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【3.11と野球】あの日、気仙沼にいた野球少年の選択。Enjoy the unknown,

高橋昌江フリーライター
佐久長聖高校を卒業し、アメリカの大学に進学する奥玉雄大さん(筆者撮影)

 宮城県気仙沼市で暮らしていた小学1年の時、東日本大震災を経験した奥玉雄大(ゆうたい)さん。PL学園高で甲子園に出場し、社会人まで野球を続けた父親の影響で幼少期から野球に親しみ、小学6年の時は楽天ジュニア入りした。この春、野球に打ち込んだ佐久長聖高校(長野)を卒業し、アメリカの大学に留学する。ウエイン・W・ダイアーの『自分のための人生』(渡部昇一=訳)が現在の座右の書。そこから得た「未知を楽しめ」を胸に海を渡る。

■協定校のマーセッドカレッジへ

 雄大さんが進学するのは、佐久長聖がパートナーシップ協定を結んでいるカリフォルニア州立マーセッドカレッジ(Merced College)。2年制の大学で、準学士号を取得後に4年制大学に進む学生が多い。ビジネスやスポーツマネジメントについて学ぶ予定の雄大さんもマーセッドカレッジで野球と勉強を両立し、4年制大学への編入を志望。その際はディビジョン1(DivisionⅠ)に属する大学に進みたいと考えている。

「アメリカに行くことが決まってから、アメリカの大学野球に関して調べました。YouTubeで最初に見たのが全米王者を決めるチャンピオンシップ。大学生の試合がバックネット裏も一、三塁側も、外野もたくさんのお客さんで埋まっている。そういう中で試合をしていることにワクワクしました。試合でも、みんな、めっちゃエキサイトしていて、楽しんでやっている感じがある。体つきもすごいので迫力もあって。ここでプレーしたいなと思いました」

 選手の一挙手一投足に歓声が上がる。プレーしているのは大学生だが、メジャーリーグを見ているかのような“ノリ”を感じることができる。幼い頃から日本のプロ野球よりもメジャーリーグが好きで、興味を持っていたのはアメリカのバスケットボールやアメリカンフットボール。「一番、好きな試合」だという昨年のカレッジ・ワールドシリーズのハイライトを見ながら「かっこいいです」と目を輝かせている。

「将来を考えた時、いろんな国から学生が集まるアメリカの大学で英語やいろんな国の言語も学べたら選択肢が広がるだろうと思いました。いずれは起業したいのでビジネスも学びたいですし、スポーツマネジメントについても学んでみたい。野球も高いレベルでやってみたいですし、アメフトを見るのも好きなので、遊びでもいいからプレーしてみたい。いっぱいやりたいことがあるので、行くのなら絶対にアメリカの大学だなと思ったんです」

 今でこそ夢と希望を抱き、晴れ晴れとした気持ちで渡米を控えているが、ここに至るまで、進路に関しては悩んだ時期もあったという。

高校を卒業し、5月の渡米までは実家がある岩手県北上市で過ごしている。中学以来の北上の桜に、「桜、好きなんですよね」と柔らかな笑顔を浮かべる(筆者撮影)
高校を卒業し、5月の渡米までは実家がある岩手県北上市で過ごしている。中学以来の北上の桜に、「桜、好きなんですよね」と柔らかな笑顔を浮かべる(筆者撮影)

■日本の大学か、それとも…

 グローバル社会で活躍する人材育成に力を入れ、「世界の佐久長聖へ」をスローガンに掲げる高校で3年間を過ごした。だが、目指していたのは、高校球児として甲子園。「学校で留学を募集しているポスターなどは見るのですが、大学を決めるまでは目もくれず」と苦笑する。

「怪我が多かった」という高校野球で最後は外野の定位置をつかんだ。春以降に打撃の調子が上がり、3年夏は毎試合、安打を放った。準々決勝で敗れ、甲子園には届かなかったが、「悔しかったんですけど、それ以上に得られたものがあって、やり切ったという気持ちが大きかったです」という。高校野球を終え、進学先としていくつかの日本の大学が候補に挙がった時、将来を真剣にイメージしてみた。

「日本の大学に行ったら、流れのまま就職活動などをしてしまいそうだなと思ったんです。もしも、野球を続ける選択ができ、社会人野球などで続けたとしても、いずれは引退する。その後は何かしら働くことになります。それは多くの人がたどっている道。自分はみんなと同じよりも、違う道で頑張ることが好き。いろんなことを考えた時、アメリカの大学に行った方が自分の人生にとって大きくプラスになると思い、挑戦してみたいというところからはじまりました」

