命が大切にされる安全な社会を-御巣鷹、震災、つながる遺族

日航安全啓発センターには墜落したジャンボ機の残骸や乗客の遺書などが展示されている

宮城県大崎市の田村孝行さん(55歳)、弘美さん(53歳)夫妻は、東日本大震災の津波で七十七銀行女川支店(宮城県女川町)に勤めていた長男健太さん(当時25歳)を亡くしました。高さ10メートルほどの支店屋上に一緒に避難した上司や同僚ら11人とともに屋上をはるかに越える津波にのまれ、健太さんのほかにも3人が亡くなり8人が今も行方不明です。屋上への避難は支店長(行方不明)の指示でした。

なぜ支店長は走れば1分で行ける高台に逃げず、屋上への避難を指示したのか。会社組織としての防災態勢、津波被災想定はどうだったのか。悲劇をきちんと検証し、再発防止に必要なことを考えたい。従業員の命を守るため、企業は安全意識を高めてほしい。命が大切にされる安全な社会であってほしい。夫妻は春も夏も秋も冬も毎週末、女川の現場近くにつくった慰霊碑の前に遺族の仲間と立ち、語り部活動をして訴えています。健太さんの命を生かし続けるためにとの信念からです。夫妻の活動は昨年11月の本欄で紹介しました。記事はこちら

そんな田村さん夫妻が7月22日、東京・羽田空港にある日本航空安全啓発センターを見学に訪れました。31年前の1985年8月12日、群馬県・御巣鷹の尾根に墜落した日航ジャンボ機の残骸や、乗客が機内で記した遺書などが展示されている施設です。遺族の有志でつくる8・12連絡会の事務局長、美谷島邦子さん(69歳)が招きました。

墜落までの状況を聞く田村さん夫妻(中央の2人)。左端が美谷島邦子さん=7月22日
墜落までの状況を聞く田村さん夫妻(中央の2人)。左端が美谷島邦子さん=7月22日

美谷島さんは、日航という大企業や国と闘い続けてきた先達です。

一度に520人が亡くなった御巣鷹の事故は、単独機としては今も世界の航空史上最悪。ディズニーランドや科学万博を楽しんだ夏休みの家族が、甲子園観戦を楽しみにしていた1人旅の野球少年が、出張のサラリーマンが大勢乗っていました。歌手の坂本九さんや宝塚女優ら著名人、名だたる有名企業の幹部も犠牲になりました。凄惨な現場から4人の生存者が見つかった奇跡と併せ、日本社会全体が騒然となった大事故でした。

さまざま境遇は違えども、遺族同士で手を取り合い、悲しみと怒りを共有し、励まし助け合いながら霊を慰めようと、美谷島さんが新聞に載った乗客名簿を手掛かりに呼び掛け、事故から4カ月後に8・12連絡会が発足しました。事故の原因を究明し、教訓を世に問い掛け、公共輸送機関の安全性を厳しく監視していくことも会の目的としました。当初からずっと美谷島さんが事務局長です。

美谷島さんは次男の健さん(当時9歳)を亡くしました。前述した1人旅の野球少年が健さんです。甲子園で高校野球を応援したいと、ちびっ子1人旅の搭乗制度を利用して大阪の親戚宅へ向かう途中でした。

連絡会は日航や運輸省、航空事故調査委員会、警察・検察当局へ数えきれないほど申し入れをしました。日航や機体を製造した米国ボーイング社の幹部、整備責任者を告訴、告発もしました。しかし日航はもともと戦後の国策でつくられた半官半民の会社で、遺族にとってその対応は何とも官僚的で冷たいものでした。運輸省や捜査機関も美谷島さんたちの声に耳を傾けるようなことはほとんどありませんでした。

事故原因はボーイングがやった後部圧力隔壁の整備ミスとされましたが、誰も刑事責任は問われませんでした。それでも連絡会は遺族の視点から各方面にさまざまな要望や申し入れをし、事故原因に対するさらなる分析や航空機の安全向上のための研究部会を自主運営しました。

徒手空拳のような活動の風向きが変わったのは、事故から20年もたった2005年でした。大きな事故には至りませんでしたが、重大な運航トラブルが日航に相次ぎ、国土交通省から厳しい行政処分を受けました。乗客離れも深刻となり、経営上の根本課題として安全と真正面から向き合うことを迫られたのです。

尾翼を見つめる田村さん夫妻。左は七十七銀行女川支店で姉が犠牲になった丹野礼子さん
尾翼を見つめる田村さん夫妻。左は七十七銀行女川支店で姉が犠牲になった丹野礼子さん

