ウマ娘に登場!"繊細な重戦車"メジロアルダン、ガラスの脚との闘い/史実シリーズ
"重戦車"と呼ぶには脆い脚元
ゲーム「ウマ娘 プリティーダービー」にメジロアルダンが実装された。
メジロアルダンは1985年生まれの競走馬で、生涯成績は14戦4勝。500キロを超える大きな馬体を沈めるように低い重心を保ちつつ前肢をかき込むように繰り出すフォームは特徴的で、ファンやメディアはその姿を"重戦車"と例えた。
しかし、重戦車を名乗るにはあまりに脆かった。
姉・メジロラモーヌと同じ奥平真治厩舎へ
メジロアルダンは仔馬時代から素晴らしく目をひく馬体をしており、しかも姉は三冠牝馬のメジロラモーヌということで著名な厩舎が預かりたがった。しかし、馬主は姉・メジロラモーヌと同じ美浦・奥平真治厩舎を指名した。
メジロと奥平真治厩舎の最初の繋がりは、メジロラモーヌだった。メジロラモーヌは結果として偉大な成績を残したが、奥平師に預けられるのが決まった当時は「とても貧弱な体」(奥平師)をしており、あまり期待を寄せられてはいなかった。そんなラモーヌをたくましい体に変え、桜花賞トライアル(四歳牝馬特別)からエリザベス女王杯まで勝ち切る馬に育てた手腕が買われたのだ。
■1986年桜花賞(GI) 優勝馬メジロラモーヌ
メジロ軍団の馬名は毎年、何らかのテーマに沿って名付けられる。アルダンの世代は過去の名馬の名がつけられた。アルダンの名は1944年に仏・凱旋門賞を勝った「Ardan」からとられた。この「Ardan」号との血統的な繋がりはないが「Ardan」にはゲール語で高い場所、ステージの意味があり、メジロアルダンに強い期待が寄せられていたのがうかがえる。
翌週は4月…デビュー前から脚部不安と戦いダート戦でデビュー
しかし…。奥平真治厩舎へやってきたメジロアルダンだが、デビューさせるまでにはかなりの時間を要した。3歳(現2歳)の若馬は成長過程において管骨骨膜炎、俗称でソエに悩まされるがアルダンもその例外ではなかった。当然、クラシックを目指すべく育てられたが、デビューは遅れに遅れ、4歳(現3歳)3月27日にようやくなんとか実現した。東京2レース、ダート1200m。その日は晴れたが、前日の降雨の影響で馬場コンディションは不良になっていた。これは、本来は芝馬で脚元が弱いアルダンにとってスピードの出る脚抜きのいいダートになったのは好都合だった。所属の柏崎正次騎手を背に先行してレースを進め、勝ち切った。
無事、アルダンは最初の一歩を踏みだしたが…。その日のメインレースは皐月賞トライアルのスプリングSが行われており、ライバルたちは続々と賞金を積んでクラシックにそなえていた。1989年の日本ダービー(GI)は5月29日に行われる。あと、たった2か月しかない。ダービーに間に合わせるために陣営は覚悟を決めた。
日本ダービー出走のために課せられた過酷なミッション
脚元が弱いアルダンに詰めた間隔でレースをさせなければならない――。
メジロアルダンが日本ダービー(GI)に出るためには、まず400万条件(現・1勝クラス)を勝ち、トライアルで権利を取り、さらに最高の状態で日本ダービーに出走させなければならないのだ。健康な馬でもこのミッションをこなすのは大変なことなのに、脚元の弱いアルダンにとってはなおさらであった。
メジロアルダンは500キロを超える大型馬で、脚元への負担もより大きかった。その体を支える股関節やトモ(後肢の筋肉)、飛節(後肢にある関節)に甘さがあり、そのケアは本当に大変だったのだ。
それでも、メジロアルダンと陣営はそれをやってのけた。
4月17日、この年は中山競馬場が改修工事中だったため、東京競馬場で皐月賞(GI)が行われた。その日、メジロアルダンが出走したのは1勝クラスの山藤賞。のちに長き間、主戦騎手となる岡部幸雄騎手とコンビを組み、逃げきって1着を確保した。ちなみに、この日の皐月賞(GI)で優勝したのは、あのヤエノムテキだった。
