ガンバ大阪・山口智氏/現役引退に寄せて 『これからも、サッカーと生きていく。』

■『引退』の決断

今年の2月上旬、ガンバ大阪が二次キャンプを行っていた宮崎県東諸郡綾町。選手が汗を流すグラウンドの隅で、どことなく所在なさげに練習を見守っている男がいた。昨シーズン限りでの現役引退を決めた山口智だ。かつて01~11年までガンバ大阪に在籍し、数々のタイトル獲得に貢献してきた彼は、5年ぶりに戻った古巣で強化部に属し、新たなサッカー人生のスタートを切っていた。

「いまはまだ正直、落ち着かないです(笑)。せっかくこうしてキャンプに帯同させてもらっているので、練習を含めて、いろんなものを見て、感じようというのが精一杯。選手時代もそうであったように『ガンバを強くするために』という思いで仕事に就きましたが、正直、自分に何ができるのか…というより今はまだ何もできないというのが現実です。僕は20年の現役生活で、一度も代理人をつけたことがなく、その分、毎年、所属チームとの契約交渉は自分で行ってきたので、僕なりに何となく描いている仕事像はあるんですよ。でも一方で、クラブの考え方をしっかりと理解して選手に伝えなければいけない立場だということも自覚しているので。今後はそのあたりを自分の中でもうまく擦り合わせながら、これまで通り情熱をもってサッカーに向きあっていきたいと思っています。それにしても、身体ってボールを蹴っている時のほうが筋肉や関節を使って疲れると思っていたけど、いまみたいに立っているだけの方が疲れるし、いろんなところが痛くなる(笑)。不思議なものですね」

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「まさか、こんな風に引退するなんて、思ってもみなかった」

山口から、そんな言葉を聞いたのは、彼が選手生活に区切りをつけることを決意した1月のことだ。昨年末の時点では所属チームである京都サンガとの契約をもう1年残していると聞いていたが、年が明けた1月6日。クラブから彼との契約に関するリリースが出された。

「このたび京都サンガFCでは、山口智選手と2016シーズンの契約を更新しないことで、両者合意いたしましたのでお知らせします」

その約1週間後の12日、再び、同クラブから出された「現役引退」の報せーー。そこには彼らしく、長きにわたって彼を支えた人たちへの感謝の言葉が溢れていた。

プロサッカー選手として出場した試合数はJ1リーグ448試合、J2リーグ133試合、計581試合。その月日は、96年に当時、Jリーグ史上初となる『高校生Jリーガー』としてデビューを飾って以来、20年にも及ぶ。しかも、その間、彼の姿をJリーグの舞台で観ない日はないというくらい、常に第一線で活躍してきたからこそ、あまりにも唐突な『引退』に驚いたが、それは彼自身も同じだったのだろう。『引退』の経緯について尋ねた第一声は「まさか」の言葉で始まった。

「まさか、こんな風に引退するなんて、思ってもみなかった、というのが正直なところです。もう1年、京都との契約を残していたこともありますが、自分としても現役をやるつもりだったし、やれる自信もあったので。それにジェフとの契約が満了になった後、京都に拾ってもらった恩も感じていましたから。昨シーズンは不甲斐ない1年に終わったけれど、契約は全うしたいと思っていた。ただクラブとの話を進める中で、正直、クラブに必要とされていないのも感じていて。その中で、ここでやるべきなのか、新たにプレーできる場所を探すのか、ということを散々考えた結果、最終的にはクラブとの『契約解除』に合意し、更にその1週間後に『引退』を決めました。この決断にあたって、京都に返事をする前からガンバに話をいただいていたのは大きかったと思います。といっても、その時はまだ現役を続けるつもりだったのでガンバにもその思いは伝えていたんです。ただ、京都を退団することが決まり、次の人生を考えたときに気持ちが揺らいだというか…正確には、ガンバでなければ『引退』の決断はせずに、間違いなく現役続行の道を選んだと思います。ありがたいことにオファーを戴いたクラブもありましたしね。でも、最終的には、ガンバに気持ちが傾いた。と言葉にすれば簡単だけど、その結論を出すにはかなりグラグラしました(笑)。朝、目覚めたら『やっぱり現役だ』と思っている自分がいるのに、眠る時には『ガンバに戻ろうかな』と考えている自分もいて。家族には僕の決断に任せると言ってもらっていたのですが、妻には繰り返し、揺れる気持ちを聞いてもらっていました。ただ決断した今はもう、後悔はありません。もちろん、現役生活には未練はありますよ…これは何年やっても残るものだと思います。でもここから先はとにかく、自分の選択を『良かった』と思えるものにするために新たなサッカー人生を送りたい。今はただ、そのことだけを考えています」