 ちょうど、女子サッカー部に所属しているクラスメイトがスペインに行くことになり、「僕もありだな」と選択肢が海外に広がった。そして、佐久長聖が協定を締結しているマーセッドカレッジに野球部があったことも影響した。

 進学には英語検定2級の合格が必要だった。10月の検定は不合格だったが、「自分のレベルがどれくらいなのかを知ることができた」と落ち込むことはなかった。合格ラインに足りなかったのは2点。夏まで野球中心の生活だったことを考えると、「受かっていたらラッキーくらいの気持ち。逆に、自信になりました」という。「次は合格できる」と焦らず、勉強に本腰を入れた。

「英語をしゃべりたい」という思いは小学生の頃から強く、辞書を買ってもらうほど英語が好きだった。中学でも得意科目だったが、日本の英語教育は実際に英語を口にする時間が短い。「喋るのは自分も苦手です。でも、そのお陰でリーディングは得意」。検定の合格に向け、ポイントになったのはスピーキング。ALTの先生に手伝ってもらい、次の検定が行われる12月まで話す力を高めた。2月に合格が分かり、「あの2ヶ月は大きかったです」とうなずく。

「ヨーロッパだとスピーキングを重視していて、逆にリーディングやライティングはあまり得意じゃないと聞いたことがあります。文法や正しい単語に関してはアメリカ人よりも日本人の方が知っているという話も聞くので、喋ることに関してはこれからですが、勉強では有利なのかなと感じています。これから日常的に英語を喋ることでもっと英語力を上げることができると思うと、楽しみな方が大きいです」

 やっぱり、目が輝いている。

卒業式後、「いろんな壁を乗り越えてきた」という野球部の仲間たちと。硬式野球部から協定校に進むのは初めて。「後輩の中からも、挑戦してみたいと思ってくれる人が出てきたら嬉しいですね」(奥玉雄大さん提供)
卒業式後、「いろんな壁を乗り越えてきた」という野球部の仲間たちと。硬式野球部から協定校に進むのは初めて。「後輩の中からも、挑戦してみたいと思ってくれる人が出てきたら嬉しいですね」(奥玉雄大さん提供)

■小学1年の時に東日本大震災を経験

「いろんな国の人と触れ合えることも楽しみです。自分は新しい土地に行くことが好きなので(笑)、それも楽しみ。自分がどのように対応していくのか、自分に対する期待が大きいです」

 雄大さんの18年の人生は“定住”ではなかった。2003年6月20日、宮城県気仙沼市で酒屋を営む奥玉家の長男として生まれた。自宅の目の前には太平洋が広がっていた。「海が好きで、外で体を動かして遊ぶことが好き。父と釣りや野球をしていました」。潮風感じる港町で伸びやかに育ち、PL学園高OBである父・真大さんの草野球について行っては試合を見ていた。

 穏やかな日常が一変したのは、南気仙沼小1年の3月。東日本大震災の発生である。2011年3月11日、14時46分。マグニチュード9.0という日本の観測史上最大の地震が東日本を襲った。海底の断層が動き、海面が変動。大好きな海が、牙を剥いた。

「あ、また地震が来た」。9日と10日も地震が起きており、「またか」と思ったのも束の間。「全然、レベルの違う地震が来た」。その時、雄大さんは学校の授業を終え、校地内の学童の教室にいた。宿題に取り組んでいたタイミングだった。

 この日、真大さんは南気仙沼小を間もなく巣立つ6年生に向けた講演を頼まれ、来校していた。PL学園高の「KKコンビ」に憧れ、中学1年で気仙沼からPL学園中に進んだ真大さん。壮大なチャレンジをした経験から、自分を信じることの大切さを話し、「自分が自分の一番のファンであれ」と伝えた。

 揺れが収まり、真大さんは校長室から雄大さんがいる学童へ。「おばあちゃんのところに行くから、雄はここにいろ」という父に「僕も行く」と行ったが、「先生の言うことを聞いていろよ」と残された。真大さんは海沿いの自宅に向かうため、学校の方が安全だと判断したのだった。

 雄大さんは先生の指示で校舎へ。3階の教室にいた時、海水が校舎内に入ってきた。教室のカーテンは閉じられ、外が見えないように配慮されていたが、7歳の少年である。友達と行ったトイレの窓を興味本位で開けた。「うわ! なんか、水が来ている。黒ッ!」。これはやばい! そう感じて教室に戻った。

