上の思想や論理、テロ組織としての普遍的な行動様式・経営方法など、多角的な観察と分析を怠ってはならないのである。