続く3戦目は5月8日のNHK杯(GII)。現在、NHKの社杯はNHKマイルC(GI)という名称で同時期にマイルGIとして行われているが、1988年当時はダービートライアルの位置づけで芝2000mで行われていた。
当時は権利取得はもちろん、本番を狙うためのステップとして有力馬が出走することが少なくなかった。そのため、メンバーはかなり揃った。1番人気は3歳(現2歳)チャンピオンのサッカーボーイ。クリスタルC(GIII)2着のギャラントリーダー。ダービー制覇を願ってやまないマイネル軍団はいちょうSを勝ったマイネルロジック、さらにマイネルグラウベンを配した。
出走は16頭のフルゲート。メジロアルダンは大外の8枠16番に入った。いつもどおり先行して好位でレースをすすめると、ラスト200m付近で先頭に立った。が、同じ8枠のマイネルグラウベンが外から併せてきた。この2頭がそのまま馬体を併せるかたちで先頭争いへ。その外からコクサイトリプルもくるが、この3頭の脚色は一緒だった。最後の最後、メジロアルダンよりもマイネルグラウベンの体が若干前に出て、メジロアルダンをアタマ差だけ抑えて1着でゴールを決めた。
賞金順でメジロアルダン同様、400万下特別のアザレア賞を勝って2勝していたチュニカオーはNHK杯で12着に敗れ、残念ダービーと言われた白百合Sに出走しており、もしもメジロアルダンがNHK杯で権利を取れていなかったなら、ダービーの出走ボーダーには達していなかった。ホントにギリギリで日本ダービーへの切符を手にしたのだ。
日本ダービー、いったんは先頭に立ったメジロアルダン
いよいよ、日本ダービー当日。中2週、中2週の厳しいローテーションを耐えたアルダンは決して万全の状態ではなかった。それでも、この頂点を目指してきた以上、ここを走らなければならない。アルダンの状態はギリギリだった。鞍上の岡部騎手はレースの直前「途中で(レースを)やめるかもしれない」と陣営に伝えたほどだ。
そのくらい決死の覚悟でメジロアルダンと岡部騎手は生涯、たった一度しかないダービー優勝を目指した。
道中は先行集団につかず離れずの位置でレースを進めた。そして、勝負どころの4コーナーでは先頭を伺う勢いで上がっていき、直線、ラスト400mでスパートに入った。人気のサッカーボーイははるか後方だ。皐月賞馬ヤエノムテキは大きく離れた外にいた。内でギャラントリーダーが抜け出しをはかっているが、メジロアルダンのほうが勢いは上だ。前に朝日杯3歳S(GI、馬齢表記は当時のまま)、弥生賞(GII)を勝っているサクラチヨノオーがいるが、ラスト150m付近でそれもかわして先頭に躍り出た。とうとう、日本ダービーの最後の直線で先頭に立った。サクラチヨノオーより半馬身ほど前に出た。このまま押し切れば、頂点に立てる。栄光はもう目の前にあった。
■1988年日本ダービー(GI)
しかし。そこから小島太騎手が操るサクラチヨノオーが再び迫ってきた。小島太騎手は外からコクサイトリプルが追い込んできたタイミングで、豪快なアクションでサクラチヨノオーに二の脚を使わせた。半馬身ほど前にいるメジロアルダンにぐいぐいと迫り、併せながら上がっていった。そして、ゴール板付近、最後の最後でクビ差かわした。小島太騎手は時々、アッと驚かせる手綱さばきを見せたが、この日のプレイもそのひとつだった。
中2週、中2週の厳しいローテーションを耐えたメジロアルダンだったが、これが限界だった。骨折が判明し、休養に入った。
初重賞勝ちは高松宮杯
1989年、復帰を目指して調教を重ねるも、脚元は依然としてモヤモヤを抱えたままだった。メジロアルダンは調教では格下馬と併せることが多かった。調教ではあまり走らなかったが、これは賢いアルダンが自らセーブしていたのかもしれない。
岡部騎手も自ら調教で手綱をとりながら、メジロアルダンの復帰時期を画策していた。ようやく皆が納得いく状態になり、レースに復帰したのは5月27日のメイS。無事危なげない競馬で優勝した。翌日は日本ダービーであり、丸1年の休養期間となっていた。