■母と再会するまで鮮明な記憶

 海から約1.7キロに位置する南気仙沼小は校舎1階の天井付近まで浸水した。児童や教職員、近隣住民など約600人が避難していた。

 夜は眠れず、暗いはずの外は赤かった。後に、あれは気仙沼湾の大規模火災だったと知った。

 12日の午後。自衛隊の車で気仙沼市総合体育館へ。見慣れた街は「全部、泥」。人々の暮らしを支えてきた物は形を変え、色を失っていた。状況が物語る深刻さは小学1年生でも理解できた。泥を掻き出している人々の姿も目に焼き付いている。家族とはまだ会えていなかったが、「大丈夫だろうなって、ずっと思っていました」。

 体育館では、家族や知人の情報を求める張り紙や写真が増えていったことを覚えている。名前や電話番号が書いてある紙を7歳の少年はくまなく目を通した。「人よりも知りたいという欲求が強くて、漢字も読めるものはありました」。避難者も張り紙も増える中、自分の家族に関する情報はないか目を凝らした。読めないものは自分が知りたい家族に関する情報ではない。配給がはじまると、「家族のみんなも体育館に来るものだと思っていたので」と、自分の分とまだ会えていない家族の分のおにぎりを受け取った。

 友達は家族が迎えに来て、どんどん帰って行く中、雄大さんと従兄弟は残っていた。そこまでの記憶はかなり鮮明だが、母親と体育館で再会した後のことはあまり覚えていない。きっと、安心したのだろう。

 気仙沼中で家族全員がそろった。だが、海の目の前にあった自宅も酒屋の店舗も失った。2ヶ月ほど避難所で生活し、仮設住宅に入居した。入学した南気仙沼小の校舎は津波の影響で使用できなくなり、2年時は気仙沼小を間借りして学校生活を送った。

※南気仙沼小は2012年3月に閉校し、同年4月、気仙沼小と統合した。

■楽天ジュニアで全国レベルを体感

 小学3年から岩手県北上市に移住した。父・真大さんが社会人野球時代の縁で、花巻市にある富士大硬式野球部のコーチに就任したからだ。当時、富士大には山川穂高選手や外崎修汰選手(いずれも西武)らがおり、2014年春から北東北大学リーグで10連覇を果たすチームを支えた。

 黒沢尻北小に転校した雄大さんは、スポーツ少年団で野球とバスケットボールに打ち込んだ。野球一本に絞った6年生の時、NPB12球団ジュニアトーナメントに出場する楽天ジュニアのセレクションを受験。合格した。「みんな、体がでかいし、プレーもすごくて、最初はビビりました」と笑う。大会本番ではもっと驚いた。

「どのチームもエース級のピッチャーの球速は120キロ中盤で、ソフトバンクジュニアだった関戸(康介、現日体大)君なんて、130キロのボールを投げるんです。全国って、こんなにも違うのかって思いました」

 グループリーグを突破し、決勝トーナメントに進んだが、優勝することになる中日ジュニアに延長8回タイブレークで敗戦。3位だった。

 上野中では硬式野球のクラブチームである花巻シニアでプレーし、高校は長野県にある佐久長聖に進学した。

小学3年で転校し、黒沢尻北スポーツ少年団でプレー。6年生の時は楽天ジュニアを経験した(奥玉雄大さん提供)
小学3年で転校し、黒沢尻北スポーツ少年団でプレー。6年生の時は楽天ジュニアを経験した(奥玉雄大さん提供)

■「新しい土地に行くというのはすごく好きですね」

 佐久長聖の藤原弘介監督と、父・真大さんはPL学園高の同級生。高校は自宅がある岩手県や幼少期を過ごした宮城県でもなく、「遠くに行きたい」と考えていたため、その縁から自分で決めた。

 東北地方から進学した部員はいなかったため、誰もが初対面。「どこから来たの?」などと自分から積極的に話しかけ、ゼロから人間関係を作っていった。それは望んでいたことでもあった。

「小学校で転校した時も新しいところに行ってみたいという気持ちが強かったので、すごく楽しみでワクワクしていました。新しい土地に行くというのはすごく好きですね、自分は。新たな場所で友達がいっぱいできるので、楽しいと思います。ネガティブに捉えたことはなくて、苦ではありません。高校も家から離れたところに行きたいと思っていましたし、アメリカに行くということにもつながっています」