■20年のプロ生活。ターニングポイントになった2001年。

山口のプロとしてのキャリアは華々しくスタートした。高知県で生まれ育った彼が地元を離れ、ジェフユナイテッド千葉ユースに所属したのは94年。そのわずかに2年後、Jリーグ史上初めて、高校3年生(17才354日)ながら、3月20日のJリーグ・京都パープルサンガ戦でJリーグデビューを果たした。今でこそ二種登録選手がJリーグに出場することも珍しくなくなったが、前例がなかった当時は違う。それゆえ、大きなプレッシャーを感じていたと振り返る。

「当時はユースの選手がトップチームの練習参加をすることはあっても、試合に出ることはなかったですから。トップチームに昇格してもアウェイ感が半端なかったし、周りにも間違いなく『あいつは誰?』『プロでもないのに…』と思われていたはずですからね。いや、少なからず僕自身もそういう違和感を感じていた(笑)。ただ、それが返って自分の反骨心になったというか。当然ながら、僕が出場することで試合に出られないプロ選手がいるからこそピッチに立つ責任は感じていたし、中途半端なことはできないという思いもありましたが、一方で僕が決めたことじゃないんだから、と開き直ってもいて(笑)。そういう思いをパワーに変えてプレーしていたところはありました」

結局、そのシーズンはJリーグ12試合に出場。正式にトップチーム昇格を果たした97年以降も、コンスタントにJリーグのピッチに立つ。それと並行して若い世代の日本代表にも選出。世界の舞台での経験を糧に成長を続けながら、活躍をみせた。

だが一方でチームは毎年のように下位をさまよい、残留争いに巻き込まれることに。そうしたチーム状況もあり、かつ、自身も00年のシドニー五輪で予備登録選手にまわった悔しさもあって、徐々に環境を変えてプレーする必要性を自身に求めるようになる。と同時にクラブにもその思いを伝えていた中でオファーが届いたのがガンバ大阪だった。

「期限付きか、完全移籍かは別として、話をもらった瞬間はとにかく『行きたい』と。そこは自分の中でも迷いはなかったので、その意思は伝えてクラブ間で話を進めてもらい最終的には期限付き移籍をすることになりました」

だが、初めての移籍はスタートから全てがうまくいった訳ではなかった。開幕戦にこそ先発出場したものの、以降は、厳しいポジション争いの中、出場できなかった試合もある。時に、本来のセンターバックではなくボランチでプレーしたこともあった。ただ、そうした経験も含め、その1年が、彼にとっては『ターニングポイント』になったと山口は言う。

「期限付きでガンバに在籍しているにも関わらず試合に出られない事実は悔しさもある一方で、ツネさん(宮本恒靖/現ガンバ大阪ユースチーム監督)やノリちゃん(實好礼忠/現ガンバ大阪アシスタントコーチ兼U-23監督)、昌雄さん(木場)らとレベルの高い競争をできたことは刺激にもなった。また、翌年、千葉に帰るという選択肢もあった中で『ここで逃げたら、ガンバに来た意味がない』と自分なりに覚悟を決められたことが、『完全移籍』にも繋がったし、自分のサッカー人生にも大きなターニングポイントになったと思っています」