事故調査が終わった後、原因究明の焦点となった後部圧力隔壁や尾翼などの残存機体は日航に返却され、成田空港の整備地区でひそかに保存されていました。腕時計やアクセサリー、めがねのフレームなど持ち主が分からない乗客の遺品も多数ありました。連絡会がこうした機体や遺品の保存や公開を申し入れても、日航の歴代幹部は「見たくないという遺族もいるので、いずれ廃棄する」と、かたくなに拒み続けていました。

ところが05年当時の社長が一転、機体の保存を表明したのです。「御巣鷹事故20年の節目にトラブルが相次いだ反省から、御巣鷹の教訓を風化させないようにしたい」と。安全問題を論議した第三者機関の提言もあり、安全啓発センターをつくって機体や遺品、関係資料を展示することも決まりました。主に社員の安全研修目的ですが、一般の希望者も申し込み制で見学できるようにしました。

当時私は社会部の航空担当記者をしていました。企業というのはトップの決断一つでがらりと変わるものだなあと感心した記憶があります。

墜落機の航跡図を見る田村さんたち
墜落機の航跡図を見る田村さんたち

08年からは国交省が公共交通事故の被害者や遺族を支援する態勢を整え始めました。それまでは航空や鉄道の大事故が起きても、被害者や遺族の対応は航空会社や鉄道会社任せでした。事故発生からしばらく、家族や遺族には役所や警察が持つ公的な情報は何ももたらされず、ほったらかし。航空会社や鉄道会社は当事者として補償問題も発生することから、社員の対応は官僚的で硬直なものになりがちです。遺族は愛する人を突然亡くした悲しみに加えて二重に心を痛めました。御巣鷹だけでなく、どの事故でもそうでした。

御巣鷹事故から20年を越えて日航と国の姿勢が変わり、美谷島さんたち遺族が訴え、求め続けてきたことが、いくつも現実となったのです。

事故から30年の昨年夏、美谷島さんの著作を田村弘美さんが読み、手紙を送って交流が始まりました。震災後、美谷島さんは被災地にボランティアで何度も駆けつけ、児童74人が津波の犠牲になった宮城県石巻市立大川小学校の惨事を検証する委員も務めました。田村さん夫妻とも、いずれ出会う運命だったのかもしれません。

啓発センターがある社屋の前で。左右両端が田村さん夫妻、左から3人目が美谷島さん
啓発センターがある社屋の前で。左右両端が田村さん夫妻、左から3人目が美谷島さん

年は違えど、息子同士はともに野球が大好きで、同じ「健」の字です。田村さん夫妻と美谷島さんの距離は急速に縮まりました。さまざまな公共交通事故や災害の遺族、航空、鉄道、船舶などの運輸関係者が集う御巣鷹の尾根にも昨年8月、一緒に登りました。1人1人の命が何より大切にされる安全な社会の実現を願う気持ちは、みな同じなのだと夫妻は思いを新たにしました。

そのつながりで初めて訪れた日航の安全啓発センターです。一歩入ると、まず大きな尾翼の残骸が展示されていました。ジャンボ機の姿勢や高度、速度を記録したフライトレコーダー(飛行記録装置)、操縦室の会話を記録したボイスレコーダー(音声記録装置)もガラスの中に置かれています。当時のテレビニュースを編集した映像が流れる画面の前で、安全推進を担当するベテラン社員が墜落に至るまでの状況を詳しく説明しました。

展示された垂直尾翼の説明をする日航のベテラン社員(右)
展示された垂直尾翼の説明をする日航のベテラン社員(右)

歩みを進めると圧力隔壁が置かれています。ボーイングの整備ミスをきっかけに、長い年月をかけて隔壁に亀裂が入った事故原因についても説明があり、飛行機に詳しくない人でも理解しやすいようになっています。

続くエリアには生々しく折れ曲がった乗客の座席や、急降下する機体の中、必死の思いで乗客が家族にあてて記した遺書のコピーが置かれています。「本当に今までは幸せな人生だったと感謝している」「恐い、恐い、恐い、助けて」「子供よろしく」。血染めのものもあります。

海上への不時着を想定して乗客の避難誘導手順をメモした客室乗務員の手帳の展示を説明したとき、ベテラン社員は当たり前のように「対馬は・・・」と、その乗務員名を呼び捨てにしました。31年前の事故で亡くなった乗務員を、同じ会社の仲間として敬称なしで呼ぶ矜持。田村さん夫妻は「事故と向き合う姿勢が浸透している」と感じました。

日航の死亡事故全てが写真や資料展示で説明されている
日航の死亡事故全てが写真や資料展示で説明されている

06年に開設された安全啓発センターには、この10年間で約18万人が訪れました。半数は日航グループの社員、半数は社外の人だそうです。御巣鷹事故後に入社した社員が9割を越え、日航にとっても欠かせない事故防止と安全意識継承の場になっています。