 考えてみれば…。およそ35年前、中学生だった父は気仙沼からPL学園の門を叩いている。

 PL学園高の全盛期。小学生の真大さんは甲子園の季節になるとテレビに釘付けだったという。高校はPL学園に行くと決めていた。中学1年でリトルリーグが終わり、その後を考えているタイミングでPL学園中があることを知った。父親が問い合わせると最初は門前払いだったが、PL学園中の軟式野球部からPL学園高の硬式野球部に毎年、1人は入れる可能性があると言われた。

 行かなければ可能性はゼロ。行けば、そのパーセンテージはゼロではない。一縷の望みにかけ、中学1年で気仙沼を飛び出した。PL学園中の1学年上からPL学園高硬式野球部に入った人はおらず、同学年では真大さんだけが入ることができた。1学年下も1人が入部したが、2学年下はゼロだった。

 1992年のセンバツ大会。憧れ続けたユニホームの背番号14でベンチ入りすると、代打で出場した1回戦で適時二塁打を放った。

 真大さんはかつて「自分を信じて行ったからね」と言っていたが、息子もまた「自分も、自分を信じています」という。親子である。

■今の自分があるのは――

「気仙沼にそのままいたら、どうなっていたのかなって、考える時もあるんです」

 2011年3月11日。あの日の午後がいつものように過ぎていく。学童から家族が待つ家に帰り、夕飯を囲んで風呂に入って、眠りにつく。そして、12日、土曜日の朝を迎えていたら、自分の人生は、世界はどうなっていたのだろう――。

「北上でも友達ができて、軟式野球をやって楽天ジュニアにも選んでいただいて。花巻シニアでも佐久長聖でもいい仲間に恵まれて。やっぱり、震災というのは自分にとって、大きかったと思います」

 永遠に続くと思われていた日常は一瞬にして変わった。

「でも、それがあっての今の自分なので」

 雄大さんはサラッと言ってのける。

「ちっちゃかったというのもありますが、震災の時も辛いとか悲しいという感情より、新しいことばかりだったので、ワクワク感があったというか。自衛隊が来て体育館まで運んでくれたり、自衛隊のお風呂に入れたり、支給される食べ物を食べたり、全部が新しいこと。家がなくなったのは、やっぱり、悲しかったですが、避難所の中学校で生活したり、仮設住宅に住んだりした体験もプラスに捉えて、ずっとここまで生きてきているのかなという感じはしますね」

 大人は“被災地の子”をかわいそうだと気遣う。確かに、恐怖や不安に怯え、トラウマを抱えた子も多かったことだろう。明日が来なかった人や故郷を奪われた人…、人の数だけ、思いや事情を抱えた人生がある。だからこそ、雄大さんの感覚も、今、その瞬間を生きる当時7歳の無垢な子どものリアルである。

 そのポジティブな精神は、6月に19歳を迎える青年になっても変わっていない。高校卒業後の進路を考えるにあたり、自分の人生をどう創造していくか、自身の心と向き合った。「みんなと一緒よりも、違う道で自分は頑張ることが好き」、「みんながやっていることだったら、自分もそれをやるのは面白くない」、「ちょっとやそっと傷ついても、時間が経てば大丈夫かなって感じ」――。この感覚で生きてきた18年。心躍るワクワクする道は、海の向こうにあると感じた。

「ワクワクしたい人間です(笑)」と雄大さん。中学1年でPL学園中に進んだ真大さんの息子だけに、ある程度の想定をして取材に臨んだが、想像の斜め上を行く18歳だった(筆者撮影)
「ワクワクしたい人間です(笑)」と雄大さん。中学1年でPL学園中に進んだ真大さんの息子だけに、ある程度の想定をして取材に臨んだが、想像の斜め上を行く18歳だった(筆者撮影)

■お父さんは「不思議なパワーを持っている」

「なんだろうな…。失敗を考えることがないので。とりあえず、挑戦して、挑戦して、みたいな感じです。別にできなかったら、できるようになるまでやればいいし、時間がかかっても、最終的にできたら変わりはないので。やり方も学んでいけばいいや、って思いますし。前例がなくたって、他人(ひと)は他人(ひと)だし、って感じですね」

 そう話す雄大さんの一言一句にペンを走らせながら、やっぱり親子だな、と思った。2019年4月、雄大さんの父・真大さんは盛岡中央高(岩手)の硬式野球部監督に就任した。その際、選手たちに伝えたいこととして、こんな話してくれたことがある。