重賞未勝利だったメジロアルダンがやっと勝利に恵まれたのは高松宮杯(GII)。夏の中京で行われ、このときは海外遠征する岡部騎手に替わって姉・メジロラモーヌの主戦騎手だった河内洋騎手が手綱をとった。
好位からレースを進め、4コーナーで逃げるダイユウサクに並ぶと、そのまますんなり先頭に出て、押し切った。2着は同年5月の安田記念(GI)で岡部騎手が優勝へ導いたバンブーメモリーだった。
メジロ軍団にとっては天皇賞が一番のレースであった。これはメジロ牧場の創始者である北野豊吉氏の考えであり、宮家の冠レースである高松宮杯を勝てたことは喜ばしいことだった。
1989年、メジロアルダン5歳(現4歳)の秋は毎日王冠から天皇賞(秋)へと駒を進めた。オグリキャップ、スーパークリーク、イナリワンらと好戦を演じたが、主役にはなれず3着に終わった。
■1989年天皇賞(GI) 優勝馬スーパークリーク
そして、ジャパンカップに出走を予定していたが、右前脚に屈腱炎を発症して出走を断念。再び、休養に入った。
名手と別れ、鞍上は若手のホープ・横山典弘騎手に
そして――。苦楽を共にした名手・岡部騎手との別れの日がくる。1990年、岡部騎手は天皇賞(秋)はヤエノムテキに乗ることを選んだ。当時は今ほど東西の交流が盛んではなく、関西馬に関東の騎手が乗ることも多くはなかった。しかし、ヤエノムテキ陣営は復活を賭けて同年春の安田記念(GI)から岡部騎手に手綱を任せていた。
一方、メジロアルダンの潜在能力の高さは目を見張るものがあるが、脚元は弱いままだった。不治の病と呼ばれる屈腱炎を抱えた繊細な状態で、思うようにレースに出走できずにいた。8月に函館の巴賞での復帰をもくろむも、仕上がらず、9月のオールカマー(GII)に使うのがやっとだった。
そこで、陣営は天皇賞(秋)はメジロアルダンの鞍上に若手のホープ・横山典弘騎手を配した。横山典弘騎手は奥平真治師の妹の子であり、同年の日本ダービー2着のメジロライアンの主戦も任せていた。
メジロアルダンはこれまで最後の直線、坂を駆け上がったあたりでいったん先頭を伺うも他馬に差されるレースを続けていた。しかし、横山典騎手はこれまでより若干下げ、前を捕らえる競馬をした。ラスト200m、最内からヤエノムテキが抜け出して先頭に躍り出た。ラスト100m、ヤエノムテキの脚色は衰えず後続を引き離しにかかる。ここで、メジロアルダンは2番手へ。2馬身ほど前を行くヤエノムテキとの差を1馬身、半馬身と詰めた。横山典騎手の右ムチに応えるようにメジロアルダンはグイグイと伸びるが、ゴール板ではアタマ差及ばなかった。
■1990年 天皇賞(秋)
その後、有馬記念、日経新春杯と続戦するが冴えないレースが続き、再び右前屈腱炎を発症したため、三度目の長期休養に入った。1991年秋の富士Sで復帰するも結果は出せず、ジャパンカップ(GI)で14着に敗れた後、今度は左前脚に繋靭帯炎を発症し、引退の運びとなった。
中国で産駒のウーディーが大活躍
種牡馬となったメジロアルダンはブリーダーズ・スタリオン・ステーション、アロースタッドを経て、2000年に中国・北京の龍頭牧場へ行った。翌2001年に亡くなった。僅か2シーズンの中国での種牡馬生活だったが、ウーディー(Wu Di)という圧倒的な成績を収めた子を残した。そして、このウーディーは中国で種牡馬として大活躍しているという。
筆者はメジロアルダンが好きでたまらなかった。異国の地でもメジロアルダンの血が残され、活躍していて本当によかった。
冒頭の写真は筆者が競馬記者になって駆け出しの頃、種牡馬になったメジロアルダンに会いに行った時のものだ。引退してもなお凛として華があり、本当にカッコよかった。
そして今、30年以上前に活躍しGIを勝てなかったメジロアルダンが人気ゲームで取り上げられ、たくさんの方に認知して貰えることに喜びを覚えている。
デビューから2か月で日本ダービー出走という難しいミッションをやり遂げただけでなく、いったん先頭に立っての2着にきたメジロアルダン。まさに記録には残らないが記憶に残る名馬だった。