そして美谷島さんや連絡会のメンバーは、日航グループの社員研修に講師として招かれるようになりました。空前の大事故を起こした加害企業と、その事故で最愛の家族を亡くした人たちが、恩讐と相克を越えて安全社会の実現に向けて真正面から向き合うようになったのです。国交省も被害者遺族支援の政策を充実させるため、美谷島さんたちに意見を求めています。

美谷島さんは言います。「事故でも災害でも、失われた命を生かし、一つでも多く教訓を残していくことが大切。忘れさせない闘いって、本当に大変なんです。私自身、この羽田空港に来ることはすごくきついことだけど、遺族の声で安全啓発センターができて、命を生かしていると実感できる。飛行機も鉄道も船も自動車も、命を預かって運んでいる人たちがここで教訓を学び、安全文化を高めていると感じています。田村さんたちも、次の災害では命を一つでもなくさないようにと闘っています。現場から遺族が発信するって、すごく勇気がいることだし、社会にはいろいろな誤解もきっとあるだろうけど、その中で続けることが一番ですよね。ぜひ発信を続けてほしいし、私もお手伝いしたい」

美谷島さんはどうして30年続けることができたのですかと、私は尋ねました。

「一番大きいのは仲間がいたから。それと、健がいつも一緒にいてくれるから。事故5年過ぎたあたりから、いつも一緒にいてくれてるなあって思うようになりました。田村さんたちも息子さんや銀行で亡くなった方たちがいつも一緒にいて、何があっても守ってくれてるんだという気持ちがあるんじゃないかな」。美谷島さんは何度もうなずきました。

慰霊碑前で。左から2人目の成田さんは娘さんが、右端の高松さんは妻が今も行方不明
慰霊碑前で。左から2人目の成田さんは娘さんが、右端の高松さんは妻が今も行方不明

田村さん夫妻は七十七銀行の人たちとともに、女川支店で起きた悲劇を検証し、再発防止の教訓を得て、社会に広く発信したいと考えています。それがわずか25歳で短すぎる人生を終えなければならなかった健太さんの命に報いる唯一の方法だからです。真相を少しでも知りたいと思って銀行を相手に起こした訴訟は、民事ですからどうしても法的責任や過失の有無が争点になってしまい、願った真相究明はかないませんでした。最高裁まで争って敗訴した今、互いに原告でも被告でもありません。銀行の皆さんが女川支店で犠牲になった12の命と向き合い、心から悲しみを共有し、命を生かすために行動してくれることを切に願っています。

田村さんたち遺族の有志が女川に建てた慰霊碑には、まだ1人も七十七銀行の人たちが来たことはないそうです。日航は事故から20年たって、トップが決断しました。七十七銀行もいつか頭取が決断するのでしょうか。あるいはトップの指示がなくとも、健太さんの上司や同僚だった仲間が、良心にかきたてられ個人で動き始めるのでしょうか。

教育管理下で子どもたちが津波の犠牲になった大川小や日和幼稚園(宮城県石巻市)の遺族が感じている市や学校や園への不信の根本原因は、惨劇に真正面から向き合わず、事実をきちんと検証しようとしない不誠実な姿勢にあります。自分が事故や災害で、ある日突然子どもを失う当事者だったとしたらどう感じるのか。想定外の自然災害だから仕方がなかった、では絶対に済まないはずです。人としての想像力があれば、答えは簡単に出ると思います。

田村健太さんの名札や名刺、ネクタイピン。前途洋々の若き銀行マンだった
田村健太さんの名札や名刺、ネクタイピン。前途洋々の若き銀行マンだった

まもなく日航ジャンボ機墜落事故から31年の8月12日です。御巣鷹の尾根には美谷島さんら日航事故の遺族はもちろん、鉄道事故や高速バス事故、エレベーター事故などさまざまな惨事の遺族が全国から集まります。田村さん夫妻ら阪神や東日本の震災遺族も登ります。無念にも奪われた数々の命に思いをはせ、安全社会の実現を固く誓う夏の一日に、今年もまたなることでしょう。

【追補】本稿執筆中に相模原市の障害者施設で入所者19人が刺殺される事件が起きました。あまりのひどさに言葉もありません。すべての命が大切にされる安全な社会は、そう簡単にはやってこないのだと突き付けられた感がします。犯罪もまた、なぜ起きたかという過去の検証と、将来に向けた再発防止の取り組みがさまざまなされるべきだと考えます。単にあの26歳の元職員を厳しく処罰すればよいというものではありません。