完全移籍となった02年以降は、新監督に就任した西野朗氏のもと、自らの決意を結果で示すことでレギュラーポジションをものにした。当時のガンバ大阪は、遠藤保仁(ガンバ大阪)や新井場徹、橋本英郎(セレッソ大阪)ら、山口と近しい世代の若手選手の台頭が目立ち始めた時期。と同時にチームも、右肩あがりの成長を遂げ、優勝争いに顔を出すことが増えていく。その中にあって山口もまた必要不可欠な選手として存在し続けた。

そうした状況下でガンバ大阪が残した栄誉は数知れない。05年のJリーグ初優勝に始まって、07年には初のナビスコ制覇、08、09年には天皇杯連覇を実現。また、特筆すべきは、08年のAFCチャンピオンズリーグ(以下、ACL)を征してアジア王者に輝いたことだろう。その記憶は山口の脳裏にもしっかりと焼き付けられている。

「大会ごとにいろんな思い入れはありますが、08年のACL制覇からその後のクラブワールドカップ(以下、CWC)出場、天皇杯優勝までの戦いは、今思い返しても、サッカー人生で最も記憶に残る時間だったと思います。特に、このシーズンは僕自身、ケガなく1年を通して試合に出続けることができましたしね。中でもACL準決勝第2戦・浦和レッズ戦で決めた自身の同点弾は『生涯一』のゴールとして刻まれているし、アジアチャンピオンになった後、CWCを経て戦った天皇杯も印象深い。同シーズン、リーグ戦での成績が奮わなかった僕らは、その時点で翌年のACLへの出場権を掴めていなくて。天皇杯で優勝するしか道は残されていなかった中で、本当に全員が勝利への執念を燃やして、決勝まで戦い切り、優勝した。あの時、チームに宿っていたエネルギーは、言葉で表現できないくらいすごいものだったし、僕自身のサッカー人生においてもかけがえのない経験になった」

■引退。そして、新たな道へ。

プロサッカー人生の半分以上の時間を過ごしたガンバ大阪を離れるという決断をしたのは11年のシーズン終了後だ。そのシーズン限りで、彼が「サッカー選手として大きな影響を受けた監督の一人」に挙げる西野朗氏がチームを去ったのに伴い、彼は古巣・ジェフ千葉からのオファーを受け入れる。

そのジェフ千葉での復帰1年目、2012シーズンは、長らくJ2リーグから抜け出せないでいたチームのJ1復帰を目指して心血を注ぐも、J1昇格プレーオフの決勝で敗れてJ1昇格は叶わず。翌2013年も、2014年もJ1昇格プレーオフには進出したものの、結果は同じで彼自身の目標の1つだった『J1昇格』を実現することができないまま、2014シーズンを終了する。その数日後、契約満了が言い渡された。

そうした状況下では初めて「サッカーができなくなるかもしれない」という不安な日々も過ごし、「何らかの可能性に繋がるのなら」とJリーグのトライアウトにも参加するなどしながら最終的には、京都サンガとの2年契約を結んだ山口。だが、結論からいって、その京都での1年はプロサッカー選手としてのキャリアにおいて、最も苦難の1年になったと言えるだろう。

持ち前のキャプテンシーを評価され、キャプテンを任された中で、開幕のアビスパ福岡戦では先発出場。移籍後初ゴールを飾るなど順調にシーズンをスタートさしたかに見えたが、チームの成績不振の責任をとる形で、和田昌裕監督が7月10日に解任されてからは出場機会が激減。以来、J2リーグ戦への出場は、先発が1試合、途中出場が1試合に留まるなど、悔しさを募らせながら2016シーズンを終える。そして、冒頭に書いた現役続行を望みながらの京都退団と引退の決断ーー。20年という長いキャリアの殆どを第一線で活躍してきたからこそ、その幕切れをあまりにもあっけなく感じているのは他ならぬ山口自身でもあるはずだが、それでも彼は、自らのサッカー人生を振り返り、改めて『サッカー』への感謝を口にするとともに、自らの『引退』にこんな言葉で区切りをつけている。

