3・12からが本当の勝負だ! 震災原発わが事として

福島県大熊町で唯一行方不明の木村汐凪さんを捜す父紀夫さんと仲間たち

東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から5年となる3月11日を前に、新聞、テレビ各社は節目の特集を相次いで報じました。私が勤める共同通信も同じで、全国の加盟新聞社向けに2月下旬から連日2~4ページの特集が組めるよう大量の記事や写真、グラフィックスを配信しました。

遠隔地の加盟新聞社の方々と話をすると「普段はなかなか震災の記事を載せるタイミングがないが、やはり3・11、それも5年の節目となると、さまざまな角度の記事をきちんと掲載して読者に伝えたい」と言う声を多く聞きます。こうした受け手の期待がある以上、送り手としてはバラエティに富んだ震災特集づくりをしようと、つい力が入ってしまいます。

だけど3月11日は記念日じゃありません。震災・原発事故は進行中の話です。被災者は誰もが「節目はない」と言います。福島、宮城で震災報道に取り組んできた者の一人として、風化に加担しないためにも「5年だ」「節目だ」に関係なく書き続け、報じ続けていこうと思います。

自戒を込めて叫びます。3・12以降が本当の勝負だと。

被災地以外の人たちが震災・原発事故をわが事として考えるきっかけになればと思い、私はいつも記事を書いています。わが事とするヒントは被災者の言葉にあります。

「21年前、阪神大震災のニュースを見ても自分のこととして受け止めていませんでした。息子を失って初めて、ある日突然家族を奪われる悲しみ、苦しみを知りました」

津波で銀行マンだった25歳の長男健太さんを亡くした宮城県大崎市の田村孝行さん(55)の悔いです。

宮城県女川町の慰霊碑前で企業の防災意識、社会の安全向上を訴える田村孝行さん。
宮城県女川町の慰霊碑前で企業の防災意識、社会の安全向上を訴える田村孝行さん。

宮城県女川町の支店に勤めていた健太さんは、走れば1分ほどで行ける高台ではなく、支店長の指示で同僚たちと高さ10メートルの支店屋上へ移動し、巨大津波に襲われました。

助かったはずの命を奪われた悔しさ。なぜ高台ではなく屋上だったのか。真相を明らかにしたいと銀行を訴えましたが一、二審とも敗訴、最高裁でも上告を棄却され、法廷でのたたかいは終わりました。でも社会へ問い掛け続けることが、天国の健太さんから託された使命です。

「高台へ」。七十七銀行女川支店で亡くなった行員の家族が建てた慰霊碑の言葉。
「高台へ」。七十七銀行女川支店で亡くなった行員の家族が建てた慰霊碑の言葉。

企業は従業員の命を守るため防災意識を高めてほしい、一人一人の命が大切にされる安全な社会であってほしい。女川で、各地で、妻弘美さん(53)とそう語る活動を続けています。

今年1月、初めて神戸の被災地に行き、阪神大震災の遺族と心を交わし合いました。昨年夏には群馬県・御巣鷹の尾根に登り、日航ジャンボ機墜落事故の遺族とも交流が始まりました。

「思い出は増えることがなく、減っていくばかり。遺族の現実を多くの人に知ってほしい」。津波で両親と8歳の長女、3歳の長男を亡くした福島県南相馬市の上野敬幸さん(43)です。

行方不明者捜索グループ福興浜団のリーダーとして、1階部分が大破した自宅を拠点にこの5年間活動してきました。その家は今年2月、ついに解体されました。

解体中の自宅前に立つ上野敬幸さん。柱がバキバキと壊される音が胸に刺さった。
解体中の自宅前に立つ上野敬幸さん。柱がバキバキと壊される音が胸に刺さった。

家族の思い出がたくさん詰まった家。行方不明の父と長男が帰ってくる目印でもあり、壊さないでいました。集中復興期間の被災後5年が過ぎると、解体費用の助成が受けられなくなります。1千万円以上の解体費は自腹では出せないし、補修しながら維持するにも金がかかります。仕方なく解体を決断しました。妻貴保さん(39)と涙をにじませながら解体を見守りました。

2月下旬、福島のラジオ番組に出演した上野さんは「子どもたちの声を忘れているんです。薄々感じてはいたんですが、震災前に撮ったDVDの映像をきょう見て・・・」と話し、泣き崩れました。

4人の遺影には毎朝あいさつしますから、顔を忘れるわけはありません。でも音の記憶が年月とともに薄れてきているというのです。人間は忘れる生き物だといわれます。この5年間家族と全ての行方不明者を毎日のように捜し続けてきた上野さんでさえ、五感の忘却と格闘しているのです。スタジオで上野さんの語る姿を見ていて、身震いがしました。

「地震が起きたら津波が来ます。無駄になっても高台へ逃げてください。命を大切にしてください。一日一日の幸せを大切にしてください」。これは宮城県名取市の港町・閖上(ゆりあげ)で妻と14歳の一人娘を亡くした陸上自衛官佐々木清和さん(49)の呼び掛けです。

震災発生直後から災害派遣で出動し、任務の合間に妻と娘の遺体を確認できたのは何日もたってからでした。独り身となって初めて、家族との平凡な日常がいかに幸せだったか気付かされました。

佐々木清和さんら家族を亡くした人たちが語り部をしている「閖上の記憶」。
佐々木清和さんら家族を亡くした人たちが語り部をしている「閖上の記憶」。

官舎で酒を飲みながら悶々と過ごす日々を経て、今は閖上を週末訪れる人々に、命とささやかな幸せの大切さを呼び掛けています。5年、10年といった節目に関係なく、これからもずっと語り続ける決意です。

社会のすべての人々が、こうした被災者や遺族の声に耳を傾け、わが事として震災・原発事故を感じ続けてほしいと思います。それは命と生き方を考えることにつながるから。地震、津波、豪雨、噴火と自然災害が多い国土で生きる私たちにとって、あすはわが身かもしれないから。

風化にあらがい、数ある教訓を次の災害の備えに生かさないと、失われたあまたの命が浮かばれません。