「対自分だからね。相手のことを考えると無理もするし、背伸びもしたがるし、落ち込んだりすることもある。だから、対自分を大事にやっていきたいなと思う。誰がどうとか、人がどうとか気になるところだけど、本質的なことはそこではなく、自分がどうかということだからね。結局、最後は自分だから。自分が楽しかったか、自分が充実していたか。そこを大切にしていきたいなって思うね」

 監督に就く前、真大さんは未来への希望を失いかける大病と戦ったが、生存率や発症率は「他人(ひと)は他人(ひと)であって、私の体は私の体」と気にしなかった。雄大さんは「お父さんだから、大丈夫だろうという感じでした」と振り返る。

「父は優しいし、頼りになるし、不思議なパワーを持っていると思っています。よく分からないんですけど、なんか、“すごい人”とはまた違うものがあるなって感じで、本当に尊敬しなきゃいけない人。他にも尊敬している人はいるんですけど、この人は絶対、そうしないといけないなって思うというか。この人だけは、みたいな感じです」

 “尊敬度”が溢れ出ている。

■“自分のための人生”を生きる

 雄大さんには座右の書がある。

「本の中に書いてあった〈未知を楽しめ〉がすごく印象に残っています。人は自分がやったことがないこと、未知のことに対して不安や恐怖を感じますが、今も名前が残っている偉人は誰もやったことがない領域に踏み込んで行動し、楽しんだ先に成果があった。自分もそれ、好きだなって思って、〈未知を楽しめ〉ということが印象に残っています。これから行くアメリカも自分にとっては未知ですから」

 高校野球を引退後、読書に目覚めたという。『エッセンシャル思考 最少の時間で成果を最大にする』(グレッグ・マキューン=著、高橋璃子=訳)を読み終えた昨年11月頃、「他の本も読みたいな」と書店で出会ったのが、自己実現のバイブルであるウエイン・W・ダイアーの『自分のための人生』だった。細かい話をすれば、〈未知を楽しめ〉という一文が出てくるわけではない。『エッセンシャル思考』から抜粋すれば、雄大さんが『自分のための人生』を要約した結論であり、ウエイン・W・ダイアーから受け取った”メッセージ”である。

 『自分のための人生』の5章の「1 人生における「黄金の日々」とは?」はこんな書き出しではじまる。

 人間の一生でもっとも無益な感情が二つある。

「すんでしまったことに対する自責の念」と、「これから行うことへの不安」である。

 雄大さんの18年は、過去や未来にとらわれず、新しいこと、未知へのチャレンジの連続だった。自分の感覚とピタリとハマり、ビビッときた『自分のための人生』。何より、「“自分のための人生”という言葉がすごく好きです」とタイトルそのものも気に入っている。

「名は体を表す」のことわざの通り、スケールの大きな青年は5月に渡米予定。日本から見ていたアメリカを、その地でどう体感するのだろうか。アメリカから見る日本はどう映るのだろうか。そして、世界はどう見えるのか。

「何をやったことがなくて、何がやりたいか、今は曖昧なことが多いんですけど、アメリカで過ごす中で自分が『これをやってみたい』とか『これはやったことがないな』ということに、その時の“今”になって『やりたい』と思ったものをやりたいですね。だから、考えていることはあるんですけど、僕もこの先のことは分かりません(笑)」

 未来への不安は一切ない。あるのは常にワクワクしている“今”だけ。

 さぁ、未知への冒険が始まる。プレーボールをかけるのは、自分だ。

 Enjoy the unknown!

『自分のための人生』から、未知を楽しむことの大切さを感じ取った雄大さん。アメリカでの学びを通じ、どんな未来を創り出していくのだろうか(筆者撮影)
『自分のための人生』から、未知を楽しむことの大切さを感じ取った雄大さん。アメリカでの学びを通じ、どんな未来を創り出していくのだろうか(筆者撮影)

フリーライター

1987年3月7日生まれ。宮城県栗原市(旧若柳町)出身。大学卒業後、仙台市在住のフリーライターとなり、東北地方のベースボール型競技(野球・ソフトボール)を中心にスポーツを取材。専門誌やWebサイト、地域スポーツ誌などに寄稿している。中学、高校、大学とソフトボール部に所属。大学では2度のインカレ優勝を経験し、ベンチ外で日本一を目指す過程を体験したことが原点。大学3年から新聞部と兼部し、学生記者として取材経験も積んだ。ポジションは捕手。右投右打。

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