「僕のサッカー人生は本当に、運に恵まれ、支えられた20年だったと思います。常々、自身のターニングポイントと言えるタイミングでは素晴らしい指導者の方に出会い、仲間に恵まれ、キャリアを築くことができた。こうしていまガンバに戻ってくるチャンスをいただいたことも、本当にありがたい話でしたしね。ずっとサッカーと生きてきたからこそ、引退後は漠然とながら『指導者になろう』と思っていた中で、違う形とはいえサッカーと関わるチャンスをもらえたことに感謝の気持ちしかない。それに…サッカー選手にとって引退の決断ってとても難しく、どんな形であれ何かしらの未練を残すものだと改めて実感する一方で、こうして次の戦う舞台を用意してもらえる選手は多くはないという思いもある。だからこそ、こういうチャンスを貰えたのはある意味、サッカーの神様からのご褒美だったのかな、と(笑)。特に今年はガンバにとって、新スタジアムでの新たな歴史をスタートさせる年。僕が以前、在籍していた時に使っていたクラブハウスはもうないだけに、そういう意味でも新たなクラブにきたような気持ちで新たなスタートを切りやすい状況ですしね。もちろん、その中では現役時代と変わらず、たくさんの人に『山口智がこのチームにいてよかったな』と感じてもらえるような仕事をしたいと思っています」

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そんな風に新たな人生への決意を聞いてから約2週間後の2月14日。新スタジアムのこけら落としとして開催された、パナソニックカップ『ガンバ大阪VS名古屋グランパス』戦の試合前にOB戦を兼ねた、彼の引退試合が開催された。その舞台にはサプライズゲストとして2人の愛息の姿も。周りの選手の気遣いもあり、幾度となく巡って来た『ゴールチャンス』を愛息に譲り続けた山口は、試合後「みんながゴールを決めろと言ってくれたけど、息子がゴールを決めさせてもらったので十分です。にしても、今日の試合に参加する話を僕に隠し通したあたりに、息子の成長を感じました」と笑顔を魅せた。そのすっきりとした表情をみながら、彼が引退に際して話していた『家族』への思いが蘇る。

「家族には本当に感謝の気持ちしかありません。ずっと自分の好きなようにやらせてもらってきたし、支えてもらってきた。ここまで現役を続けられたのは、大きなケガもせず、気持ち的なストレスを抱えることなく戦ってこれたから。日々の食事を含め、いつも僕の話を聞いて、いろんなサポートをしてくれた嫁には本当に感謝しています。高校時代に知り合ってからここまでずっと側でいろんなことを見てきたせいか、最近はサッカーに関して言うことがあまりにも図星過ぎて面白いくらいで(笑)。でも彼女の言葉に何度も自分を見つめ直すことができたし、2人の息子の存在も僕には大きな力になった。引退をしてまたガンバにお世話になるということを伝えた時に、どんな反応をするのかなと思っていたら『じゃあ、またガンバの応援ができるんだね』と。2人とも大阪育ちだけに周りにもガンバファンが多いし、下の子はガンバのスクールにも通っていますからね。僕がガンバを離れてからは彼らなりにガンバを応援するのを我慢していた部分もあったのか…でも彼らからそういう言葉を聞けたのは嬉しかったし、だから『うん、一緒に応援しよう』と伝えました。もっとも長男は、嫁には「もう少しやってほしかった」的なことも話していたみたいですけどね。それを僕には言わないのも、彼なりに僕の気持ちを汲み取ってくれたのかな、と。そういう家族の存在は、新たな人生を踏み出すにあたっても、僕の大きな力になっています」

山口は今後、主に、J3リーグに参戦するU-23チームに目を配りながら強化部の仕事にあたる。冒頭にも書いた通り、就任間もない今はまだ、正直、自身の具体的な仕事についても、これまでの経験をいかに活かせるのかも明確には見えていない。ただし、これからも『家族』の存在を力にしながら「とことんサッカーに向き合い、真正面からぶつかって生きていく」ことだけは決めているそうだ。まさに、現役時代の彼がそうして戦い続けてきたように。