30歳。天寿を全うしたビワハヤヒデ

 21日未明、ビワハヤヒデが死んだ。筆者はそれを繋養先である日西牧場の高山直樹さんが投稿したTwitterで知った。

 30歳、競走馬としては十分長生きだ。

 現役引退後は日西牧場で種牡馬生活を送り、種牡馬を引退したあとも功労馬としてこの地で悠々と暮らしていたそうだ。

 高山さんは愛馬の死を惜しむ。

「これまで何度か弱ったことはあったのですが、今回は最後は立てなくなってしまいました。」

 筆者はビワハヤヒデの現役時代、何度か厩舎で取材をさせていただいた。ビワハヤヒデはとても賢く、自分が何をすればいいのかよく理解している競走馬だった。それは晩年も変わらなかったようで「無駄な動きをしない馬」(高山さん)だったそうだ。何度か生死をさまよったこともあったそうだが、これまでは無事回復しここまで生きた。賢いビワハヤヒデだけに、自らの体力の消耗を感じ取りながら生きてきたのだろうが、今回は力尽きてしまった。これが天寿だったのではないか。

雪の放牧地を歩くビワハヤヒデ(2020年2月撮影、提供:日西牧場)
雪の放牧地を歩くビワハヤヒデ(2020年2月撮影、提供:日西牧場)

4コーナーで必ず浮かび上がる白い顔

 ビワハヤヒデの現役生活は実に華やかなものだった。16戦10勝2着5回。連対を外したのはたった一戦で現役最後のレースとなった天皇賞(秋)のみ。好位から抜け出す正攻法の競馬で実に安定した成績を残してきた。

 芦毛は年を重ねるごとに毛色が白くなっていくが、ビワハヤヒデは顔の正面に生まれつき白い毛がたくさん生えていたことから、4コーナーから抜け出る時、白い顔が浮き出るようにすごく目立っていたのも印象的だった。

 1993年のクラシック戦線においてビワハヤヒデは皐月賞、ダービーと2着が続いていたが、菊花賞ではいつもより早く直線を向く前の4コーナーで先頭に躍り出て、見事に優勝。このタイミングでの抜け出しは普通なら少し早い印象を受けるが、この時のビワハヤヒデはここからが実に強かった。後続馬たちは馬群のまま大きく抜け出す馬がいない中、ビワハヤヒデだけがどんどんと着差を広げていく。最終的には2着のステージチャンプに5馬身差をつけての圧勝だった。

■1993年 菊花賞

BNW対決、2着になっても”負けて強し"

 1993年の牡馬クラシック戦線は皐月賞馬ナリタタイシン、ダービー馬ウイニングチケット、そして菊花賞馬ビワハヤヒデが対決したことから、各馬の頭文字をとって"BNW"対決という言葉がスポーツ紙を賑わせた。

 また、2着に敗れたレースでは"負けて強し"の印象を強く与えた。一度先頭に立ったあと、他馬に抜かれると気持ちが萎えてしまいずるずると後退する馬もいるが、ビワハヤヒデはいつも最後の最後までしっかりと食い下がったる根性をみせていたからだ。頭のいい馬は、それ故にズルさをみせることもある。しかし、ビワハヤヒデはレースにおいてそういった手抜きを感じさせることはなかった。本当に真面目で賢い競走馬だった。

■1992年 朝日杯3歳ステークス(当時の3歳=現2歳馬。馬齢表記が当時と2020年現在とでは異なる。)

■1993年 皐月賞

■1993年 ダービー

完成期、古馬時代は天皇賞(春)と宝塚記念を制覇

 古馬になってからもビワハヤヒデは安定した走りを見せた。天皇賞(春)は正攻法の競馬で直線で抜け出すと、他馬に差されることなく力強く優勝。

■1994年 天皇賞(春)

 続く、宝塚記念でも3コーナーから4コーナーにかけて早めに先頭に抜け出ると、そのまま後続を引き離して5馬身差で圧勝。ちなみに同時期に半弟(父が異なる異父弟)のナリタブライアンが皐月賞では3馬身半、日本ダービーでは5馬身と圧勝を続けていた。この年の春競馬は、この兄弟による圧勝劇に圧倒されっぱなしであった。

■1994年 宝塚記念

 1994年秋、ビワハヤヒデは産経賞オールカマーでライバル・ウイニングチケットを負かしてGI戦線に向けて順調に秋緒戦をこなした。半弟のナリタブライアンには菊花賞で三冠達成の期待がかかり、この兄弟にはたくさんのファンが強い期待を寄せていた。

ビワハヤヒデが教えてくれたこと

 1994年10月31日、この日行われた天皇賞(秋)は春秋制覇をかけて臨んだ一戦だった。単勝オッズ1.5倍という数字が裏付けるようにビワハヤヒデ断然というムードの中、レースを迎えた。

 この日、いつものとおりスタート後はすぐに好位3、4番手を確保し、そのままのポジションでレースを進めていた。スローペースの展開。そして、4コーナーではいつもどおり白いビワハヤヒデの顔が浮かび上がった。

 が、しかし。いつもならここから先頭に立って押し切るはずのビワハヤヒデが、伸びない。かといって、ずるずると後退するわけでもなく5番目にゴール板を駆け抜けた。

 そしてレース後、健康なら騎手が跨ったまま引き上げるが、このとき、引き上げる途中で鞍上の岡部騎手はビワハヤヒデから降りた。不幸中の幸いは、このときビワハヤヒデが極端にバランスを崩すことなく歩いていたことだ。診察の結果、左前浅屈腱炎と診断され引退が決まった。

■1994年 天皇賞(秋)

 天皇賞(秋)の1週間後、弟のナリタブライアンが7馬身差をつけて菊花賞を制し三冠馬となった。この圧勝劇には数々の称賛とともに兄弟の直接対決が叶わないことを惜しむ声が数多く聞かれていた。

 ビワハヤヒデの生涯を振り返ると、改めて彼の賢さには教えられるものがある。

 ビワハヤヒデは無駄なことはしないが、その一方で自分に与えられた使命については、いつも力の限り頑張っていた。

 最後の一戦、レース中に怪我を負っていたのだからビワハヤヒデ自身も脚元に違和感を感じながら走っていたはずだ。しかし、そのような状態であるにも関わらず、いつもほどではないがゴール板を過ぎるまでしっかりと走ることを辞めなかったのはビワハヤヒデなりにそのとき出来ることを頑張りぬいた証のように感じる。

 普段は無駄に力を使わず、やるべき時に力を出し尽くす。

 長くいいコンディションを保つ秘訣を教えてくれたビワハヤヒデに改めて敬意を表す。合掌。